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預かり物

学校から帰った賢一は、玄関で靴を脱ぐと部屋に行く為、廊下を歩いていた。
途中、開いてる襖があってので、
いつものことだと思いながら、チラッと覗いた。


広い畳で大の字になり、イビキをかいてる親父がいた。

トランクスの中に手を入れて、

ボリボリ掻いてはまた大イビキ。


やっぱり見慣れた光景があるだけだ……。

部屋に入るとベットに座り、コンビニで買った夕飯と、緑茶のペットボトルを袋から取り出す。


今日はカルビ弁当にした。

手を合わせると、ほとんど咀嚼することもなく、掻き込んだ。

アッという間に完食した賢一は、さっきの袋に空になった弁当の容器を入れて、緑茶をゴクリと飲むと

ベットに寝転んだ。


賢一は、この春から大学生になる。

親父は何の関心もないので、自分の息子が大学に通うことすら知らないだろう。


賢一は、1000万の入った通帳を、2冊持っている。
親父から渡されたものだ。

入学金から何から賢一自ら貯金を降ろし、支払った。 


誰か一人には話しておいた方がいいと思い、賢一は叔父にだけ大学のことを伝えることにした。
余りに好きな人ではないが。


合格祝いだといい、叔父は銀座のステーキ店で、A5ランクの特上黒毛和牛のステーキをご馳走してくれた。
さすがに親父の兄だけのことはある。
下品な成金臭さが鼻をついた。


