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私は子供が欲しいのかしら?それとも

ベトナムの南にある大都市サイゴンの、サービスアパートメント1階にあるカフェで朝ごはんを食べてきた。ここはキッチンも洗濯機も部屋にある宿泊施設で、ゆっくり暮らすように滞在したいんだろう家族連れをよく見かける。

朝、いつもの窓側の席でいつもと同じように、真っ赤なスイカととろとろに熟れてしまったマンゴー、そしてほうれん草入りのオムレツを食べていた。窓の外には小さなプールがある。長さは10メートル幅も5メートルくらい、大人の象が3頭も入ればいっぱいになりそうなくらいの大きさの。

朝日がプールの水面に反射して、その光の反射が私のテーブルの上にあるスプーンにぶつかっていた。とても気持ちのいい朝だった。



食事を終えてそれでもずっとプールを見ていると、3人の家族がやってきた。30歳前後の夫婦と、2歳くらいの小さな子ども。お父さんとお母さんは一生懸命子供のための浮き輪を膨らませていた。子供は両親が顔を真っ赤にして、ビニールの袋に息を吐き出している様子を、ぼーっと眺めていた。

きっと日本人の家族だろう、と思った。完璧に対策された妻の日焼け予防スタイルと、おしゃれな海パンをきて週末はフットサルしてます! と言わんばかりの夫と、サラサラの髪の毛が美しい小さな男の子と。


両腕にパンパンに膨らんだ浮き輪を装着した男の子は、びっくりするくらい躊躇なくプールに飛び込んだ。きっと大人の胸くらいはある、ちゃんとした深さをもった水の中に、ふわっと10cmほどジャンプしてそのまま飛び込んだ。浮き輪が彼を沈めない、そのまま滑るように水面の上で仰向きになると、お父さんもお母さんも笑いだした。きらきらひかる水面でみんなクシャクシャな顔をしている。あぁ幸せな家族って、こういうことなのかしら? と私は目頭を熱くする。

しばらく凝視していた。カフェから3人の親と子をじーっと見ていた。



人間なんてものは死んだり生まれたりするものなので(生物全般だけど)、子連れの家族を見かけるなんて日常茶飯事だし、ましてや30歳を超えた私の周りには子がいる友だちばかりだ。

世間というか社会。私たちが存在する場所が醸造した視点から鑑みるに(つまり常識)、いい歳した大人は結婚していて子供がいるべきで。むしろもっと高次元から考えてみると、ヒトという種の保存のためには、結婚とかはどうでもいいからとかく子供は作っているべきなんだろう、と思う。

生き方が多様化して、様々な立場や状況におかれている私たちは「一般論」を語ることが難しくなっている。でも私は私が生まれているのだから、やっぱり生物学的には子供を作るのが、自分の役割なんだろうと思ってしまう。



私には子供がいない。

私の遺伝子情報を積んだ生き物は、まだこの世に存在していない。


私は生まれてから太古から続く祖先とか、母とか父とかの遺伝子情報を積んで毎日歩いている。何億人? よくわからないけれど。数えたくもないほどのヒトが生まれてきた証みたいなもんを、背負って歩いているんじゃないかと時々思う。

だからこそ、その重量のない重圧に時々負けて、身体が動かなくなったり、どこかへ逃げ出したくなるんじゃないかとか。



自分の証を、自分の子に託したいのか? 

と問うてみる。

分からない、本当にどうすればいいのか分からない。

と私は答える。



きゃーかわいい子供欲しい。子供の靴とかかわいいしとりあえず子供欲しい。結婚したし子供欲しい。

自分の証とか種の保存とかもう、小難しい思考に逃げるまでもなく、子供を作ればよかったのにとか思う。もうこの際ね、避妊に失敗してできちゃいましたとか、もう何でもいいから不可抗力で子供ができてしまえばよかったのにとか思う。こんな生物とか社会とか自我とか遺伝子とか悩んでしまうくらいなら、18歳くらいで出産してしまったら良かったのにとか思う。

でも幸か不幸か、私にはできなかった。ハプニングも訪れなかったし、意思を持って作ろうともしなかった。

どうしても自分のおへその下の子宮という内臓の中に、自分とは違うけれど自分の情報を積んだ生き物が生存することが怖くて怖くて。妊娠なんてしてしまったら、私は狂ってしまうんじゃないだろうか? って思ってしまう。

だから周りの女性が平気な顔をしてお腹をまんまると膨らませて、幸せそうな顔をして歩いている姿を見るだけでも、時々ぎゅっと目をつぶりたくなってしまう。自分がこの世の中に生まれてきた事実からは目をそらせたまま。



あぁ、ごめんなさい。完璧もう、駄文だし、こんなの公開してもいいんか? と思うんだけど。続ける。妊娠と出産と狂気と恐怖と、もう少し書く。


30代も半ばになってきて、なんていうか妊娠のタイムリミットが見えてきて、この子供を持つのかどうかみたいな重圧に押しつぶされそうになることが増えてきた。怖い怖い正気を失うのも、自由を失うのも、お腹が膨らむことも、私の股間から人の頭が出てくるのも、もう全部怖い。

私が子を持つことに恐怖を感じる理由は、金銭とか環境とか政治が解決できそうなことじゃなくて、もっと生理的でどろどろしてもやもやしている。

でも将来私は子供がいないことを後悔するのだろうか。一人寂しく死ぬ間際に、私の情報を誰かに託したくなり、でもそれが叶わぬことを知って絶望するのだろうかとか。

今子供を持つこともも怖いし、先の未来の絶望も怖い。



今朝、プールで遊ぶ美しい親子を見ていると、夜毎に不安になっていたものがこんな明るい時間に出てきてしまった。私の脳内だけでぐるぐると撹拌していたものが、太陽の下に出てきてしまった。まだ完璧ではないけれど、言葉の姿を得て具体化してきてしまった。




大きく息を吸って吐いてみる


なんともまぁ、生きづらさを自ら作っているわね、と鼻で自分を笑っちゃうよ。

あぁ、やだやだ。

ただ私は、アホみたいに祈っている。私はもし今日が楽しかったならそれが続いてほしい。そして今日が悲しい日なら、もうそんな日は来ないでって祈っている。毎日毎日そりゃもう真面目に、手を合わせて神様にお願いをしている。


だから、

私の今日は楽しいのか悲しいのか、そんな簡単なことも分かんなくなっちゃって、何も祈れなくなっちゃったけれど。今朝出会った3人の親子の楽しい1日が、少しでも続きますようにとだけ祈ってみようと、目を閉じた。

でもきっと。

うーん、100年じゃ足りないかも。じゃあきっと500年経ったのなら、私もあの親子もこの世にはいないのだし、まぁそれじゃあどうでもいいかと、考え始める。

そう考えると肩の力が、ほんの少し抜けた気がした。そして今の自分なりの1日を、やれやれと始めるかと思いカフェを後にした。

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