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できることなら呑気に生きたい。

「葉子ちゃんは、ずっとあんなことを考えているの?」と、このnoteを毎日読んでくれているらしい友達が言った。あんなこと、とは社会のことを何だか深刻に考えている、という意味。答えは「YES」であり、正確には「NO」だ。

できることなら、呑気に生きていきたい。

自分が呑気に生きるためには、まわりにも呑気でいてもらわないといけない。まわりとは、家族、友達だけでなく、それを取り巻く社会。だから、どうにか、そうならないかと真剣に考えてしまう。そのアンビバレンツ。

自分の好きなこと、楽しんでいることを全力で“推し”て、一緒に笑ってもらう人が増えればいいな。本当は、こんな時だからこそ、まったく関係ない楽しいことだけを書き連ねていこうとも思う。

一方で、この日々状況が変わるこの状況に沿って、自分が考えたことを記録して残しておきたいな、とも。この一連の騒動が落ち着き、記憶が薄れていく頃に、やっと自分にとって意味があるのかもしれない。こんなふうに思考が変遷したのだな、と。そんな記録。

と、勝手に、地味に悶絶している。本当に、悩ましい。

おそらく、本日午後、緊急事態宣言が発令される。

なぜ日本だけ、じれったいほどに煮え切らずにモゴモゴしているのかという答えは、憲法との兼ね合いだと聞いた。「個人の自由」と「公共の福祉」が同等であり、違憲立法に該当する可能性があるから。政府の強権発動は、その国の人権思想との関係が深い。日本の場合は、国家が国民に命令する、私権を侵害する権限はない、ということだ。それが私たちが「戦後」守ってきた、二度と国家権力の下に戦時体制に入れないようにするルール。

だから、欧米のように、今回の宣言には懲罰がともなわない。だからこそ、私たちひとりひとりの自主性にすべてが委ねられる。

【メルケル独首相の演説より】旅行・移動の自由が苦労して勝ち取った権利であるという私のようなものにとっては、制限は絶対的に必要な場合のみ正当化されるもの。民主主義社会下で決して軽々しく、一時的でも決められるべきではない、しかし今、命を救うために不可欠なのです。

補償がないままに、自粛ムードが続けば、本当にまずい状態になる人がたくさん出てくることは誰にでもわかることだ。今回の場合は「動かないことが正義」なのは間違いないのだとしても、それでも動かざるをえない方々に対して、国民同士の厳しい監視とバッシングがおこることも想像に難くない。きっと「もっと強制力のある命令を!」と求める人たちも現れる。それは、自ら自由を捨てようとする動き。強制力は誰かを安心させるが、誰かを不幸にする。そんな分断が予想される。

闘う相手は人ではなくウィルス。

明確な「論拠」と考えうるかぎりの公平で迅速な「補償」の提示。緊急事態宣言発令の朝に、私が願うのはその2点だ。

明日からはできるだけ明るく、楽しい話題を書きたいと思う。

【追記】

「まさか」と思いたい↓








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