働きながら「40代半ばで大学院に通う理由」のようなこと。
大学院に通って2年目の夏を終えようとしている。かなり衝動的な勢いで入学し、これまでに正直ダレてしまったこともあったが、きちんと通い続けている。
入学時の理由はいろいろあったが、実際に通ってみてから「通う理由」を考えてみると、「私は学ぶことを趣味にできる人間だった」という事実に行き着いた。今も昔もテストのための勉強は大嫌いだけれど、そういえば自分の興味があることは時が過ぎるのも忘れるくらいのめりこめる体質だった(でも、冷めやすいので要注意)。
まず、気分転換になる
「仕事帰りに大学院に通うことと、仕事帰りにお酒を飲むこと。つまりどちらも気分転換しているという点で私は変わらないと思うけど」と言うと酒呑みの友達には驚かれるが、お酒がほとんど飲めない私は(飲める人の気持ちは想像でしかないけれど)本当にそう考えている。
元来、ひとりでいることが好きなので、ひとり飲みに果敢に挑んだ時期もあったけれど(苦笑)、あまり飲めないものだから心底は楽しめない。「○○スクール」のようなところにも何カ所か通ったことがあるけれど、メンバーが固定化しがちで仲良しグループ的行動を強いられる雰囲気があまり得意ではなかった。好きなカリキュラムをフレキシブルに組めて、“個”として自由に行動しやすいという大学という場所の仕組みも私向きなのかもしれない。
脳科学的に、何かと何かの意味がつながった瞬間、快楽ホルモンのようなものが分泌されると聞いたことがある。私は、そのアドレナリンのようなものを味わうこともおそらく好きなのだ。
「楽しい」と感じる、いくつかのこと
仕事で読まなくてはいけない資料とも違い、気分のままに書店や図書館で惹かれた本を読むのが楽しい。合間に物思いに耽ったりするのはさらに楽しい。
家でも仕事でも友人たちの中でもない、自分がまだ誰でもない人間としていられる場所に身を置くことは楽しい(これに関しては時とともに素性がバレていく必然があり目減りしている苦笑)。
世の中で常識と言われることを当たり前のように知らない自分にびっくりし(特に経済まわり)、その衝撃を味わうのも新鮮で楽しい。自分の興味が自ずと押し広げられていく感覚も楽しい。
興味が横にどんどんシフトしてしまい、違う学部の授業を聴講することも楽しい。
レポートや発表などのノルマがあるのは辛いと感じる時もあるけれど、自分がやっていることに句読点をつけ、都度、細かい達成感が得られることは大人になった今は(辛いけれど)楽しい。
まったく出会うことのない、もはや子供くらいの年齢とも言える中国人留学生と、ゼミ合宿の夜にパジャマ姿でジャニーズの話やテレビドラマの話をしたり。朝起きて、一緒にトーストなんかを焼いて食べたり。間に互いの国について少しだけ真面目な話をする。そんな非日常も楽しい。
……などなど。
大学院の意義
ベストセラーになっている山口周さんの『ニュータイプの時代』の中で、
正解がコモディティ化していく世界において「正解を出す能力」が高く評価されることはありません。(中略)「問題解決の能力」は今後、どんどん低価格化が進み、供給過剰の状況になる一方で、当の「問題」を見つけることが難しくなっています。このような社会にあっては、「問題を解ける人=オールドタイプ」よりも「問題を発見し、提起できる人=ニュータイプ」こそが評価されることになります。そして、そのための鍵となるのが「社会や人間のあるべき姿を構想する力」だということになります。
と書いている。「楽しい」と思えることを重ねることで、大学院はまさに、この「社会や人間のあるべき姿を構想する力」を養うことができる、と思う。でも、それはあくまでも副産物。これを目的にしすぎると私は苦しくなっていただろうから、「楽しんだ結果に得られる(かもしれない)力」くらい鷹揚に構えるのがいいような気はしている。
日常から自分を一定時間引き剥がし、自分がのめりこめることに対峙する時間を持てる意義は長い人生にはとても大きいと思う。もちろん通わなくても、それができる人はたくさんいるのだろうが、目の前の仕事や楽しいことに日々が流されやすい私の40代半ばのタイミングには、この「やらざるをえない状況」は必要のようだ。
【補足】大学院に通う時間の捻出について
「大学院に通う時間がよくありますね」ともよく言われるが、フルタイムで働くお母さんたちより、子供がいない私の方がよほど自由時間が作りやすいと思っている。今、通っている大学院で女性は、学部を卒業したばかりの若い世代か、私のように子供がいない女性か、すでにお子様が1人立ちされている世代、に限られている。一方、男性陣は子供の有無は問わずいわゆる働き盛りの30代後半から40代がコアゾーン。その事実が個人的には結構気になってはいる。
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