見出し画像

プドゥ刑務所跡地と戦争被害者たちの慰霊碑を訪れた日のこと。

おはようございます。
Matahari@マレーシア🇲🇾です。

8月を迎えました。
みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

マレー半島クアラルンプールでの慰霊旅についての記事が続きます。

前回の記事では、今年慰霊旅を始めるに辺り、このマレー半島で眠る先人のお墓、クアラルンプール日本人墓地に訪れた日のことにについて、2回シリーズでお届けしました。


自由度が増したマレーシアで慰霊旅をスタート

長年のリサーチとコロナ期間を経て、ずっと行こうと思っていた慰霊旅がこの夏に実現することになりました。

マレーシアへの海外からの入国も8月1日から一段と緩和されることになり、コロナ前にほぼ戻りました。
未接種者ですらも日本からの入国はPCRテスト不要で隔離も無しになりました。
マレーシアへの観光やビジネスで皆様がお越しになることを心からお待ちしております!(筆者の本業は日英通訳です)


次の慰霊の目的地を決める際の迷い

まず、日本人墓地を訪れることは迷いがなかったのですが。
さて、次の目的地はどうしよう。

現地の方から聞いたお話しやガイドブックやインターネットからの情報をくまなく集めながら、次に向かう場所を決めかねていました。

結局その日は、友人夫妻から背中を押される形で行くことに決めました。二人と一緒なら大丈夫だと心から思えたのです。

今回の目的地は

その日の目的地は
「ららぽーと@BBCCブキットビンタンシティセンター」(プドゥ刑務所跡地)

「福建義山」

当日は、朝から曇り空で今にも雨が降り出しそうな雰囲気でした。

まるでそれは運転席でハンドルを握る私の心を表しているかのようでした。

最初の目的地: BBCCブキットビンタンシティセンター

BBCCは、ららぽーとや高級コンドミニアムが立ち並ぶ、クアラルンプールの中心地ですが、実は・・・

英国植民地政府と大日本帝国政府が使用した刑務所プドゥ刑務所跡地なのです。

1996年にそのお役目を終えた後、しばらくは内部を公開するヘリテージツアーなるものが行われていたそうですが、その後すぐに廃墟化。

筆者は2010年に移住したので、街の中心地を通るモノレールからその廃墟の様子がチラリと見えた時に、ただただ背筋がゾッとしたことを覚えています。後で聞いたら刑務所跡地。自分が感じた感覚に妙に納得したものです。

外国人のわたしですらそうなのですから、地元の人にとってみたら悍(おぞ)ましいことこの上ない場所ではあるのですが、いつまでも廃墟にしておくのはもったいない場所と判断されたのでしょう。勇気ある(?)人々によって再建され、現在は人々が集うシティセンターとして生まれ変わりました。

(余談ですが、池袋サンシャインシティは巣鴨プリズンの跡地に建設されていますし。ただ、敗戦し自国の戦犯がGHQによって収容された刑務所と侵略した国で使用した刑務所では意味が全く違うとは思うのですが。)

その場所に、当時使われていた刑務所の門が白く塗り直されて残されています。大通りJalan ImbiとJalan Hang Tuahからよく見えます。

「プドゥ刑務所跡地」の門(白く塗られている)と日本の「ららぽーと」と、背後にそびえ立つのは老舗のショッピングモール「ベルジャヤタイムズスクエア」(筆者撮影)
プドゥ刑務所跡地の門(筆者撮影)
プドゥ刑務所は、1895年に英国植民地政府によって建てられました
日本軍がクアラルンプールが陥落した1942年1月11日から3年8ヶ月は日本軍が
日本敗戦後また英領に戻り、さらにマレーシアが独立後も1996年まで使われ続けました(筆者撮影)

次の目的地:福建義山

クアラルンプール日本人墓地からほど近い、広大な緑地の丘にある福建義山(中華系の霊園)にいくつか戦争の被害者を埋葬する慰霊碑あります。ららぽーとからも地図上の直線距離は非常に近いですが、幹線道路を大回りしてUターンする必要があるので車で8分ほどかかりました。

運転席に座り、その位置情報を調べている時にまた不思議なことがありました。

ごく最近、わたしの近しい友人エレン(仮名: 英国人を祖父に持つ中華系マレーシア人30代後半女性)から
「わたしのお祖母さん(配偶者であるお祖父さんは英国人)が眠るお墓が、クアラルンプール日本人墓地のすぐ近くにあるんだよ。」
と聞いていて、その情報を元に近々一緒に訪れようと思っていたのですが。

なんとその慰霊碑は彼女から教えてもらったお祖母様のお墓がある場所と同じ場所にあることに気付きました。(エレンのお話についてはまた)

