マンガレビュー 荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 第一部』

2021年度「サギタリウス・レビュー 現代社会学部書評大賞」(京都産業大学)

自由部門 特別賞作品

「技術の発展と諸問題を漫画から読み取る」

松見直弥 (生命科学部・産業生命科学科 3年次)

作品情報:荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 第一部』(集英社、1987年~1988年)

 この作品は「生きること」をテーマに、『ジョナサン・ジョースター(以後ジョジョ):人間』と『ディオ・ブランド―(以後ディオ):吸血鬼』の闘いを描いた作品である。当初、ディオはジョースター家に養子に迎えられ、ジョジョを陥れてジョースター家の財産を奪おうとするが、その企みはジョジョに見破られてしまう。その時、ジョースター家に保管されていた石仮面が人間の血に反応し、被った者を吸血鬼へと変貌させることが判明する。ディオの目的はその力を利用して世界を征服することに変化する。ジョジョはそんなディオを打ち砕くため、ツェペリ男爵から波紋エネルギーを教わり、様々な人物から多くのものを受け継ぎ、心身が成長していく。一方、ディオは恐怖によって手下を携えてジョジョ一行と対峙する。

私はこの作品の画風や台詞回しは他の漫画とは一線を画す者だと考える。それと同時に私はこの作品はジョジョとディオの両者は人間そのものを表現しているのではないかと考えた。特にジョジョは人間の持つ「慈悲」を表し、ディオは人間の「エゴ」を表していると考えた。そのように考えられる点は以下である。

まず、ディオは不老不死であり、生きていくために人間の血(犠牲)を必要としている点である。これは現在の医療や創薬の技術の発展と重なると考えられる。医療技術の発展は一方で様々な病気の治療を可能にしたり、人間の寿命を延ばしたりしている。他方でその技術の発展の背景には多くの実験動物の犠牲の上で成り立っている。このように、医療と創薬の進歩が人間に与える恩恵と、その進歩には生き物の犠牲になっていることを表しているのではないだろうか。

加えて、吸血鬼が人間の犠牲にする構図は人間が家畜を犠牲にしていることとも通ずると考える。特にツェペリ男爵が放った「きさま―いったい何人の生命をその傷のために吸い取った!?」という問に対してディオは「おまえは今まで食ったパンの枚数をおぼえているのか?」と返答していた。これは食事の際にどれほどの家畜を口にしているのかを知らないことを表現しているのではないだろうか。

そして、ジョジョは生き物を再生・治療できる波紋エネルギーを使用している点である。特にブラフォードの「この『痛み』こそ『生』のあかし」という台詞から人間は他者の「痛み」を理解することが出来ることを表しているのではないだろうか。また、ツェペリ男爵の「『勇気』とは『怖さ』を知ることッ!『恐怖』を我が物とすることじゃあッ!」という台詞も人間の技術そのものが他者に与える恐怖を鑑みることが出来ることを表していると考えられる。この波紋エネルギーには「勇気」が必要であるとされている。つまり、人間は、先述した医療技術の発展に伴う犠牲や他者への影響は考慮することが出来るが示唆されていると考えた。

以上のことを踏まえて考えてみると、ジョジョがディオに放った「ぼくらはやはりふたりでひとりだったのかもしれないな」という台詞は人間に内在する「エゴ」と「慈悲」を暗喩しているのではないだろうか。

以上のように『ジョジョの奇妙な冒険 第一部』は、単に迫力のあるタッチの絵で描かれたバトル漫画としてだけでなく、我々人間の性質とそれに付随する進歩の本質を捉えた作品である。

<審査員コメント>
独特の切り口ではあるが自身の見解が多く盛り込まれており、いかにも書評然としていた。

©現代社会学部書評コンテスト実行委員会