600gのステーキを、ぺろっと完食した賢一を見て、叔父は豪快に笑った。


「ところで賢一は家を出るのか?」

「出るって?」

「分からんのか。勉強は出来る頭を持ってるくせに。一人暮らしをするのかと訊いてるんだ」


「考えてなかった。それもいいかも。ただ引っ越し支度が面倒くさいな」

叔父は呆れた顔をしている。

「金さえ出せば、全部業者がやってくれるんだよ。それにすればいいだけのことだ」


「便利なんだな」

「早目に決めた方がいいぞ」

叔父はそう云って、グラスに残っていた赤ワインを流し込んだ。


「賢一、元気か」


翌日、いつも通りに夕飯を買って、家に戻る途中、声をかけられた。

近所の質屋の店主だ。

店構えは古臭く、平成の初期か昭和の頃には、あちこちにあっただろうといった感じだ。

よく潰れないよなと賢一は感心している。

「賢一も大学生か……。見たかったろうな、美名子さんも」

美名子というのは僕の亡くなった母のことだ。


親父の知人の紹介で、母はこの家に嫁いだ。
それも親父が美人の母に一目惚れをして、半ば強引に結婚した、と近所の噂で訊いたことがある。


だが父は女好きだった。

肺を患っていた母の入院中に賢一は知らない女の人が家に居るのを何度も見ている。

それも一人ではない。

何人もの女性を父は平気で家の中に入れていた。

舅も同じだった。

まだ自分の妻がいるのにも関わらず、女を作っていた。

姑は、どんな気持ちだったのだろう。

などど、そんな心配は無用だ。

姑も若い子を囲っていたのを賢一は知っていた。
アイドル歌手のような顔の、若い男の運転する車から、姑が降りてくるのを見たからだ。

車に乗っていただけなら賢一も別に何とも思わなかっただろう。

違ったのだ。

運転席からアイドル顔が降りて来て、なんと姑を抱きしめて、その上キスまでしたのだ。

いま思えば祖父も祖母も、その頃はまだ還暦前くらいの年齢だ。
老人と呼ぶには早かっただろう。

だが賢一には、やはりお爺さんであり、お婆ちゃんなのだ。


賢一は、母以外の家族が大嫌いになった。


「美名子さんは、ちょくちょく店に来てくれてね」

「母が、ですか」

店主は、うなずくと小声で話し始めた。
「賢一の親父さんには黙ってて欲しいんだが」

そう前置きをして。


今はもう居ない父方の祖父と祖母。
二人共、病気と運転事故で亡くなっている。


母がこの家に来た時は、舅も姑も健在で、財布の紐は姑がキッチリと握っていた。

母は一円も自由に使える金を貰っていなかったそうだ。

どうしても、必要な時は母は嫁いだ時に持ってきた着物などを、この店に質入に来ていたのだ。

「気の毒だったな。せめて賢一の今の姿を見るまでは、生きていて欲しかったよ」


自分の部屋に戻っても、賢一は何も頭に浮かばずに、空虚な時間が、ただ流れている。

その時、賢一はあることを思い出した。

母は病弱だったし、僕が小学生の時に逝ってしまったので、思い出は、ほとんどないに等しかった。

だけど

一度だけ、僕は母の実家に連れて行ってもらったことがあるのだ。

柔らかな人だった。

祖父も祖母も。

その穏やかさは、母にもしっかりと受け継がれていることを、小さい自分にも、うっすらと感じられた。


祖父が夕暮れまで、僕と遊んでくれて嬉しかったこと。

母が祖母と、笑いながら料理を作っていたことも。

あんな楽しそうな母を僕は初めて見たのだった。


あの時、母と祖母が作ってくれた料理の匂い、醤油と甘い香りのする湯気を、賢一はハッキリと思い出すことが出来た。


母は、病院のベットで息を引き取る直前に、精一杯の笑顔を賢一に
見せてから、ゆっくりと瞼を閉じた。

数秒後、閉じた母の目から、涙が一筋、ほほを伝うのを見たのは賢一だけだったろう。


家を出ることにした。
翌日、見積もりに来てもらい、
賢一にとって大切な物だけを
ダンボールに詰めた。

とりあえず広尾のマンションで暮らす。あそこにはクローゼットがたくさんある。

家具は全部、置いていくことにして、親父には何も云わずに賢一は、実家を後にした。


工学部は女の子が少なくて賢一には居心地が良かった。

けれど、それも最初の内だけだった。

どこにでも金の匂いに敏感な人間はいるものだ。


別の学部の女子たちまで賢一に媚を売る。

学食に行けば、わざとらしく近くの席に座り、チラッと色目を使ってくる。いい加減うんざりだ。


その上、賢一が広尾のマンションに一人で暮らしていることが、どこからかバレてしまったから、ますます事態は、賢一にとって最悪になった。


賢一のマンションは、男女関係なく溜まり場になりつつあった。

酒や食い物を持ち込んで、騒ぎだす。

「お前ら、いい加減にしろ。何時だと思ってるんだ、騒ぎ過ぎなんだよ。赤ちゃんの居る家族も住んでるんだぞ」


流石に静かになった。

が、賢一の考えは甘かった。
ドンちゃん騒ぎは再び始まると止める気配は全くなかった。

仕方なく財布を手にし、賢一は万札を数枚、酒に飲まれている男に差し出した。

「タクシー代。これで帰ってくれ」

男は枚数を数えると、目を丸くして賢一を見た。

「10万はあるぞ、いいのか賢一」


賢一は黙って玄関を指差す。

「やった!みんな飲み直そうぜ」

5分もかからず部屋は静かになっていた。



「二度と奴らをここには入れないからな」
フローリングにあぐらをかいて、賢一はタバコを吸い始めた。タバコといっても電子タバコだ。人に貸す前に、部屋をヤニで汚したくなかった。


