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育児回想録🌈感謝🌈🐼

今年も無事に迎えました。いえ〜い🙌🎂自分のために書いた育児回想録💕だから、ダラダラ長文🤣

結婚して1年して授かった娘っち。卯年🐇にちなんで、「ピョンちゃん」と呼びかけてました。つわりも酷くなく、お腹ライフでは、やや小さめで大人しめのピョンちゃんでした😊予定日が地元で有名な花火大会の日だったので、夜の産院までの渋滞を散々心配したにも関わらず、初産あるあるで4日遅れに…夜中に陣痛が始まり早朝に病院へ。体を誰にも触って欲しくなくって、謎に廊下をしきりに小走りしてました。懐かしい🤣産院の昼食が牛肉うどんで、その匂いに誘われて?娘っちはこの世に、ひょっこり出てきてくれました。

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私の実家では女の子の初めての孫、夫の方では初孫。そりゃあ、皆から可愛いがられ大切にしてもらいました。名前は仲人さんに頼んでつけて頂きました❣️

娘っちは小さなころから、とにかく慎重な子供でした。私以外にはたとえ祖母にも抱っこされたり構われたりするのが苦手で、赤ちゃんの時は猿🐵の親子のようにくっついてました。夫は単身赴任で、娘が生まれて3ケ月あたりから約2年間くらい赴任先と家とを行ったり来たりを繰り返してました。なのでなかなか娘は懐きませんでした。。。可哀想な夫。。。

このころはまだ日本にHSC(ひといちばい敏感な子ども)の言葉はなかったので、単なる神経質な繊細な子としか捉えてませんでした。成長と共に他のお子さんとの違いが…ベビーカーには乗らない、寝る時は私のお腹の上でしか寝ない、公園遊びは5時から1人で遊びだす、反響音が苦手、食べるのがゆっくり…最初は誰にでもあるかなぁと思える範囲でしたが、他のお子さんと出会うと比べてしまい、少しずつ「なんで?皆と違うのかなぁ」と思い焦るように…

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幼稚園に通うようになり、明らかに敏感さ繊細さが炸裂し始めました😅幼稚園のタオル掛けに、タオルを掛けるのが、他のお子さんは秒で出来るのに、娘っちは30分かかってました…たぶん、皆が1ケ所に集まるのが怖かったんだと思います。担任の先生が根気よく付き合ってくださったなぁと、今更ながら思います。

娘っち曰く、当時登園拒否にならなかったのは、自分のペースをとことん許してくれてたからと思うそうです。幼稚園の賑やかな雑多な雰囲気は、超苦手だったけど、どんな時も否定せずに、むしろ私のペースを尊重してくれたから、嫌じゃなかったかもと。

ほかには、誕生会の映画会には3年間、ほぼ参加出来ず、参加しても先生にしがみついて1番後ろで見てる?感じだったようです。おそらくHSCの共感力で心動くのが怖かったのと、音の反響が苦手だったのも原因かな。絵本も表紙の絵が可哀想な雰囲気だと、表紙を見るだけで怖がってました。

「ちいさなろば」は手にするだけで半べそ😢懐かしい…確かに悲しげだけど…

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この共感力は、成長と共に、あらゆる所で見受けられるようになりました。アニメも、ドラえもんのジャイアンが怖すぎて見れなかったり、クレヨンしんちゃんの映画は、結末が感動するようになってるから、絶対見ないと主張するようになりました。親としては、TV漬けにならない子と言う点では、やりやすかったりもしましたが…

幼稚園時代は、積み木の番をお友達からお願いされたら、嫌がらず1時間くらい皆が園庭で遊んでいる間、部屋で番をするような子でした。担任の先生にも何度も「断っても良いんよ。」と言われても、頑なに番をしてました。お友達が困るのが嫌だったそうです。あとは嫌われたくない…も働いて…。

でも、違う場面では、こだわりも強く主張も‼️ウサギの名前決めの時などは、クラス全員と対立する…なんて事もありました💦この頃から、私の娘への心配は加速していきました…時折、和を乱す、空気読めない我が子😅そんなこんなを、こひつじノートに月一回、先生からのコメント。娘のことを大切に見てくださってたのが、今読んでも伝わってきます☺️今朝は泣いてしまった🤣

