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見えないものを見ようとして

とりあえず、めちゃくちゃ悲しいことがあった。一日何をしていても、突然涙がじわりと目に溜まる。涙腺がばかになった日だった。
その原因は、自分の心もちである。文章で書くとやけに繊細に見えるけど、みんなだってそう言う面はあると思う。誰かの一言。SNSで見た日常の写真。雨が降ってるだけで憂鬱になることもあるじゃん。

詳しくは想像にお任せするとして、私は他人のテリトリーに入り込んでしまった。悪意があったわけではない。たまたまだ。自分は野暮なことをしたと思う。反省はしている。でも、立ち止まって考えるいいきっかけになったと夜な夜なこの文章を書いている私は思うのだ。

私の性格上、ただ悲しいと泣いてその心情の浸っているのが気持ちわるくなる瞬間が訪れる。
今日も突然その瞬間はきた。なんで、悲しいんだっけ?ってもう一人の自分が聞いてくるみたいに、突然わからなくなる。

そう、落ち着いて分析してみなよ、と冷静な私が言う。よし、とため息をついてペンを手にとった。私はその現象・状況・言葉を見聞きした。これは事実。でも、その人がどんな意図や感情を持っていた?と聞かれたら全くわからない。私の考えた通りかもしれないし、そうじゃないかも。私には私の物差しでしかその事実を測れない、見えない。見えないものは怖い。暗闇の部屋を手探りで進むのは怖いのと同じ。あ、そうかと合点が入った。わからないことが怖くて涙が出たんだ。なるほどと、そこで少し落ち着いた。
真実は当事者にしかわからない。もしかして、みんな全てわかったような顔をしてるけど、何にもわかってないのかもしれない。事実、味わった感情を言葉にできない時だってあるんだから。

人間の悩みは、いつでも自分の思いこみでできている。自分が世界をどう捉えるかで、真実はいくつものパターンに変化していくんだという。

例えば、目の前が黒いサングラスで世界を見た時と、透明なサングラス(そんなん実際にあるかは置いといて)をかけて世界を見た時、目の前の見え方は違う。黒いか白いか、景色という事実は同じなのに、見え方で印象は全く異。持ってるアイテムで見えるものが変わるなんて、人間って奴は厄介で面白い生き物だなと思う。

そうそう「見える」ことに焦点を当てて話すと、人間は見ているようで、よく見えていないそうだ。禅問答みたいね。
ソースは視覚障害のある方と美術館鑑賞をした方のインタビュー記事だ。視覚障害のある方(全く見えない)に絵の説明をするとき、常駐している美術館のスタッフが今まで思っていた絵柄と描かれていたものが違ったと、驚いた様子でいったという。さらに人によって絵の見方は変わってくるようで、現代アートに描かれてる時刻が夜なのか、朝なのか、三者三様だったらしい。同じ絵を見てるのにね。不思議なことだ。

自分がどんな色(思想・思考)で世界を見たいか、無意識の、こうありたい、世の中はこういうものだっていう考えが、私とみんなの日常を作ってるんだってさ。
結局、みんな自分の価値観で生きてる。サングラスをよく磨いて、世界が明るく広く見えるようにしたいなと、思った。だから、今日のところはなーみだくんさよなーら。泣くのはまた今度にしようかな。