カチャ  カチャ  ザーーザーー


キッチンから音かする。

「おい、まだ誰かいるのか?帰れって云っただろう。
頼むから出てってくれよ」

するとキッチンから、女の子が顔を出した。

「誰も片付けないで行っちゃったから、申し訳なくて。

コップは洗いましたから、帰ります」


靴を履こうとしている彼女を、賢一は後ろから抱きしめた。

「なにするの!やめてください!」

彼女は賢一の腕を振り払うと、怯えているのを隠すかのように、睨みつけた。


「ごめん、いや、すみませんでしたっ!」
ひたすら頭を下げて賢一は謝った。

すると、彼女は急に腰が抜けたように、ヘナヘナとしゃがみ込んでしまったのだ。

「だ、大丈夫ですか」

賢一は慌てていた。すると彼女は、
「トイレをお借りします」
そう云うとトイレに走って行き、バタン!とドアを閉めた。

どうやら気持ち悪くなったらしい。


どうして、あんなことをしたのか、賢一は自分でも理解できずにいた。

SEXがしたかったわけじゃない。
早く一人になりたかったのに。

暫くすると、トイレから彼女が、恥ずかしそうに下を向いて出て来た。

ありがとうございましたと云って
帰ろうとする彼女に賢一は云った。


「顔色が良くない。少し休んで行くといい。ソファに横になってみたらどうかな。僕は隣りの部屋に行ってるから、安心してください。説得力ないけど大丈夫だから」

彼女は小さく頷くと、ソファに座った。

それを見て、賢一も寝室に入った。

ベットに仰向けになった賢一は、飲んだことの無い強い酒のせいか、いつの間にか眠ってしまった。


目が覚めた時、時計は午前3時になるところだった。

「彼女は大丈夫だろうか」

ドアを静かに開けると賢一はリビングの様子を見に行った。

どこにも彼女の姿はなかった。

ソファに白い紙きれが置いてあったので、賢一は手に取った。


【休ませてくれてありがとうございました。
だいぶ回復したので帰ります。

お酒は弱いのに飲み過ぎてしまったようです。

お邪魔しました。

       中水 美菜

PS

賢一さんも、飲みすぎたということで 笑】


母と似た名前なんだ、字は違うけど。

美菜さん、か。


翌日、賢一が大学に行くと、彼女がベンチに座っていた。

「おはよう」

賢一が声をかけると、彼女も笑って
「おはよう」
と云った。

賢一はベンチを指差すと
「ここ、いい?」
と尋ねた。

彼女は笑顔で
「どうぞ」
と云うと、読んでいた本を閉じて
バックに入れた。
賢一は彼女の隣に腰掛けた。


「昨夜は本当に」

「飲みすぎたの。お互いに。そう書いたでしょう?それにちゃんと謝ってくれた。だからもうお終い」

賢一は、照れ臭そうに、頭に手をやると、
「ありがとう、美菜……」

「いいわよ、名前で。私だって賢一さんって呼んでるし。あ、そういえば
賢一さんの名字は何ていうの?
皆んなが、名前で呼んでるから知らなくて」

彼女はバツが悪そうにそう訊いた。


「川瀬。川瀬賢一」

「川瀬さんか。キレイな名字だね」

彼女は、そう云ってくれた。


それ以来、賢一と美菜は一緒にいることが多くなり、周りは遠巻きに、だが監視しているかのように見ている。


「女子たちの視線の怖さと云ったらないわ。当然よね、憧れの賢一さんと一緒にいるんだもの」


「悪いな、美菜に嫌な思いさせて」

「賢一さんが謝ることじゃない。

女ってそういう生き物なのよ。自分も女だから分かるもの」

少しの間、二人とも黙っていた。

口を開いたのは美菜からだった。

「賢一さん、時々とっても寂しそうな目をするから、心配になる」

賢一は、え?と思った。

「嫌な気持ちにさせてしまったのなら、ごめんなさい」

「いや、気にしないでいいよ」

黙っまま美菜は賢一を見ていた。


賢一と美菜は、自然に恋人になっていた。
美菜は時折、賢一のマンションに来て料理を作るようになり、そのまま泊まっていく日が月に何度かある。

賢一は自分の母のことを彼女に話したことがある。
黙って訊いていた美菜は、
「そうなんだ」とだけ呟くと、真っ直ぐ前を向いていた。

マンションの白い壁を見つめているように。
だだ、真っ直ぐに、前を。


運転免許証を取得した賢一は、車を買った。
色は迷った末に赤に決めた。

後になって、白にすれば良かったかなと悩んだりもしたが車を見ては頬が緩む自分がいるのだ。

そして美菜をドライブに誘った。
