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枕流

キーボードで文章を書くのが久しぶりである。

いつもは大抵、自分の日記帳に思い付くまま、気の向くまま書いているのであるが、久しぶりにnoteに自分の思いを綴って見たくなった。

noteに書くとなると、人様の目に触れる訳だから自分の日記に書いている様に勝手気儘に書く訳にはいかなくなる。

多少なりとも、論理構成を考えたり、客観性を持たせる必要が出てくる。

そんな事をもう何ヶ月もやっていなかったから、ほんの数行書くだけで疲れ果ててしまった。

しかもたちの悪い事に、自分の日記にはイキって古文・漢文調で書いていた。読み直すと目も当てられぬ様な酷い文章であった。

私は、何かと自分語を作りたくなる習性がある。それは恐らく他人と違っていたいという欲望と、変な感性に由来している。

他の人と違っていたいという欲求は少なからず読んでいる皆様も感じたことがあると思う。何せ、資本主義の原動力は「人と違う価値を生み出せ」なのだから。

しかし生憎、私の「他人と違っていたい欲」は資本主義とも相容れないかも知れない。資本主義社会ではその欲を多くの人が求める価値に転化させなくてはいけないからだ。

例えば、私が数年前敬愛していた君管氏(YouTuberを勝手に日本語訳)に スーツという方がおられる。彼は鉄道マニアで、鉄道系の動画で日銭を稼ぐために君管氏を始めたそうだ。しかし、実際に必要な銭を稼ぐためには、自分の好きな事をして動画に収めるのではなく、世間の人が自分に求めるものを動画にしなくてはならないと語っていた。

また、愚愚流(Google)や甘村(Amazon)の企業理念を見ても、お客様のニーズに答える事が第一の優先事項らしい。彼ら曰く、市場競争よりもそちらを優先したとのことだ。資本主義の要である、技術革新(これも広義には他人と違っていたい欲から生まれるもの)もお客様の為にあるらしい。

何れにしても、人と違う事を売りにして、人に受けようという戦略で成功しているのである。

一方私は、人に受けようという事などさらさら眼中にない。よしんばあったとしても、それに努力を費やしたことはこれまでの人生で一度もない。私は単に変わっているだけで、そこに資本主義的価値は存在しなかったのだ。

久し振りにnoteを書く、という一言から始まって、いつの間にか自己批評に陥ってしまっていた。これも私の癖である。

私に市場価値がない限り、私の内面になど誰も興味が無いはずなのに、なぜかいつもこういう話の流れになってしまうのである。こういう所が私をして一層、人と疎遠ならしめているのだろう。

児(ちご)たりし時より、自分の思いを人に告げるのが苦手であった。親にゲームを買って欲しいと告げられなかった為、終ぞポケモンやドラクエに触れることの無い少年時代を過ごした。

関西に住んでいるにも関わらず、話にオチをつけられないし、ツッコミもできない。それが理由で何度か顰蹙を買ったこともある。

また、人に対してしつこくできない為、友人を作る機会を損なった。人間関係とは、本質的にはしつこさから始まるものだと思う。色んな関係を作っていく中で次第に、しつこさのさじ加減が分かってくると同時に、礼儀や思いやりが生まれるのでは無いだろうか?

私はちょっと相手から嫌な反応を、そのごく僅かの片鱗を見てしまうだけでも、直ぐに引いてしまうタチだから、いつも表面的な交わりしか持てなかった。

いつの間にか、私の人付き合いの話に変わっていた。笑

要は、内向的で対人恐怖症なので、人と疎遠になっていったという事である。

それ以外にもう二つくらい、人と疎遠になった原因がある。

一つはもう既に述べた様にも思うが、人と違っていたいという欲望が強かった事だ。

ゲームを買ってもらえなかったがために、友達とゲームをすることの無い少年期を送ったのだが、それを一方では悲しいと思いつつ、他方では皆と違って満足を感じていた。そしてその満足感を味わうために、大学に入るまでスマホを持たない決断をした。お陰で、高校時代に君管(YouTube)という麻薬にハマらなくて済んだ。

もう一つの原因は徹底的にインキャだったからだ。

こんな私だが、これまでの人生で一度や二度はクラスカースト最上位の人間に懇意にして頂いたことがある。そして、彼らの誘いを受け上位集団に入りそうになったこともある。しかし、如何せん彼らのインキャを馬鹿にする態度や調子に乗った態度というのが私の肌に合わず、結局拒否してしまった。

無論、そもそもコミュ障だし上位集団に入ったとしても直ぐ落ちこぼれたとは思うが、彼らのやり方に違和感を覚えていたのも事実だ。それからはインキャに徹していたのである。いや、実を言うと自分もインキャの事は内心バカにしていた事があるので、その名に相応しいインキャではなかったかも知れない。

いつの間にかインキャ・陽キャ談義になってしまった。笑

そう言う低俗な人間分類の思考様式はもう脱したつもりだったが、如何せん思い出してしまうものである。しかし、そもそも人間の思考様式はその大部分が二分法だ。

善と悪、陰と陽、正と誤、弱と強、大と小。実際のところは、これらの判断は状況、度合い、観る人などによってマチマチで、時とともに移り変わってゆくものだ。しかし人間の小さな脳はなるべく情報を簡単に処理したいがために、これは善、これは悪といった感じで単純な断定をしてしまいがちだ。

