兄貴ができたような銀蝿との出会い
それは1981年2月19日に突然やってきた。
当時は80年代歌謡曲ブームの真っ只中。数多くあった音楽番組の中でもおそらく一番人気であったであろう「ザ・ベストテン」に初登場した横浜銀蝿。朝刊のテレビ欄に書かれていた横浜銀蝿の文字が読めず「今日ベストテンに横浜なんとか出るね。何者だろうね」なんて学校で会話したのを覚えている。
この数日前には「ぶっちぎりII」が既にオリコンのアルバムチャート1位を獲得してるから、実際にはもう人気に火はついていたはずである。しかし当時はインターネットもない時代。リアルタイムで見たテレビや聞いたラジオの情報のみがリアルなものだったから、オレにとってはこの「ザ・ベストテン」初登場が横浜銀蝿とのファーストコンタクトである。
よこはまぎんばえと読むのか、面白いな。そしてかっこいいな。というのが初見の感想だ。いわゆる全身を電流が駆け抜けるような衝撃はなかったものの、瞬間的に気になる存在になったことははっきり覚えている。
翌日学校ではこの横浜銀蝿の話題でもちきりだった。早速クラスで「オレ、銀蝿のアルバムのカセット持ってるよ」と言ったN君にスポットが当たった。別に不良でもなんでもない一人の少年がたまたま持っていたアルバム「ぶっちぎりII」を聞かせてもらいに学校帰りにN君の家に遊びに行った。
アルバムの最初に入っているエンジン音。そしてどの曲にも入っているロックンロールという言葉。小学6年のガキにとってはかなり大人で渋い声に聞こえた翔くんのボーカル。これだけで十分刺激的だった。
Ok!
Let's Go!
Thak You!
という翔くんの言葉に痺れた。
歌詞の内容はまだまだ全然入ってきてないんだけど、この翔くんの短い掛け声に虜になった。
かっこいい。もうこの一言に尽きる。
ロックンロールとはなんぞや?なんてまだ分からなかったけど、オレ、ロックンロールが好きだ!と胸を張って言っていた。
早速このアルバムをカセットにダビングしてもらい、ひたすら家でこのテープを聞いていた。この「ぶっちぎりII」を聞いてるとなんだか大人になった気がしてたまらなかった。
当時はたのきんトリオとか松田聖子のアイドル黄金期。アイドルの話題で溢れていたクラスでも一目を置かれるようになっていたのは横浜銀蝿とシャネルズ好きだった。少し大人な感じで見られていたように思う。
クラスメイトに「横浜銀蝿っていいよね」なんて言われると、嬉しいくせに「名前間違えてるんじゃねぇよ!正式にはザ・クレイジー・ライダー横浜銀蝿ローリング・スペシャルって言うんだ。覚えとけよ!」なんて言ったりして、オレが一番銀蝿のことが好きだと言わんばかりだった。まだダビングしてもらった「ぶっちぎりII」しか聞いてないくせに。。
I love, we love 横浜
想い出どっさりMy town
I love, we love 横浜
一度いらしてみらんしょ
「I Love 横浜」の歌詞を聞いて、一度も行ったことのない横浜という街を想像する。きっととんでもなくいかした街なんだろう…
元町、チャイナタウン、伊勢佐木、本牧、ディスコティック、馬車道、山下…
田舎に住むオレにとってはひたすら想像するのみで、まだ行ったことのない横浜という街にただただ憧れたものだ。
そうこうしてるうちに、オレに横浜銀蝿を教えてくれたN君が「ぶっちぎり」も買ったというんでその日に遊びに出かけた。
N君の買った「ぶっちぎりII」はカセットだったからジャケットはそれほど印象に残らなかったが、「ぶっちぎり」はアナログレコードだった。デカくて銀色がキラキラ光ってて最高にかっこいい!と興奮したのを覚えてる。
早速針を落としてもらうとやはりエンジン音から始まるぶっちぎりRock'n Roll。この瞬間がこの後のオレの青春を決めたんだと思ってる。まだバイクや車に興味を持たないただの田舎のガキが心から憧れる存在に出会った瞬間だ。銀蝿の曲を聞いてる時はいつもバイクや車に乗っている気分だった。
走り出したら止まらないぜ
土曜の夜の天使さ
うなる直管闇夜をさき
朝まで全開アクセルOn
なんて刺激的なんだ。
いま思うと、オレのようなバイクにも不良にもまだ縁のないガキを虜にするように計算され尽くしたかのような歌詞だ。分かってる人からしたら一言「ダサい」のかもしれない。でも知らないオレたちからしたらもう全てがかっこよくて憧れて聞いてるだけでワクワクした。
マブイあの子も箱乗りってどんな状況?