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多数派が正解ではないよ、皆違って良いんだよ、幼稚園時代の先生の対話を大切にされる教育は、どんなに素晴らしい環境だったのかと…その原体験は確かに娘の中に…そして、集団が苦手な娘が登園拒否しなかった理由は、理解ある大人に囲まれ安心できる場所だったんですね。私がこの幼稚園と尊敬するY先生との出会いは、なんか後々への伏線と布石なんだわ🤣🤣🤣

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そして公立の小学校に上がりました。まずは給食の壁にぶち当たりました…ゆっくり慎重派でしたので、食べるのが掃除の時間にくい込むタイプ💦日々苦痛だったようです…ただ、少しずつ慣れて小2になる頃には苦痛はやわらいだようです。小6では好きなメニューの日だけが唯一の救いになってたそうです。他の学校生活が辛くて…ありゃ🤣

行事は好きなはずなのに、敏感な故に、遠足は腹痛、野外活動は発熱で別室宿泊、自然学校も初日から発熱!娘が頑なに帰宅拒否して、最後まで保険室部屋で過ごし教頭先生の車で帰宅…唯一、修学旅行は下痢だけでした。とにかく行事は嫌いじゃないけど身体が反応するくらい苦手でした。

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運動会の組体操も小柄だから、担任曰く「怖い我慢は当たり前」と…で上へ上へ立つことに…成功体験にはなってましたが。ホッとする間もなく、卒業記念大縄大会💦飛べない娘っちは、皆の前で猛特訓と、ちょっとした迷惑な人扱いに…で、我慢して家でも練習してたら疲労骨折でドクターストップ😅なのに、大縄大会は成功させたいからと続行…なんでやーとほほ😅小6の担任の先生の強烈な体育会系のノリには、なかなかついて行けなかった…😓さすがに親としては、配慮をお願いしました…

小学校時代のことを娘っちは、「中学受験するし、『勉強が出来てたら良い!』と考えに知らず知らずに支配されてたから、クラスの子達を下に見てた気がする。理不尽なイジメや仲間外れにされても、どっか馬鹿にしてたから辛かったけど、どん底ではなかったかな…勉強という居場所があったから。ただ、いつも何となくボッチ感はあったな。まぁ、どっちもどっちかなって、今なら思うし、自分ってやな奴って思うわ(笑)」と…当時、そんな娘っちの気持ちはちっとも分かってあげてなかった私です。お恥ずかしい…だから娘っち体調不良が続く小学校時代でした。

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娘が小学6年の春に、私の親友から電話がかかってきました。「いつか学校行けなくなるよ!最悪なことにもなることも…」と忠告されました。親友は、私の娘への過干渉をずっーと側で、心配してくれてました…なのに、私はその時「えっ、またまたまた〜大袈裟な」と捉えてました😅自分では過干渉だなんて自覚もないどころか、娘っちに決断させてる!…自立する子育てをしてると、変な自信を持ってました…今からしたら、どうかしてる…と思います😓ちっとも、娘の気持ちなんて聞かず、「娘にはこれが良いに決まってる」私の思い込みを、巧みに誘導してました…今だに娘っちは、この親友のことを「命の恩人」と呼んでます🤣😅🤗

今から思うと、昔から娘っちに選択なんか、させてなかったんですよね…選択肢は用意してるけど、巧みに誘導して、私が選んで欲しい方へ、敏感で繊細な娘が傷つかず失敗しない方へ、追い込んでました。やだー怖い🤭🤣きっと中学受験もそうだったんですよね…

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中学受験に向けての勉強が忙しくなり始めた夏頃から、なんとなく娘の行動をよく観察していたら…もしかして…が続いてました。身体も頻繁に不調が出たりしてました。親友の電話以来、私はずっーと1人で悶々としてました。でも、走り出していた受験は止めることが出来ず、走り続けました。中学受験は第一志望は叶わず第二志望校へ

