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オリンピックの閉会式だったはずの日に

本当なら、今日は東京オリンピック閉会式だった。

私はスポーツをするのも、観るのも好きだし、アスリートを応援したい気持ちもある。

けれど、東京オリンピック開催には疑問しかなかった。約2週間のスポーツイベント開催に、これほどまでの莫大な資金を浪費することはもちろん、その中・長期的リターン回収にこれまでの開催国がほぼ失敗しているのに!?  

戦後、平和的なメッセージを国際社会に発信し、技術力や経済的な潜在能力をアピールする絶好の機会だと捉えた1964年大会と同じような気持ちで、国が熱心になってしまう気持ちも分からなくもない。でも、そのロマンをぶつけれても困ると私は考える。昨年放映されていた大河ドラマ『いだてん』で、その思いはより確信へ変わった。

東京五輪についてはいつも頭のどこかにはあるようで、noteでも何回か触れている。

2019.09.24
東京五輪のテーマは復興五輪だった。

災害と祝祭は宿命的に繰り返すかもしれないが、それを乗り越えようとする人々の想像力や表現、技術は、決して同じ繰り返しではない。それは孤独な「喪の作業(mourning work)」ではなく、その時代のあらゆる文化、科学と関係しながら更新されてゆく、慰霊のエンジニアリングなのである。(HPより抜粋

2019.12.22
昨年末の国立競技場のこけら落としを受けて。

維持費も年間24億円かかるらしい。これまでの国立競技場での収入は約7億円程度だったらしいから、差額はどうするのか、まだヴィヴィッドな案はないらしい。

2020.04.22

来年のオリンピックの延期のためにかかる諸経費のニュース(翌日にはIOCの掲載からは削除)に驚いた。ちなみに、追加経費は3000億円。

予算超過は、過去すべての五輪で起こっている。つまり、必然なのである。分析によると、1976年以降の夏季オリンピックでは、平均して252%の予算超過が出ている。その主要因は、最低限のプランであえて安価に見積もり、一旦承認されてから、あれこれ付け加えるのが明確な戦略となっているからだという(『オリンピック経済幻想論』より)。

一般企業なら見過ごされないこの戦略が、なぜ公的資金を使う世界では許され続けられるのか?

以前、感銘を受けた映画に『みんなのアムステルダム国立美術館へ』がある。

2008年の再オープンを予定して04年にスタートした同美術館の改修工事は、地元住民の反対などさまざまな問題によって何度も中断に追いこまれてしまう。その様子をとらえた前作に続き、10年にもおよぶ紆余曲折を経て13年4月についにグランドオープンにこぎつけるまでの顛末を追った。

この美術館は、国民の税金で運営される「国立」であり、パブリックスペースとしての「美術館」である。この映画は問うている。

美術館は、いったい誰のもの?

これは、以前に書いた映画『ニューヨーク公共図書館』についても通底する問いかけだ。

公共って何だ?

少し話は逸れる。

安倍首相の「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式あいさつ」とニュージーランドのアーダーン首相の「核兵器ゼロが広島と長崎の犠牲者に報いる唯一のこと」を私は比べてしまう。

永遠の平和が祈られ続けている、ここ広島市において、核兵器のない世界と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことをお誓い申し上げます。原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、ご遺族、被爆者の皆様、並びに、参列者、広島市民の皆様のご平安を祈念いたしまして、私の挨拶といたします。
私は、核兵器根絶に向けて必要不可欠なステップとして、そして全ての核保有国の核兵器ゼロの達成を含めた地球規模の交渉を求めて、他国もこの動きに加わり、このランドマークな条約を広めることを要請します。このことが唯一、広島と長崎への原爆投下や、太平洋などでの核実験によって苦しめられた人たちに対する報い、レガシーとなるのです。


どちらが世界へ訴えかけるメッセージとして強いのか。もし、来年、延期されたオリンピックが開催されることになるならば、「せめて、どうあって欲しいのか」を自分なりに考えるキッカケとなる2つのスピーチであった。

先に紹介した『オリンピック経済幻想論』は以下のように締め括られる。

無秩序な、世界的独占組織と対峙する際は、細心の注意を払うのが賢明だということ。そして時に、抵抗する方が得策でさえあるということだ。

追記

長崎市長の平和宣言。

安倍首相の広島と長崎のあいさつについて。

ニューヨークタイムスへの小川洋子さんの寄稿。


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