冒険者夜舞エピソードゼロー初九州ツーリングー

こんにちわ、冒険者の夜舞です。

今回は久々に九州に行ったら、そういや始めて特に何も考えずノープランで旅したのって九州だったと思い出して、僕的には色々印象深い思い出なのに時期的に学校も修論出したばかりで行かず、入社直後にそんな詳しい話もしないという事で、あまり外に出した事もないと思い出したので、せっかくなので書き出してみました。

正直もう10年以上前の話なのでかなり記憶も曖昧です。

それでも良ければ読んでください。

旅立を決意

あれは僕が修士課程二年の事です。
あの頃はもうこの研究はやりたくない。一日も早く修士論文出して自由になりたいとい思いをずっと抱えていました。

そして念願の査読終了。修士論文発表終了。修士論文を学校に提出して、残すは卒業式のみなので研究室にも行く必要がない!

という事で早々に下宿を引き払って実家に戻り、これから先待っているのは数十年にも及ぶ辛い社畜生活。
なら今こそ旅に出ようと、就職が終わって購入したけど研究とバイトの日々であまり乗っていなかった愛車セロー250と九州別府行きのフェリー片道券。そして寝袋だけを持って出発しました。

どこに泊まるのか、いつ帰るのかさえ決めていない自由への片道キップ!!

今の僕からしたら、そんな大層な話でもないしまぁ、たかが九州行く程度でよくまぁそんな高揚したものだと思いますが当時の僕はロングツーリングすらまともにしてないぐらいの人間だったので仕方がありません。

ちなみに社会人になって待っていたのは、辛い社畜生活でもなく普通に仕事は楽しく、休みは学生時代よりはるかに多くて週末はバイク乗り放題の楽園みたいな生活でした。
いかに学生の思い描く社会人像が狭いかっていうのを物語るエピソードです。

学生の思い描く社会人像って大体間違っているから学生の人達は社会人の盛りに持った話は話半分程度に聞いておいた方がいいですよ。特に理系は。

後、これで野宿するって意気込んで持っていた寝袋は速攻で濡れて使えなくなりました。
いや、防水袋すら持って行かないなんて何考えていたんだろうって本気で今なら思いますが、当時は寝袋さえあれば野宿できると信じていたっぽいです。我ながら頭が悪い…

大分に到着

話を戻して、初めてバイクでフェリーに乗るって事を経験してやってきた大分別府。もちろん、あの雑魚寝部屋に対策なしで乗ってまともに寝れる訳もなくほとんど寝てない状況でしたが、気分の高揚だけは最高潮でこれから始まる自由への旅への期待を噛みしめながら朝のコンビニでコーヒーを飲んでいました。

大多数の人間が察していると思いますが、この話って修論発表の後なので実は三月上旬ぐらいの話で三月上旬の別府って寒いんですよね。まだ…なので高揚しているって言うかただ震えていただけだって言うのが真相です。美化された記憶って怖い。

この頃はまだ学生だったので、ライディングジャケットにブーツどころか冬装備の手袋すら持っていませんでした。下もそんな高い装備持っていた記憶がないので下手するとジーパン+カッパみたいなペラペラな感じだった記憶があります。足回りは確かホームセンターで買った安全靴、グローブは秋、冬用のグローブの下にゴム手袋っていう今考えたら自殺願望かなみたいな
恰好で朝の別府にいたんです。若いっていうのはとにかくいろんな事が若いで乗り切れるから凄いと改めて感じます。今なら絶対やりたくないし、普通に耐えられる気がしないですが、実際に乗り切っていたんだからやっぱり若いっていうのはそれだけで価値のある物だとは思います。

その頃24なのでそんな若くもないんじゃないかってツッコミはなしでお願いします。

この頃から一番変わったと言えば、装備に対する意識ですね。社会人になってからは
ヘルメットってARAIかSHOEI以外ヘルメットじゃないし、プロテクター入ってないジャケットなんて怖くて着れない。長時間乗るならライディングブーツは必須

