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見たくもない記憶に、あなたの願いがあるのなら

先日、ある原稿を書き上げた。

今年に入ってからは「セルフケア」や「自己肯定感」、こんな領域にとても興味が出てきて。疲れた自分に送るエールのような文章を多く書いてきたと思う。自分の生活や思考に寄り添って、その肌触りを言語化しようと試みてきた。


だけど、自分を癒すことは「私の記憶と体験」だけを追いかけているばかりでは叶わなくなってきた。自分と向き合うだけでは、まだそれは上っ面の癒やしにしか過ぎない。そんなふうに思うようになってきたのだ。



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心境の変化があったのは、この数ヶ月住む場所を変えたことが大きいと思う。一番華やかでにぎやかな春と夏、私はベトナムの何もない片田舎で静かにひとり仙人のように(!)暮らした。コンビニもない夜がしっかりと暗い場所で、できることは自分と向き合うことだけだったのだ。

ひょんなことから、この仙人用の住居を失った私は「街」へ出た。夜がほの明るくて、人が、たくさんの人たちの生活の匂いがする場所へ引っ越した。半年くらいの間、一人で粛々と過ごしてきた生活からドラスティックに転換した。

知り合いも増え、街を歩けば欲しい物で溢れている。内省をする暇もなく、次々と新しい情報が襲う。


困ったことに、私は静かに自分と会話をすることができなくなってしまった。生活のリズムが変わってしまったことで、noteも自由にかけなくなってしまったのだ。



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自分と向き合えなくなってしまった。でもひとつ「私の話」を書かなければいけない約束があった。もう2ヶ月も前に書こうと決めていた原稿なんだけれど、ばたばたと住環境が変わり続ける中で、何も書けなくなってしまったのだ。こんな経験は初めてだった。

思考の矢印を自分に向けても、そこにあるのはテレビの砂嵐のような私の感情しかなくて。見えそうで何も見えない、ごちゃごちゃとガラクタで溢れかえっているのに空虚な寂しい空間しかなかった。

それでも、書くと約束した原稿は書き上げねばばらない。

矢印を外に向けないと。ずっとずっと自分に向いていた矢印を外に向ける。本当に恐ろしいことだった。自分ひとりの経験なら、私が好きな言葉を選んで、それでいて自分好みの結末へ導いていける。納得させることができる。

でも外に向けた矢印の先にあるものを、改ざんすることは難しい。そう、私以外の誰かの感情を紐解いていくのは、変えられない事実と改めて向き合うということなのだ。



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家族の話を書いた。

昔から苦手で、避けてきたトピックだった。べっとりと染み付いた家族の記憶に矢印を向ける。傷だらけの私と、その周りにいる血がつながった人たち。

毎日のようにこれをすることは不可能だなと思った。でもたしかに辛い記憶を言語化することは、すごい癒やしだった。ぐにゃぐにゃの薄暗い泥を掻いて掻いていくと、そこに実は希望が隠れていたことが分かったからだ。目をそむけているだけでは、決して見つからなかった小さな光る希望。傷つく覚悟で手を突っ込まなければ、知ることはなかった。



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ひどい、不用意な言葉を投げられると傷つく。心にぐわぁって突風が吹いて、夏の始まりに入ったプールの後みたいに、全身ガタガタにふるえてしまう。

でも誰かが放った暴言には、その人の「願い」が隠れていると思う。

「ブス」:きれいになりたい
「使えないな」:有用でありたい
「どっか行け」:私はここにいたい

その願いが強まったとき、その願いが汚されそうになった時、その願いを私が壊してしまいそうになった時。願いを薄暗い泥でくるんで投げてくるのだって。



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矢印を外に向ける、こと。

ふう、癒やしにはなったけれど。しばらくはもうしたくないな。でも自分と向き合うだけでは、進めなくなった時。それがきっとタイミングなんだと思う。その時が来たら、手を突っ込んで見る。小さな願いを見るために。

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