劇評『不快なものに触れる。』(劇団いるす。)横田宇雄

劇評めいた劇評なんて、この数年書かなかったけれど、この芝居については一言書きたいと思った。本当は、「カルスタ理論」(古い)なんか読み直しながら、ツラツラと長い文章でも書きたい衝動に駆られたが、そんな時間を取っている間にも、記憶が古びてしまうので、一言でも書いておきたいと思う。

京都の劇団である「いるす。」によって制作された、この作品は、断片化された様々なテキストを切り貼りして、三人の俳優によって上演された。

会場は京都市内の「ホワイトキューブ」のギャラリーで、先斗町という文化香る繁華街にある。

チラシのメインビジュアルにもなっているのだが、舞台上に登場する三人の俳優は、自分の「目の前」にスマートフォンを携えており、観客からは彼らの本当の「目」を見ることはできない。「目」を略奪された/偽造された俳優の口から出るのは、インターネット上にあふれる安っぽい煽り文句の広告であるのだが、一方でその安っぽい言葉こそが、現代社会の真実を語っているようにさえ思える。

俳優の後方には、アルミシートで覆われた「小屋」がある。この小屋の中に俳優たちが入っていく。この「小屋」には、三つの液晶モニターが備え付けられているのだが、モニター中継を通して観客は「小屋」の中で行われていることを見ることになる。

その中で、俳優たちはスマートフォンをいじったり、化粧をしたり、はたまた先の広告文を発語したり、現代社会に関する理論書を引用したりしている。

次第に、モニター越しに見ているこの風景が、果たして本当に、「イマ、ココ」で中継しているものなのだろうか、記録したものなのだろうか、分からなくなってくる。

そんな不安を抱いていると、「コロナ感染症対策のため」に業務用扇風機が稼働し始め、一気にアルミシートを吹き飛ばしてしまう。それで、「イマ、ココ」で行われていたことが、記録であり虚構であったことを観客は知る。

終幕、俳優たちは業務用扇風機の逆風に立ち向かいながら、なかばアジテーションめいた現代社会への批判を口にする。

私は、この芝居を見ることができて良かったと思った。劇評において良しあしを口にするほど、自分の頭は廃れていない、と言い聞かせながらも、とにかくも「良い作品」だった。

というのは、この芝居を見ながら、ずっとモヤモヤとこの十年くらい心の奥底に抱えていた独り言を、心の中で独り言ちていたからだ。「私たちは、<メディア(媒体)>を通じて、一体”何”を見ているのだろう」と。

一時であれば、舞台こそ「イマ、ココ」に身体が現前する唯一の社会的空間であると言い切ることもできたかもしれないが、今は、そんなことをまさかいう気持ちになれない(例えば、ダムタイプの新作『2020』の記録動画を見て、私たちは何を「文化」何を「芸術」というべきなのだろうか、と私は頭を抱えていた)。

一報で、ユーチューブ最盛期の今日、くだらない日々を垂れ流している動画が何百万回も再生される一方で、手の込んだ動画は一部の愛好家のためのものであって、何の利益も上げない。この「オカルト」的状況において、「文化芸術」の<価値>とは何なのだろうか。

私は、「文化庁」よろしく「文化政策」に文句を言うべきなのだろうか(文化・芸術を経済指標や経済効果という<神の手>によって正当化すること”しか”できない芸術の「伝統」や「威厳」の回復をもくろむべきなのか?)。私は「小劇場」という、もはや使い古され、そして当時の意味を失った、単に奉仕の精神を搾取するだけの「経済圏」の崩壊や消滅を、嘆くべきなのだろうか。私は、個人の営みに回収されていく「お金にならない趣味の活動」としての芸術の退屈さを、ハリウッド映画でうっぷん晴らしすることしかできない「悪趣味」を批判し続ければ良いのだろうか……。などと、まさか滅多に口にしたことのない言葉を、独り言ちた。

そしていまや、日本だけではない、私は詳しくはないが恐らくはアメリカ大陸も、ヨーロッパも、きっと似たような状況なのだろう。そして、多くの国がそうなのだろう、とグローバリゼーションよろしく帝国>のイデオロギーに骨の髄から染まってしまった私たちの<身体性>に、何が残されているだろう、と考えてしまった。(さてそこで日本のガラパゴス性に望みをかける人は、台湾のたぐいまれなるコロナ感染対策を目の当たりにして、かの日の日本の姿を思い描かないことがあるだろうか。)

そう、ここ「京都」で、この作品が生まれたということが、私には極めて新鮮であり、驚きだった。極めて都会的で、グローバリゼーションの鬱屈を携えたこの作品が、一地方都市である京都で生まれたということは、何かの皮肉か、京都という町のある種の底力なのか(これはあくまで実演家の努力の礎にあるだけで、架空のマジカルな力などでは決してないと付け加えておく)、私は山崎恭子という演出家の仕事に驚嘆したものだった。

創作・発表にあっては、相応の苦労と経済的な負担、コロナに伴う心労があっただろうと推察する。今この状況下で芝居を上演すること自体が、「奇跡的」であるわけであって、だからといって芝居をやることそれ自体を称賛するわけではないのだが、「演劇でなければ表現できない何か」があったと思う。そして、それは発展途上であるがゆえに、やはり劇場で目の当たりにするべきものであったように思う。

* 2021年3月20日15時の回、観劇。

劇団いるす。

https://irusu-kyoto.tumblr.com/