ぐらいにはなっていました。だからこそ若い人達の装備がなくてもバイクに乗るのに支障はないみたいな発言見ると

恥ずかしくて頭から火が出そうになるので、若い人達はそういう発言はほどほどにしておいた方がいいですよ。

そこからはとりあえず宇佐神宮に行って旅の安全を祈って、中津が唐揚げの聖地だって話を研究室で聞いた記憶があったので、中津へ行って唐揚げを食べ、確か飯塚辺りに泊まった記憶があります。当時は飛び込みで宿に泊まるっていう目標を掲げていた記憶があるのでどうやったかは覚えていないですが、飛び込みで宿交渉していたんだと思います。

今考えるとギリギリそういうのが許された時代だったのかな?と思ったり思わなかったり。

後でこの話を同期にしたら、飯塚に泊まるなんて自殺願望かなんかあるの?って言われた記憶が
あるので飯塚っていうのは危ない場所だったらしいです。今もそうなのか本当にそうなのかは未だによく分からないので、北九州の事情に詳しい人がいたら教えて欲しいです。

佐賀へ

二日目は飯塚から西に向かって佐賀へ向かいました。

博多へ行ったのか行ってないのかは記憶にないのですが、とりあえず佐賀方面に向かって走って噂で聞いていた佐賀が本当に何もない所なのかっていうのを確認しようとかいう佐賀県の人に言ったら怒られそうな事を思っていました。後教科書に必ず出てくる吉野ヶ里遺跡をぜひ見たいと。

朝の飯塚も寒かった記憶があるのですが、佐賀も寒かった。おまけに宿の人が方言きつすぎて何言ってるかさっぱりだった記憶も。
ちなみに肝心の佐賀は別に普通の都会でした。
そこらの田舎に怒られろ。後吉野ヶ里遺跡はやっぱり教科書に載っているだけあって凄い場所だったのでもし行った事ない人はぜひとも行ってみて欲しいです。邪馬台国があそこかどうかはちょっと未だに分からないですが…

熊本へ

とりあえず海沿いを南下して一刻も暖かい場所へ行こうと熊本へ向かいます。海沿いを走って熊本に到着。熊本城を見学に行きました!!
僕は結構学生時代に姫路城を見る機会が多かったので、熊本城にはそんなに期待していなかったのですがあの黒い城には圧巻されました。熊本城って消失した城なので例に漏れず復興した城なのですが、それでも復活にかける思いが凄くて偽物の情熱が本物を超えたと感動していました。だからこそ、地震で傷ついたって聞いた時は悲しくて仕方がなかったです。

そして感動した帰り道、旋回にミスって左レバーが破損しました。来てまだ1週間も経っていないのに…

そして八代辺りで泊まってなんだこのくっそ甘い刺身は
って思って一日が終わった記憶があります。

霧島神宮へ

ここら辺で海も飽きたし、山沿いを進んで南に行くかと思い立って、山沿いの道を進みました。球磨川、人吉などの地名を見て、めだかボックスって九州の地名から名称取っていたんだ!って感動したり、龍泉洞を見学して自然って半端ないって思ったりしながらえびのまでたどり着き、えびの高原から霧島へと進みました。
えびの高原登り始めたら、給油ランプがついて
え、こんな登り始めで…
戻った方がいいかな…でも、霧島まで行けば流石にあるだろう…

と、登山を続行。無事ガス欠前になんとか霧島にたどり着き、無事ガソリンを給油しました。九死に一生を拾ってよかった!と安堵。今度からはもっとリザーブを気にして走ろう!と決意しました。
が、10年間でこの経験至る所でやってます。学ばねーなと思いますが、給油ってギリギリまで引っ張りたいのはバイク乗りの性みたいなものなので仕方がありません。

この日は霧島温泉の観光協会に宿探しているって言って宿を紹介してもらいました。霧島は間欠泉がそこら中で吹き上がり、硫黄の匂いが溢れているっていうみんなの考えるThe温泉みたいな場所なのでまた行きたい、行きたいと思いつつ、10年間一度も行けなかったのは少し後悔です。霧島温泉本当にいい所だから九州の人も関西の人も行った方がいいと思うよ!