初めて乗せるのは彼女しかないだろう。

車で湖に行き、ハイキングコースを歩いた。

賢一は自分の運動不足を嫌でも気付かされることになった。

美菜は毎朝のジョギングを日課にしているので、体力はついている。

賢一の方が息が上がるのが早く、悔しいので明日から走ることに決めた。

湖畔で昼メシを食べることにして、

美菜は作ってきた弁当をリュックから出すと、蓋を開けた。

色とりどりのおかずが食欲をそそる。

「どうぞ、召し上がれ」

美菜の言葉に賢一は、

「いただきま〜す」と云うと、

先ずは焼き色の着いたウィンナーを口に入れた。

美菜は可笑しそうに笑うと、

「男の人ってウィンナーが好きだよね」

そういうと自分も箸でウィンナーを摘まみ、モグモグ食べた。


具が3種類入ったデカいおにぎりも賢一は全部平らげた。

満腹になって、草の上に寝転ぶと、風が心地よい。

「キラキラして綺麗」

穏やかな湖面が太陽の光で輝いてる。

早春の、平和な風景の中に賢一と美菜は居た。

賢一と美菜が付き合うようになってから2年が過ぎて、大学3年の春が訪れていた。


「そろそろ帰る支度をしないと」

美菜が云うと賢一は公園の真ん中に立っている大きな丸い時計を見て、

「まだ4時半だから、ゆっくりで大丈夫だよ。ここは5時までだから。悪い、先にトイレに行って来る」

そう伝えて賢一は、トイレに走って行った。


それから、二人でゆっくりと駐車場に向かっていると、初老の警備員が門を閉め始めている。

そして賢一たちを見ると、

「閉めますので急いでください」と云う。

「だってまだ20分ありますよ。ここは5時までですよね」

賢一の言葉に、警備員は困った顔を見せた。

「すみません、お客さん、急いでください」としか云わない。


「だから時間が」と賢一が云いかけた時、

「そろそろ集まってくる時間なんですよ」

警備員の言葉が理解できずに賢一が話を続けようとしたとき、

美菜が警備員に、

「判りました。直ぐ出ます」

と云って賢一を車の場所まで、引っ張って行く。

「なに?どうしたんだよ」

「名所なのよ、ここ」

「め……あ!」

「だから早く出ましょう」

僕等は車に乗り込み門に向かった。

出る時に警備員に、会釈をした。

彼は済まなそうな顔でお辞儀を返した。その頭越しに長い橋が見えた。


設計、建築を勉強してきた賢一は、

一級建築士の試験に合格した。

かなりの難関だと知っていたので、

気合いを入れて猛勉強をした。

就職先は建築事務と決めて動いている。


一方、美菜はロボットに興味があり、機械工学でロボットのボディの勉強をしている。

就職先は、まだ迷っているようだ。


ある日、美菜から話しがしたいから

正門の直ぐ傍にある、ティールームで待ってて欲しいと賢一は云われた。

話しならマンションでいいじゃないかと賢一は云ったが、美菜はどうしても外で話したいという。

仕方なく、賢一はティールームの窓際の席に座って美菜を待った。

「話しって何だろう。まさか別れたいとか」

「……云わない、よな?」


30分、経っただろうか。

「賢一ごめん、待たせちゃって」

美菜が賢一の前に座った。

「なに?話しって」

「ちょっと待って」

美菜はそういうと賢一の水をゴクゴク飲んだ。

「よほど喉が渇いてるんだな」
賢一は思わず笑ってしまった。

美菜は全部飲み終えると
「はぁ〜」
と息を吐いた。

ようやく一息ついたといった美菜は、賢一に云った。

「私ね、大学を休学しようと思う」
そう云った。

驚いた賢一は、直ぐには言葉が見つからなかった。

さっき注文した珈琲を、一口飲み、
「休学ってどうして」

そう、美菜に訊いた。

美菜はレモンティを頼むと、賢一に
話し始めた。

「実は父が病気になってね、入院することになったの。
母は狼狽えてしまって、だから私は傍にいてあげたくて、実家に戻ることにしたの」


「美菜の実家はどこだっけ」
「佐久、長野県の」

「お父さんの具合、よくないの?」

美菜は首を振り、
「たいしたことないの。ただ母が一人で騒いでるだけで。お嬢様育ちの人だから。毎晩電話をかけて来ては泣くのよ。不安なのは分かるけど」

「そうか、そういうことなら、仕方がないよな。寂しくなるけど戻って来るんだから、僕は我慢しないとね」

美菜は真剣な顔でレモンティを飲んでいる。

そんな美菜を見ていると、賢一は
不安になった。

戻って来るよな?