さて、お話を慰霊碑(殉難記念墓)に戻します。

中華民国男女僑胞惨死墳(中華民国男女僑胞殉難記念墓)の碑文には
『(英領であったクアラルンプールが旧日本軍によって陥落した1942年から1945年までの間に)惨めに殉難した800余のわが同胞、500余の抗日戦士と数十名の生き埋めの犠牲者が埋葬されている。』
と書かれてあります。日本語訳があります。

中国語とマレー語が正面に
脇に英語の碑文(筆者撮影)
そして日本語の碑文も(筆者撮影)

埋葬されている人々の中には、前述のプドゥ刑務所において処刑された人々が多く含まれているそうです。

その義山(霊園)の丘を訪れている人は私たち3人以外に誰もいない様子でしたが、青空が澄み渡り野鳥の声が響き渡り、ここにもやっぱりフレンドリーな野良ワンちゃんたちがたくさんいました。

立派な慰霊碑
毎年8/15には追悼式典が行われるそうです(筆者撮影)
マレーシアの霊園のはいつも大きな大きな樹々があります(筆者撮影)
福建義山は美しい場所でした(筆者撮影)
機嫌良さそうに私の後をついてくる野良ワンちゃんたち(筆者撮影)


そして、次に向かったのは300mほど離れた場所にある、華僑機工回国抗戦殉難記念碑。

日中戦争時代、旧日本軍に貿易の港を全て占拠されてしまった中国は、ジャングルの中を切り開いて道を作り、東南アジア各所に住む華僑らがトラックで物資を送り届け祖国を支援し続けました。

中国国民党の蒋介石を援護するルート、援蒋(えんしょう)ルートと呼ばれていました。

道なき道を行く難しい行程で命を落とした人々のための慰霊碑(筆者撮影)
福建義山にはたくさんの美しい植物が生息しています(筆者撮影)

そこに眠る魂たちが、わたしたちの訪問をどのように感じてくださったかはわかりませんが、、、少なくとも運転席に座った時より、わたしの気持ちはずいぶんと落ち着いていて、帰る間際には自然に目をやる心の余裕まで持てていました。

また来ます、とご挨拶してその場を後にしました。

行かれる方は、ぜひ虫除けスプレーのご用意を!


なぜわたしは慰霊旅を続けるのか。

長くわたしのnoteを読んでくださっている方ならもうお気づきでしょうけれど、わたしは感情で物事を判断する傾向があります。

「知ってしまったら行動せずにはいられなかった」
それに尽きます。
特に目的意識や成し遂げたいことがあるわけではないんです。

ただ、そういう純粋な想いで慰霊に伺うことで、何かが癒されればいいなぁ、と祈りながらできる範囲で時間を見つけて伺っています。

そんな中、「一緒に行きたい」と言ってくれる方が現れました。
一緒に各地を巡っているので心強いし、だからこそ続いていると思います。一人なら今頃心が折れていたかも。

リサーチも、一人より二人、二人より三人の方が、視点も広がり深くなって行くようです。毎回新しいことを知るたびに無知を恥ずかしく思います。この地に12年も住んでいるのに。

旧暦七月は毎年慰霊を意識しながら過ごしたいと思っています。次回は旧暦七月についてもう少し詳しく書きますね。

本日の記事は、新しく出来た「ららぽーと」で、日本製品のショッピングや和食ダイニングを楽しんでいたけれど、そんな歴史的史実を全く知らなかった、、、という方に、これまで本当にたくさん接してきましたので、あえて文章にしてみました。

本来は学校で教えるべきことを教えていないので知らない日本人の若い世代に罪はないと思います。ただ自分で調べることができる時代です。在マレーシア日系コミュニティの中で負の加害の歴史も風化させない努力が必要と痛感しています。

もっと言えば、現地の方で過去日本が起こした戦争と刑務所の歴史を知らない人は一人もいないのです。学校でしっかり習います。その事実は非常に重いと感じています。

この活動へのご支援のお願い

最後に、活動へのご支援のお願いです。

わたしは、これからも出来る範囲でマレー半島やボルネオ島また東南アジアの国々において「明るい慰霊旅」を仲間と共に続けて行きたいという願いがあります。

そのベースにあるのは人種や国境を超えた人間愛。

この活動への、皆様からのご支援やご感想をお待ちしております。ご寄付や支援はこちらからよろしくお願いいたします。(PayPalになります)

今日も最後まで読んでくださりありがとうございます。

2022年8月2日
Matahari@マレーシア🇲🇾


よろしければ、サポートをよろしくお願いします!いただいたサポートは、マレーシアでの平和活動を続けて行く際に、大切に使わせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。