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自分が出来なかったことをやった女

ある映画の中で、不倫をした主人公の女性は、職場の女性の上司に

女はね、自分が出来なかったことをやった女が一番嫌いなんだよ

と言われる。

このセリフを聞いた時、なぜか色々しっくりくることがあった。これまで私を幸せにして、悩ませて、愛憎がべっちょりともう引き離せないくらい。究極の女同士の関係を思い出す。

私と母だ。


母は教員をしていて、安定的な生活を得られるからと銀行員の父とお見合い結婚をした。そして長女で第一子に生まれてからは「私(母)ができなかったこと」をすべて私に託すようになる。

まだ小学校に入る前から、英語を習い、塾に通い、新体操をして、スイミングとピアノ教室に通った。小学生になってからは習字、剣道、それからそろばんも追加された。

小学校で1日遊んで勉強してから、それから習い事に向かう。かけもちをすることもあった。放課後は友だちと遊べない、私は学校一忙しい小学生だったと思う。


母は私によく言う。「もっと私に感謝してもいいくらいよ」って。母は4人兄弟の末っ子で、習い事も十分にさせてもらえず、大学進学のときも理科系の学部に行きたかったがそれが許されることはなかった。やりたいことも、自分が向いていることも、十分に考えることも選択することも許されなかった時代に生きた自分が、娘にできることはすべてやりきったと。

有り余る選択肢を、私ができなかったことを私(娘)に与えたかった、と。


ときどき、私は思うのだ。人生のじの字も右も左も分からない小学生に、選択肢をゆだねてどうするのだって。私は苦しかった。あれも、これもできてしまう自分を見て、苦しかった。

たくさんの習い事をして、たしかに私は器用にたくさんのことができる。でもなんていうかそれは、薄い表層のいち部分みたいなレベルで。深くその本質を理解して身体を動かすことはできない。毎日違うことを、こなしていかなければならないのだ。学校と塾の宿題もピアノ練習も、家でやらなきゃいけないこともたくさんある。

だからすべての習い事で、私は母が期待するレベルの「芽」が出なかった。何者かにならせてあげたい(私の代わりに)という、彼女の願望は私の手で叶えられることはなかった。


女同士の親子関係はどうも煮詰まりやすいと思う。母性本能的に良かれと思って、自分がうけた不自由を連鎖させないように母親は頑張ってしまう。そこで子の人生と自分の人生が、いつの間にか溶け合ってしまい、分離不可能になってしまうことがあると思うのだ。



だから私は逆にだよ。母のことをときどきうらめしく思う。何も選択肢がないことを、羨望してしまう。

女はね、自分が出来なかったことをやった女が一番嫌いなんだよ

このセリフから、私の言いたいことを導き出すとしたら。限られた選択肢の中から、その時の最適解を選んで選んで...。何者にもなれなかったかもしれないけれど「普通に」結婚をして子供を作って、その子に夢をたくしたあんたのほうが、私ができなかったことをやった女だよ。



この「自分ができなかったこと」、きっと私たちはいつまでも平行線のまま。交わることは今後無いだろう。寄せられたお互いからの道程への評価に感謝しながらも、横目で舌打ちを軽く打つような、そんな緊張感があるのだ。

どんなに誕生日に花を贈り合っても、温泉に連れ立って行っても、笑顔で食卓に花を咲かせても。


血のつながっているからこそ。

お互いがやった、私ができなかったことを。

私とあなたはいつまでもいつまでも、拍手を送りながらも受け入れられないのだ。




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