まぁ10年間行ってないので既にテーマパークに変わっているかもしれませんが…

霧島神宮に行った後に高千穂に行ったら、至る所に溶岩からの退避場所があって噴火中だから高千穂の鳥居から先に行けなかったりして、地球やばい。もしここでいきなり噴火したら死ぬな…って思ったり、こういう場所だから神話の神が降り立った地として選ばれたのだなとか思ってました。

鹿児島へ

次の日は霧島神宮から南に下って霧島から桜島を見ながら鹿児島へ向かいます。桜島も煙出ててこの辺りの火山物凄いし、とんでもない場所に来てしまったとか思ってました。このまま鹿児島行くと近すぎるから薩摩半島経由で鹿児島に向かいました。枕崎まで行ったような気もしますし、枕崎は遠すぎて南さつま辺りで妥協したような記憶もありますが10年も前の事なので覚えていません。

でも、確かマグロラーメンを食べて別々にこれ食べたいわーって思った記憶はあります。ちなみに後年大間辺りでマグロラーメンを食べて全く同じことを思った記憶もあります。同じ事を時間が経つと当然のように繰り返す成長しない感じが出ているエピソードです。
そして、鹿児島で西南戦争の事書いてある記述が我々はこうして新政府軍と戦ったって書いてあって、熊本城だと我々はこうして旧薩摩軍と戦ったって書いてあって近所ですら同じ事象の話している記述がこんなにも変わるなんて面白いよなーと。歴史って言うのを客観的に描くって言うのは不可能なんだろうなとこの辺りで実感しました。

志布志へ

鹿児島で泊まって思ったわけですよ。もう十分満喫したし、帰るかって。レバーも折れちゃったし、十分目的果たした。
まさかの1週間も経たず自由への脱走が完了するなんて思いもしませんでしたが、当時の僕的には大冒険をやり遂げた気分で一杯だったようなもうこれ以上はきついだったのかあまり記憶は定かではありません。
とにかく関西に帰る為に、志布志港へ向かいます。
未だに思い出しますが、この日は朝から大雨。とにかくカッパだけでは足りずいろんな物が濡れて大変だったという思い出が一番です。
これ以降の防水で困った事は数あれどこの日ほど雨に濡れてしんどかった日はありません。鹿児島付近って思い返せば返すほど雨降っていた記憶が多いので、鹿児島に嫌われているのかもしれません。
しかし、個人的には6日目まで雨の記憶がないなら十分天気には恵まれていると思いますが、当時としては絶望的に天に見放されたと思っていました。

朝から桜島にフェリーで渡り、桜島を回って志布志への道を進みました。桜島に雨という事で濡れた火山灰がバイクにまとわりつき、汚れに汚れて後の洗車が大変でしたが、それでも桜島の景色を満喫する余裕は朝はあり、桜島の至る所にある溶岩用の排水溝を見て桜島そのものの恐怖しました。

そして、志布志のロケット打ち上げ施設を見学したのち、フェリー乗り場に到着。予約もしていなくて乗れるか不安でしたが、なんとかフェリーに乗り関西に帰還しました。
あの日は帰りって事で部屋を行きのアップグレード券を使ってたこ部屋から個室に変えた記憶がありますが、とにかく持っていた物が濡れに濡れて大変だったという記憶しかありません。

無事帰れて一安心でしたし、しばらくはバイクはもういいって結構真剣に言っていましたが、喉元過ぎればなんとやらで会社に入る頃にはまたバイクにまたがって動いていたので、僕の人生みたいな物だと改めて感じました。

ここまで読んで頂きありがとうございました。よかったらスキ、読者登録よろしくお願いします。

当時の思い出今とそんなに大差ないなーと改めて思った冒険者の夜舞でした。



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