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オリジンに戻ること#03

 「在来種」とはなんだろうか。実は、野菜の範疇においては定義が曖昧な語の一つである。対義語として違和感がないのが「外来種」だとすると、こちらは元来の自然を脅かす存在として、私たちの認識の中では輪郭がはっきりしているように思う。外来種は、端的に言えば、過去から現在に至るまでのどこかの時点で、ヒトがそこに持ち込んだものを指す。
だとすると、在来種というのは「人の介在なしに元々そこにあったもの」ということになるだろうか。現に、生物学的な在来種とはそう定義されている。

 ここで言いたいのは、野菜を指して在来種という場合の話である。
この十数年で、在来種という言葉は農業界を中心に一般名詞になった感がある。小川町で言えば、のらぼう菜や青山在来大豆、金ゴマがあり、それらは地生えの農家が代々受け継いできたものでもある。
 在来種という語感には、大昔からその地域にあり、少なくとも元々日本にあったもの、というなんとなくのイメージを持っている人も少なくはないかもしれない。

 少々、話題を広げようと思う。和食と結びつく野菜とは何かと聞かれれば、大根やカブ、菜花やネギを想像したくなる。童謡の「お弁当の歌」に出てくる食材はその典型だろうか。大根やカブは春の七草にも登場するように、すでに1000年も前には一般的な野菜だった。古事記には須佐之男命(スサノオノミコト)が怒りに任せて大宜都比売神(オオケツヒメノカミ)を殺した時、その遺骸から蚕、粟、小豆、米、麦、大豆が生じたとあり、この日本最古の歴史書(伝承集とも言える)が編まれた8世紀までには、すでにこうした作物が農業の中心にあったことが伺える(ちなみに言うと、五穀豊穣の五穀というのは、こういった伝承を由緒としているらしい)。当然ながら、それが農業の始まりだと言うのは神話の中での話である。和の食材として野菜が取り上げられる例は、古今を通じて枚挙にいとまがない。

 しかし実は、農耕が始まったばかりの日本には、和食の中で親しまれている野菜のほとんどが存在しなかった。
元々日本にあった野菜というのは、セリ、ウド、フキ、ワサビ、ミツバ、ジネンジョ程度のものである。野菜というより野草と呼んだ方がしっくりくる。私たちが普段食べている大方の野菜は、元を正せば外来種であり、世界で栽培されている全ての野菜がもれなく原産地という各々の出自を持っているのだ。野菜は、出アフリカを経て世界に散らばった人類が、その移動と共に永い歳月をかけて各地に種を伝播(でんぱ)したものでもある。
 米がどこから来たのかというのは、小中学校の歴史の授業で学んだ人が多いのではないだろうか。
それは、中国内陸部で稲作が始まり、弥生時代に種籾(たねもみ:米の種)とその栽培技術が日本に伝来する、と言った話である。
こういった話が、野菜には必ずある。人参であればアフガニスタン周辺が出発点になり、ネギは中国北西部、里芋はインドから東南アジア、ジャガイモは南米といった具合に。原産地から世界への旅路は、長いもので数千年とも、1万年とも言われている。

 タネと人類の旅路におけるひとつの終着点、ユーラシアの東端に日本列島という三日月型の受け皿があった、というだけである。この島は、太古から受け皿であり続けた。そして江戸も終盤に差し掛かった頃、私たちが普段口にする野菜のおおまかなカタログがやっと出来上がる。
 一万年という歳月を考えると、至って最近の出来事のように感じる。

 在来種と呼ばれる野菜も例外ではない。そのほとんどが定義上は外来種であり、ある時誰かが日本に持ち込まなければ、存在すらしなかった。

 私たちが日本人であることの土台を分解してゆくと、そこには海の彼方から持ち込まれたものが無数に横たわっている。
私たちの食文化には、オリジナルの食材はほとんどない、と言ってしまえば皮肉にしかならないが、そうした外来種の寄せ集めが、和食というオリジナリティを生んだのもまた事実なのである。そこに、文化の不思議さと面白さがある。

 これは、フレンチにもイタリアンにも通ずる話でもある。例えばイタリアやスペインには米料理があるが、彼らの米は長いシルクロードを経て中国から伝わったものらしい。
しかし、私たち日本人の食べる米と出自を同じくしながら、彼らのレシピは——品種すらも——全く顔色を異にしている。

〈続〉

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