最初は第二志望校もあって、勉強を頑張らないでも成績上位を維持してました。でも、少しずつ周りも勉強を頑張りだすと、勉強せずには上位維持が厳しくなり、完璧主義も加わって頑張る頑張る頑張る…進学コースで中学1年から国公立目指して!の学校や周りにも疲れ、娘っちの電池切れ…。

しかも、娘っちはHSCという特性から「学校行きたくない」すら、母親を思いやる気持ちが働きすぎて、心配をかけたくない、失望されたくない思いから私に打ち明けることはなく、ギリギリまで頑張ってました。だから、中2の3学期のある朝の玄関の「学校に行けない」が突然の不登校の始まりとなりました。そう、勉強が唯一の居場所だった娘には、居場所がなくなったんです。もちろん、小学校時代よりは価値観が近いお友達も居て、遊びに行ったり、宿泊行事で体調を崩すことはなくなっていましたが…でも、やはり友達の中に居場所がなかったんですね。

娘っちは、たまたま運良く親身になってくださった担任の先生のサポートもあり高校卒業をしました。その上、高3夏の三者面談では進学しないと話していたのに、9月末に突然、得意科目の国語を武器にAO受験で合格できそうな大学を、自分で探して自分で決めて受験勉強を始めました。受験までの時間は正味2ケ月でした。最初は5分も机に座れなかったのが、少しずつ長く勉強出来るように…自分で考え決めた時の底力を見せつけられた気がしました😌

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娘は中学2年生から五月雨不登校を4年、大学進学後も2年生の夏までは、「生きる意味が分からない」「朝が来る度に絶望しかない」と大学にも足が向かない日々が続きました。恵まれているのに、皆と同じことが出来ない自分を責めてばかりいました…でも、いろんな人と出会い、いろんなことを経て、今元気に生きてくれてます。沢山の繋がりを感じてくれてます。

「基本的には、人は孤独。1人。でも、少しの繋がりが、少しでいい、何かと繋がりを感じたら勇気が湧いてくる」って、娘と語り合います😊

実際に、振り返ると娘には沢山の出会いと繋がりがありました。私が自転車転倒させた為に、娘の右腕拘縮に…経過観察と検査の為、3歳から20歳になるまで親身になって話を聴いて下さった主治医の先生。唯一、通えたボイトレの変な先生達。少しだけ通った個別指導塾の大人しい先生。高校の担任。不登校支援の優しい大人達。野菜繋がりの個性的な大人達。そして、私の実姉。皆さんに感謝しかないです。感じる力を持ってる娘にも💕

最近は不登校時代や幼少期の話をしながら「多様性とは…生きるとは…」と母と娘で語らいます😊HSC•HSPについても、事あるごとに話し合います。私が改めて娘に謝罪することもありますし、娘っちも自分を改めて見つめ直したりします💕なんて、真面目な親子なんだー(笑)🤗娘は1から10まで話したい派なので…深夜まで話すことも…😅

娘っちも、まだまだ20代前半。友人、学業、アルバイト、就職、恋といろいろ悩みは、絶え間なくあります。一つ一つ娘っちらしく、考え考え考え考え抜きながら、人よりはゆっくりペースですが、確実に着実に前進してます。

だから必ず必ず子どもは
自分の力で歩き出す…
自分で考え自分で決めて

失敗しても、ダメでもいい。なんだっていい。いろんなことがあるから…人生を味わいながら😊

あっ、なんかこれって、私に言ってる(笑)😁 なんだか着地点がない回想録😅
まぁ、いっか🤗

🌈皆が幸せだなぁと思える世界に🌈

読まれた奇特な方がいらっしゃったら、ありがとうと感謝申し上げます💕🐼🌈ふふふ🐼💕🌈

私のママ記念日に私の願いを込めて🌈🐼🌈

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追記 バースデーディナーは、我が家のハレの日レストランにて母と娘でお祝い🥂夫は仕事の都合で参加出来ず😩夫が娘に初手書きメッセージを。

たった2行…  短っ‼️                                              読みながら娘…泣く…で、私もうるっ🥲少しずつ、繋がりを取り戻してる父娘です😌

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