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スウェーデンシリーズ第2話 「フリーランス作曲家がワーキングビザを取得するまで」①

こんにちは、Yoko Hiramatsuです。

前回、スウェーデン移住に関する前置きでもあるスウェーデンシリーズ第一話”移住の予感とチャンスと決断”をお送りしました。

今日は、その続きである”フリーランス作曲家がワーキングビザを取得するまで”のお話をします。

ここからが本題になってゆくのですが、”スウェーデンと音楽って何?どういうこと?”と思われ方に向けてに、少し説明をしておきます。

スウェーデンと言えば、IKEAとか、VOLVOとか、ノーベル賞とか、福祉国家とか、バイキングとか、冬は寒い国とか、いろんなイメージがあると思います。

そんなイメージにプラスして、実はスウェーデンは音楽大国でもあります。

わかりやすいところでいうと、ポップ、ロック、R&B、EDMなど、その手のジャンルのクリエイターやアーティスト、非常に多かったです。今現在も、さらに進化しているはず。

レベルはというと、アメリカやイギリスと肩を並べるくらい、レベルが高い音楽大国であり、音楽生産大国です。

わたしも海外コライト(日本人作曲家と外国人作曲家の共作 / Co-Write)のプロジェクトに関わるまで知らなかったのですが、本当にそこら中に音楽の天才たちがゴロゴロいます。

もちろんそれに輪をかけて、ワールドワイドに活躍されているパワフルなプロデューサーさんやアーティストさんたちもたくさんいます。

わたしの知る限りでは、日本で知られるJ-POPに特化した海外コライトの始まりは、スウェーデン人作曲家と日本人作曲家の共作が最初だったと記憶しています。

もし間違ってたらすいません。土台を作った方々からそう教わったので。

しかし、時代背景を見ても、わたしが関わらせていただいた会社又は関わりのあるどなたかが、一番初めの海外コライト文化の開拓をしたのは確かだと思います。

日本人作曲家同士のコライトは、その後にできた発展系文化みたいな感じがします。

実際、日本のとあるコミュニティがやっていたソングライティングキャンプに参加したことがありましたが、海外で行われている本家本元のソングライティングキャンプとも、インターナショナルなソングライティングキャンプともかなり違っていて、だいぶドメスティックにアレンジされてるんだなぁというのが素直な感想でした。

本家本元の海外コライトキャンプについてはまた別記事で詳しく書きますね。

とにかく一番初めの海外コライト文化が、日本の音楽業界全体に広がって、いろんな会社が海外とコライトをするようになり、今ではスウェーデンやヨーロッパだけでなく、イギリスやアメリカとも日本人作曲家がコライトをしてヒットソングを生み出す、という文化にまで発展してきたように感じます。

そこにK-POPのコライト文化も混ざってるので、ますます複雑化しつつ拡大して行ってるような。

裏で制作してる側の話なのでわかりにくければ、カラオケに出てくる作曲者の名前や歌詞検索した時に出てくる作曲者名を見ればよくわかります。

ジャニーズやLDHのアーティストの作曲家クレジット名を見ると、日本人と外国人が一緒に名を連ねていることが結構当り前です。

このような形で出来上がったプロジェクトの中に、わたしはいつの間にか参入していました。

というわけで話を戻し、ある日突然作曲家に転向し、スウェーデンで仕事をするため、ワーキングビザ(就労ビザ)を取得した一連の流れにいきますね。

時は2012年11月、海外部隊の第一関門を通過したわたしは、お世話になっている音楽出版会社の方から、スウェーデンに長期滞在をして駐在作曲家をやるお話をいただきました。

意図としては、”日本人作曲家が現地に住むととどうなるのかを見たい”とのこと。

それまで、日本人の作曲家がスウェーデンへ行き、数日〜数週間滞在し、現地の作曲家とセッションをして楽曲を書く、そしてその逆バージョン(外国人作曲家が日本に来て制作)というのはずっとやってきてるけれど、日本人作曲家がスウェーデンに移り住んで楽曲を書いたり、現地を開拓したりということは試したことがないとのこと。