カストロの香り撒き散らしってなんだ?
土曜の夜にいったい何が行われてるんだ?
何を言ってるか分からない。
分からないけどかっこいい。
曲も最高にいかしていたが、歌詞も秀逸すぎる。〈昨日と今日の隙間を抜けて〉とか〈ルームミラーに浮かぶ赤いシグナル背中に受けて〉といった表現方法が刺激的で、今聞いてもあの頃の気持ちが蘇る。この時はまだその人が嵐さんとは知らなかったがタミヤヨシユキって何者だ?と思っていた。
おどれいかした Dance Tonight
おどれいかした Dance Tonight
おどれいかした Dance Tonight
おどれいかした Dance Tonight
このフレーズが頭の中をぐるぐる回る。踊ったことも、ディスコに行ったこともなくても、なんとなくそういったものに興味が湧き、想像力をフル回転させてこういったフレーズにいちいち興奮していた。
難しいことは一切歌わず単純明快な言葉の繰り返しが多い。聞くものの頭の中を横浜銀蝿自身の言葉で埋め尽くす手法が散りばめられている。
I say 最高 Rock'n Roll
I say 最高 Rock'n Roll
I say 最高 Rock'n Roll
I say 最高 Rock'n Roll
陽気になったらRock'n Roll
その気になったらRock'n Roll
Rock'n Roll is so good
ロックンロール。
サウンドだけでなく、ロックンロールという言葉・フレーズ自体が心に響いた。最高!という一言で片づけると簡単なものに感じるが、親や先生、誰の言葉よりも、横浜銀蝿の歌詞や言葉は魅力的で最高だった。
当時、「横浜銀蝿なんて聞いたら不良になる」とよく言われたものだ。横浜銀蝿のコンサートには行ってはいけない学校まであったのだからよほどの影響力があったに違いない。オレもその影響を受けた一人だが、あの時横浜銀蝿に出会ったことに今でも感謝してる。その後中学で少しグレてしまったことは、親や先生からしたら「ほら言わんこっちゃない」って感じかもしれないが、横浜銀蝿に出会えていない青春時代なんて今考えたら寂しすぎるし想像もできない。なぜなら自分の知らない世界を教えてくれた兄貴が突然できたようなもので、曲を聞くたびにいろんな景色を見せてくれる存在だったから。
今でも土曜の夜になると意味もなくワクワクしてしまったりして、横浜銀蝿の影響たるやとんでもないものである。大人になる前の一番大切な時間は全て横浜銀蝿によって形成されたといっても過言じゃない。
最後に、後から「シングル曲はアルバムに入れない」という信念があると聞くまでは、なぜアルバムに「ツッパリHigh School Rock'n Roll(登校編)」が入ってないんだ?というのが不思議で仕方なく、当時クラスメイトと議論したのを懐かしく思う。
今回は初回ということで、ざっくりと横浜銀蝿と出会った時のことを書いてみた。次回からいろいろと視点を変えて銀蝿一家を考察していきたい。なんせ38年も前のことだから、若干の記憶違いなどはお許しを。
It's only Rock'n Roll
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