中国は悪、アメリカは正義と多くの人は刷り込まれている。今のウクライナ問題もそうだろう。実際そう言う面も多分にあるだろうが、その面しか見ないでいては後々愚かな目に遭うだろう。二分法に限らず、一人の人間の思考には限界がある。だから自分が信じている言説と逆のものも理解しようと努めなくてはならない。この人はこう言う考えをするから悪だと言う考え方は言語道断である。

例えば、中華人民共和国の憲法を読むと、

「人民は我々の社会主義に反対の意を表する人や集団と闘争しなくてはならない。」

と書いていて、我々の感覚ではギョッとしてしまう。しかし、感情や思想を抜きにして一旦冷静かつ客観的に考えてみよう。

日本の人口がいきなり10倍になりました。民族、宗教はもちろん、言語すら違うところもあります。そしてみんな自分の主義主張を声高に訴えます。(例えばこれは実例ですが、京都の道や町の名前を在日中国人が勝手に変更しようとした事案が数年前発生しました。これと同じ類、あるいはもっと過激な事があちらこちらで起こる様になります。)果たして日本の様な民主主義をやっていて国がまとまるのでしょうか?

恐らくあちこちで自分達の権利をめぐって衝突が頻発し、戦国時代の世に逆戻りしてしまうでしょう。それぐらいだったら、一個の主義の元にまとまっていた方が平和で豊かになれるかも知れない。

無論、少数民族に対する弾圧や思想矯正は許すべからざる問題です。国際社会は今後も中共に訴え続け、改善する様仕向けていくべきです。しかし徒に刺激して戦争にでもなれば、世界全体が滅亡の危機に陥る事でしょう。感情や我々が普段慣れている考え方に惑わされず冷静にその内実を見極める必要があります。

インキャ・陽キャの話からいつの間にか政治談義になってしまいました。

どうも普段話す人がいないので、こうやって懸命にネットに自分の考えを書き連ねる事で、寂しさを和らげたり、承認欲求を得ようとしているのでしょう。

私は以前から仏教に興味があるのですが、仏教の考え方の一つに無明というのがあります。無明とは自分の欲を満たすための飽くなきエネルギーの様なものと思っていいでしょう。

食欲、睡眠欲、色欲、社会的欲求

これらはどれも人間に必要なものです。満たされない時、激しく求める性質があります。そして厄介なのは、満たされた後もその激しさが止まないという事です。

さらに厄介なのは、現代の資本主義社会はその激しさを原動力にしているという事です。消費者はものを買えば買うほど、生産者は儲けようとすればするほど、お金がよく回り経済は活性化するし、アイデアが洗練されて革新的な技術を生み出す。

無明というエネルギーを燃やして動いている様なものです。

以前は恥とされていた事が、どんどん産業化されていますよね。

最初にも述べましたが、GoogleやAmazonといった巨大Tech企業はお客様のニーズに応えることを第一に考えて発展してきたのです。これは発展して当然なのです。なにせ、人間の無明という最も激しいエネルギーに目を付けたのだから。

YouTube、Twitter、Instagram、その他諸々のサービスも人間の無明をエネルギーにして儲けていると言っても過言ではないでしょう。このnoteだってそういう面は少なからずあります。

私はそれを悪いと言っているのではありません。無明を否定したら、文明・文化そのものが消滅するでしょう。良い点をあげればきりがありません。

・一世代前に比べて、正しい情報を得ようと思えば得られる様になった。

・Zoomによって、世界中の人と議論や勉強会ができる様になった。

・災害の時などに、いち早く正しい情報が伝わる様になった。

などなど。

しかし、私がまずいと思うのは、これらを提供しているGAFAなどの企業の経営理念に道徳的なことや、人間的な事がごっそり抜けている様に感じるのです。松下幸之助や稲盛和夫が打ち立てた経営理念をみると、物だけでなく心を大切にするとか、徳を増やしていくと言った事が書かれているのですが、GAFA企業にはそういう所がまるで感じられない。何か、人間がなくても動くオバケの様な会社という印象を受けます。

AlibabaやHuaweiといった中国企業の経営理念をみると、もっと非人間的な印象を受けます。

近年、仏教がマインドフルネスという形で欧米に流行しているそうですが、それとて、仏教の精神がごっそり抜けて、技術的な部分だけが流行っている様に見えます。

我々は技術で全てを解決できるという神話にすっかり浸ってしまった。

AIで農業、介護、教育、コンサルなど全てを完結させるという夢に向かって多くの企業が走っていますね。人間がどう生きるかという問題はすっかり置き去りにされている感が否めません。

そろそろ話が尽きました。そして疲れました。3時間以上も書き続けてしまった様に思います。最後にこの記事のタイトル「枕流」ですが、「漱石枕流」から取りました。

古代中国の偉い人が、「石に枕し、流れに嗽ぐ」というのを誤まって「石に口すすぎ、流れに枕す」と言って指摘された所、「いや、俺はそうするんだ」といって意地を張ったという話から来ています。言わずもがな、夏目漱石の漱石です。

徳や精神主義という言葉は今やすっかり昔の言葉になってしまい、誰も見向きもしなくなってしまった様に思います。私はあくまでその傾向に枕流して貫き通したいのです。