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俺とお前と、完璧なわがまま。

箱根駅伝を横目に、この記事を書いている。完全なる寝正月モード。

昨日、実家へ運転する車中、懐メロをかけまくった(睡気がとぶから笑)。たまたまたその中でかけたチェッカーズ(前期)の「俺・お前」ソングに聞き入る。いつの頃からか、J-POPと呼ばれるジャンルの歌は「僕・君」ソングになったよな、なんていうことを考えながら。

紅白で聴いたNHKの2020年東京オリンピックのテーマソングになる嵐の『カイト』を思い出す。そこには父と母が登場し、その中で、「父は言った『逃げていい』と」という歌詞が出てくる。日本のこれまでの父性を考えるならば、これはなかなかに革命的な歌詞である。きっと、今年だけでなく、以降何年間も、ゆずの『栄光の橋』を超えるほどに耳にすることになるだろう。

そして、紅白では、この曲を紹介する際、作詞・作曲をした米津玄師は「誰かに生かされ、許されながら生きてきた」というようなことを発していた。その謙虚さは必要で、異論はないけれど、現在、若者に最も影響力があるであろうアーティストがそう発信し、それに多くの若者が共感する時代に日本はオリンピックを開催するのだな〜、と複雑な気持ちになってしまった。

そんなことをもんやり考えながら、昨晩は『きのう何食べた お正月SP』を観た。シロさんとケンジのエピソードに互いことを思いやることの尊さや愛しさ、ジルベールと小日向さんエピソードに愛の形はカップルの数だけあるわけで第三者の目線など関係ないんだよな〜、としみじみ。

わがままお姫様のジルベールは『ノルウェイの森』を引用した。

私が求めているのは単なるわがままなの。完璧なわがまま。たとえば今私があなたのショート・ケーキを食べたいって言うわね。すると、あなたは何もかも放り出して走ってそれを買いに行くのよ。そして、はあはあ言いながら帰ってきて『はい、ミドリ、苺のショート・ケーキだよ』ってさしだすでしょ、するとわたしは『ふん、こんなもの食べたくなくなっちゃったわよ』って言ってそれから窓からぽいと投げ捨てるの。私が求めているのはそういうものなの

私たちは「生かされている」前に、「生きている」。まずは、生きていかねばならない。上記の『ノルウェイの森』ミドリのように振る舞っても、不特定多数の人に許されないかもしれないが、どこかにきっと喜んでくれる人はいる。

言葉(思考)が行動を縛る。

エンタメは社会を写す鏡だと思う。社会的にみて、あるいは多数決の「正しい」「正しくない」というジャッジだけを評価軸にしていくと、何かとても居心地の悪いものを感じる。

今の時代に不粋なのかもしれないけれど、「俺・お前」ソングがなんだか恋しくなっている。



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