見出し画像

ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね

昨日、EXITの兼近さんが、「生きている意味なんてない」と断言していてドッキリしたが、その後、「だから、つきつめたら死ぬ意味だってない」と続けた。自分がこの世に生まれた理由を辿ったら宇宙、そして、ビッグバン、そして、「無」に行き着いたのだそうだ。そうやっていくと全てが無意味になるし、裏を返せば、意味は自分でつけていくしかない。

このところカメラアプリのdispoにハマっている。

構えずに、なんとなく気付いたら撮影するようにしている。

画像1

翌日の9時に携帯から「現像」を知らせるアラート。そこには「なんだこれ?」「どこだここ?」と思う写真も並ぶ。確かに自分が見たはずの風景なのに、記憶をたぐり寄せないと思い出せないのだ。少し考え、「あぁ」とごちる時間が楽しい。そして、昨日の私が何だか遠い。その感覚が楽しい。

写真を撮ってスグに見られることが当たり前になってから久しい。dispoと対峙し、待つことがとても苦手になっていたことを自覚する。

今日のタイトルは、ことあるごとに思い出す、岡崎京子さんの著書のタイトル。待つことが苦手になり、記憶を脳の外部記憶装置のように携帯に託している自分。それは進化なのか、退化なのか?

日々は、あっという間に流れてゆく。ひとつひとつの何気ないピースのほとんどすべてを忘れてしまう。dispoで撮影された毎朝9時の写真たちは、私の中の忘れてしまうはずだった記憶とともに呼びかけてくる。

この風景の中に、あなたは確かに存在しました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?