そう云いたいのに
何故か口にするのが
怖かった。


美菜が長野に帰ってから、賢一は
久しぶりに実家に帰ることにした。

親父にはなんの用もない。
ただ引っ越す時に持っていくのを忘れた物を取りに行くだけだ。

あの質屋の傍までやって来た。

賢一は、店の前で立ち止まった。
母さんが質入れしていた店だ。

すると中から、あの店主が出てきた。
賢一の顔を見ると、嬉しそうな顔になった。

「良かったよ、賢一に会えて。家を出たと知った時には、本当にどうしようかと悩んだよ」

「なんで悩むんですか?」

「その訳は」
店主は店に入ると、何か持って来た。

丁寧に布で包まれている。

「美名子さんに頼まれて預かっていた物だ。自分に何かあった時は、
賢一が大人になってから渡して欲しい、そう云ってな」


店主は賢一の手に預かっいた物を渡した。

「美名子さん、賢一に渡したからね。良かったな、本当に」

気のせいか、店主が涙ぐんでいるように見えた。


賢一は家に上がり自分の部屋に入ると、さっそく母が質屋の店主に預けた物を見ることにした。

布を取ると、中には小さな長方形の形をした木の箱が入っている。

「何が入っているんだろう」
緊張しながら賢一は蓋を開けた。

「なんなんだ、これ」
中には、綿の上に見たことの無い物が乗っている。

箱の裏を見て賢一は、アッと声を上げた。
そこには賢一の誕生日が書いてあった。
そして時間が。

出生時刻 10時10分

これは……へその緒か……

賢一を抱っこした母の写真も入っていた。
母はとっても嬉しそうに笑っている。

「母さんと一緒に写ってる写真が一枚もなくて、もう無理だろうなと諦めていたんだ。良かった」


そして何故か賢一は、美菜のことを想っていた。

賢一はラインを送った。
けれど返信がない。

急いで家を出て賢一はマンションに向かった。
賢一の所にも帰る時に持って行きたい小物があると美菜は云っていた。

エレベーターの中で賢一は祈った。
部屋に居てくれ、頼む!

エレベーターが賢一の部屋の階に止まり、急いで自宅に向かっていた時、ドアが開いて中から美菜が出て来たところだった。

美菜は賢一を見て、驚いていた。

「美菜、もう一度、部屋に入ってくれ」
「え、どうして?」

「話しがあるからだよ。だから入ってくれ」


美菜は仕方なく部屋に戻った。
「いったいどうしたの?」
ソファに座ると美菜は云った。

賢一は隣に座ると彼女の顔を優しく見つめた。

「賢一さん?」

「美菜、僕は本当に大バカだ。たった今、気づいたよ」

そして続けた。

「赤ちゃんが、出来たんだね」

美菜の体がビクッと動いた。

「どうして……」


「どうしなんだろうな。たぶん僕の母が教えてくれたんだと思う」

「……私の気持ちは変わらないから」
美菜はそう云って出て行こうとした。

「僕の就職に影響すると思ったんだろう?」

美菜は立ち止まった。
そして振り返ると賢一に云った。

「思ったわ。だって事実そうでしょう?私は賢一に、夢を叶えて欲しいの。邪魔になりなくない」


「僕と美菜の赤ちゃんなんだぞ。
邪魔だというなら、そんな会社はこっちから願い下げだ。
子供がいるから叶わない夢なんて本当の夢じゃない」


「……」

「傍にいて欲しいんだ。これからもずっと。だから長い目で見よう。僕らの人生のこと」

美菜は賢一を見つめた。
そして賢一の傍にもう一度座った。

「私ね、賢一からお母さんの話しを訊いて思ったことがあるの」

涙を拭いながら美菜は続けた。

「賢一のお母さんは、可哀想なんかじゃないって。亡くなる時に賢一が見たお母さんの涙は、それは……」


賢一は、美菜の手を握りしめた。

「自分が、貴方をこの世界に生み出すことが出来た、その喜びの涙なんじゃないのかなって」


美菜はたくさんの涙を流して泣いた。
賢一は、そんな美菜が本当に愛しくて、泣きながら強く抱きしめた。


賢一は、ポケットから、あの箱を取り出した。

美菜に見てもらいたかった。


「美菜、これを見て」

賢一の言葉に美菜は泣き腫らした目で箱を見た。


「桐の箱……それって」

賢一は、頷くと箱を開けた。

美菜は涙を流して微笑んでいる。

「賢一とお母さんを繋いでいた、

へその緒……良かったね賢一、そしてお母さん」

「次は美菜と僕たちの赤ちゃんを繋いでいたへその緒が、新しい桐の箱に入るんだな」

美菜は、うんうんと頷いた。


賢一は、まだ健在でいてくれる、
母方の祖父そして祖母に、電話でこのことを伝えた。

二人とも電話の向こうでとても喜んでくれた。


賢一は広尾のマンションを出て、
今は母の実家で暮らしている。

籍を入れた美菜も一緒だ。

日に日に大きくなる美菜のお腹を
摩りながら、賢一は話しかけている。

「慌てずにゆっくり出ておいで。僕もお母さんになる美菜も、そしてお爺ちゃん、お婆ちゃんも慌てずに待つからね」


母さん、貴女の幸せの証、ちゃんと受け取ったよ。

ありがとう

母さんの孫が生まれた来るんだよ。
楽しみにしててくれ。

今度は僕が、幸せの証を見せてもらうからね。


      了













































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