制作現場のリアルな情報提供も含め、飛び立てる人材を探していたようです。

イギリスやアメリカだったらみんな喜んで行くのだろうけど、寒くて遠い、英語圏でもない場所に東京を捨てていくような人は、そりゃあなかなか見つからないだろう、”でも、何かここにいた”みたいな感じでした。 笑

そしてとんとん拍子で話は進み、その某音楽出版会社と業務提携の契約を交わしました。

なぜ業務提携か。

作曲家と音楽出版会社の関係性において、何かよっぽどでない限り、音楽出版会社が作曲家を社内に抱え込むことはありません。

なので、必然的に個人対組織の契約です。

この時期交わした業務提携というのは、内容は語れませんが、楽曲が採用されたときの楽曲管理や著作権、印税に関する契約とは違います。

それとは別で、単純に、業務委託です。

なのでビザを取得する際、その音楽出版会社から業務委託をされたリサーチャー(研究者)という形で、まずはビザの申請をしました。

後にワーキングビザに変更になるのですが、それはまたこの記事の後半で説明します。

すべてがはじめてで、業界でも前例がなかったため、申請に関してど頭から会社の方と意見が食い違ってしまいました。

会社の方は、日本にあるスウェーデン大使館に行ってビザ取得の申請手続きをすると言っている。

わたしは、ネットにでてたので、スウェーデン移民局のサイトから直接申請できると言っている。

提出する書類などややこしい部分はありましたが、その時からすでにスウェーデンのテクノロジー導入は進んでおりネット申請が当たり前だったので、結局後者のオンラインですべて完了しました。

申請後、それからだいたい2、3ヶ月もすれば、ビザを取得できるのではないかとみんな予測していました。

私はせっせと、引越しの準備をして、東京のマンションを引き払い、年も明けて2013年になりました。

だけど1月、2月と過ぎたのに、まだ何の連絡もない。

さすがにいつまでも東京でじっとしてるわけにいかない、何か動いて仕事をしたいと思い、担当の方と相談をしました。

「しょうがないから、スウェーデンの近くにある北欧のどこかの国に滞在して、ビザの返事を待てばいいんじゃない?その間、書ける範囲で曲を書きながら」というご提案をいただきます。

「わかりました。どこの国ですか?デンマーク?ノルウェー?」とわたし。

「ん?違う違うフィンランド。フィンランドのヘルシンキでビザ待ち。」

「え、フィンランド?何でフィンランドなんですか?だれか作曲家さんいますか?」

「んー、二人くらいいるかな、ま、それは何とかなるでしょう。フィンランドは我々も知らないし、知ってる他の国に行ってもらうより、どうせなら知らないとこに行ってくれる?現地の情報もほしいから。」

「あまりイメージがわかないんですが、ノルウェーとかデンマークはだめですか?そっちなら作曲をするイメージ湧きます。」と、わたし。

「ん?だめ。知らないとこに行ってくれなきゃ意味がない。」

「わかりました。。。」と私。

内心、この”ヘルシンキに行け指令”に対してあまり腑に落ちていませんでしたが、東京を早く出た方がいいのは確かだったので、まさかの”ヘルシンキでひとりビザ待ち”が確定してしまいました。

そして真冬の2月のあたま、渡航日の3日前くらいに航空チケットを渡され、心の準備もないまま、ヘルシンキ行きの飛行機に乗りました。

わたしの人生、変わる時は、いつも本当に急です。

それでも、未知の世界に飛び込むんだ!と思うとワクワクして希望に満ち、スーツケースふたつだけで飛びたったわたしは、東京を抜け出した開放感と未来への希望に浸り、とってもご機嫌なスタートを切ったのでした。

②へつづく







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