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欠けた時間とつないだ手


わたしの人生の中には、記憶から抜け落ちてしまっている時間がある。

どこに向かえばいいのか、誰に手を差し伸べたらいいのか分からずに、必死で生きているようでどこにも向かえていない、そんな人生のヒトカケラ。

辛いとか不安とか、そんな感情はもうどこにも残っていなくて、なにも感じないということだけを感じていた。

ただ息をしていることだけで生きているとみなされるのであれば、あの時は確かに生きてはいた。


それ以前にもその後にも記憶こそあるものの、感情が抜け落ちてしまうような出来事は何度かあった。

嬉しいも楽しいも悲しいも苦しいもなにもなかった。
日付の概念も感覚もなくなっていたからこそ、不安すら感じることのなかったあの空白の時間。

誰かに会うことがこわくて、でも誰とも会わないこともこわくて、誰かといてもひとりでいてもストレスとプレッシャーに押しつぶされていた。
生きていること自体がストレスで、ほとんど限界だった。
そんな限界にすら気付けないくらい、なにも心にも頭にも引っかかることがなくて、なにもかもがスゥーっと通り過ぎていく毎日だった。

ほんのわずかに残った理性を振り絞って、踏み外さないように、誰かを傷つけないように、どうにかこの瞬間息を吸っていられるように。
ひとまず生きることだけに集中をしていた。

信じることも疑うことも放棄して、進めないけど戻らないように必死に立ち止まっていた。


どうやってその時を乗り越えたのか、いまとなっては分からなくて気付いたらという言葉がいちばんしっくりくる。

気付いたら元気になっていたわけではないけれど、泣くことができた。怒ることができた。失うことのこわさを思い出して、いまをめいっぱい生きようと思う心の熱を感じ始めた。


それでも一度芽生えてしまったあの時間は、いまでも記憶の中にしっかりと根付いていて時々手招きをしてくる。

記憶が抜け落ちた時間の感覚はまるで分からないことばかりだけれど、記憶がないということだけは覚えている。
それは事実であって、どうもがいても記憶が戻ってくることはないんだなぁとあれから10年以上経って改めて思う。

いつだって欠けてしまった自分と共に生きている。

それはなんだか自分自身が不良品のように感じる時もあったのだけれど、いまでこそこれでよかったのかもしれないと思えるとようになってきた。

あの時間が存在していなかったらきっと、いまの自分はいないだろう。

それは良いことなのか悪いことなのか判断はできないけれど、無意味に思えていた時間の連なりが今に繋がっていて、少しずつ意味を帯びてきている。
だからもう、あの時間をなかったことにはしたくない。

だからわたしはあの時の自分を、
感情がなくなってしまった無意味で空っぽだった自分を許すことにした。
決して不良品なんかではなくて、自分の一部としてこれからも共に生きていこうと思える。


希望なんか見出さなくてもいい。
それでも絶望に心を奪われないでほしい。

なにも感じなくてもいい。
だからそんな自分を許してあげてほしい。

間違えたっていい、迷ったっていいから、どうか道を踏み外さないで。
自分で自分を否定しないでいてほしい。

どうか一人で思いつめないでほしい。
差し伸べてくれる手があるなら、戸惑いながらでいいから繋いでみてほしい。


わたし一人では簡単に希望なんて生み出せない。
絶望を語るほどに深みがある人生でもない。

それでもわたしは一人ではできなかったことを人と出会うことで叶えてきた。

誰かとつないだ手の中に希望が生まれた。
抱きしめられて泣く腕の中で初めて絶望と向き合うことができた。

ひとりではないことで生まれる不安だってあるけれど、いつだって一歩踏み出す力はひとりでは生まれてこなかった。

だからわたしたちはいつだって出会いと別れを繰り返していくんだってことを、わたしはこれからだって忘れたくない。



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