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【小説】 母はしばらく帰りません 16

 日曜日は少し早く目が覚めたので、散歩がてらに近所マーケットに出かけることにした。

「あら。珍しく早起きね」
と、バスルームから出て来たキムが驚いたように言った。
 キムは午前中から、例のネットで知り合ったと言う彼とデートらしい。そのせいだろう。平日仕事に行く時よりも、気合の入った化粧っぷりで完全武装している。

 輝子の家から歩いて十分ばかりのところで開かれる、路上マーケットは、ガイドブックにも載っているような有名なところだ。その規模からアンティークがメインだと思われがちだが、骨董品なのかガラクタなのか分からないもの並べた店々を通り過ぎた、マーケットの半ばあたりから、日常品や野菜の店に変わる。
 ちょうど時期だけあって、色も鮮やかでいかにも美味しそうな果物に目移りしながら、輝子は袋いっぱいのブラックチェリーを買った。
 服の裾でチョイチョイと軽く汚れを落とし、口の中に放り込みながら歩く。時々拭くのを忘れてしまうが、まあ気にしない。
 チェリーの他にもアボカドや洋ナシを買い、ゴミ袋やトイレットペーパーも買う。スーパーマーケットで購入するより、随分お得なのだ。

 あっという間に、背中のズタ袋のようなリュックサックがいっぱいになった。一息つきたくなって周りを見回すと、ちょうどいい所にカフェがあった。とは言っても、甘いクリームがこんもり盛られたキャラメル味のコーヒーもどきがあるような、今時の洒落たカフェではない。工事現場のおじちゃんや、買い物帰りのおじいちゃんおばあちゃんが居着いていて、店内の椅子が学校の食堂みたいな、オレンジ色のプラスティックで、飲み物は厚手のマグに注がれるコーヒーか、ミルク入りの紅茶しかないような、地元のカフェだ。
 輝子はこういう店で食べる、イングリッシュブレックファーストが大好きだ。安くて、お腹がはちきれるほど山盛りで、脂っこいのになぜか二日酔いの朝に食べたくなる。言わば英国のソウルフードだ。
 ロンドンに来て良かったな、と思うのはこんな時だ。小綺麗な格好をしていなくても、外国人でも女でも、一人でご飯をワシワシ食べていても、お酒を飲んでいても、誰も気にしない。というか、そういう場所の選択が多い。
 輝子はふと、自分と母が全く反対と言えるようなルートを歩いて来たことに気づいた。
 日本で生まれて、子供時代を過ごし、大人になってこの街で自分の居場所を見つけた輝子と、イギリスで生まれ育ち、大人になってやって来た日本で、好きな人と一緒になり子供達を育てた母。
 そんなことを珍しく、真面目な気持ちで考えた。それは虫の知らせの一種だったのかも知れない。

 家に帰ると母が待っていた。

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