あの頃の時間
私の高校に今日から新しい教師が来る。
かなりのイケメンで、尚且つ独身だという事で、女子校である我が校の生徒たちは俄然、色めき立った。
「玲子、さっきから静かね」
「だって興味ないから」
「あ、そうか玲子には彼氏がいるもんね」
「今はいないよ、誰とも付き合ってない」
「だって、あの彼氏は……」
「付き合って直ぐに分かったの。この人、浮気性だって」
「あ、それはダメだわ。治らないって聞くもの女好きな男性は」
「私もそう思ったから、あっという間にサヨナラしました。付き合った内に入らないくらい短い期間だった」
「でも、まあ、良かったじゃない。そんな男なら付き合っても時間がもったいないだけだから」
「ありがと茜、慰めてくれて」
「思ったことを云っただけよ」
✴️✳️
ガラッ
「はい、みんな、席について」
担任の小宮山が入ってきた。
今朝も髪型は頭に大きな団子を乗せてるようなスタイルだ。
付けまつ毛もバッチリと真っ黒だ。
顔のシワを延ばすためか、思いっきり髪を引っ張っているので、生え際の毛を見ていると痛々しく見える。
「みんなは、もう訊いていると思うけど、今日から新しい先生が、この高校で教鞭を取る事になりました」
小宮山のメガネは今朝も下へ下へとずり落ちてくる。
それを指で押し上げて、正常な位置に戻す。
この動作を日に何度もするので、皆んなは陰で「いいかげん、買えよ!」とツッコミを入れている。
「では先生を紹介します。守山先生、入ってください」
廊下で待機していた男性が、少し緊張の面持ちで、教室に入ってきた。
「自己紹介をお願いします」
小宮山に促され、男性は「はい」と云った。
「皆さん初めまして。守山建人といいます。33歳、英語の楽しさを、皆さんに知ってもらえたら、そう思っています。大学を卒業後、事情があって直ぐに教職につくことが出来ませんでした。今回が教師としてのスタートとなります。よろしくお願いします」
守山先生は、そう云ってお辞儀をした。
皆んなは拍手をした。
✴️✳️
確かにイケメンだ。
クラスの数名は既に何かを企む目になっている。
「感じいいね」と、茜。
「うん、そうだね。真面目そうな先生に見えた」
《守山先生は人気者になりそうだな》
私はそう思った。
そして同時に妙な親しみを持った。
理由は分からないけど。
でも、懐かしい気持ちになっている。
初めて見る先生なのに、不思議。
お昼休みになった。
いつもなら、購買でパンを買って済ませるのだが、今日は温かい物が食べたくて、私と茜は食堂に行った。
混んではいるが、来年からの共学に向けて、食堂は拡張されているため、広過ぎて空席が目立つ。
私は天ぷらうどん、茜はカレーを注文した。
注文した物を受け取り、私と茜は窓際の席に座った。
さて、食べようとした時、前方に守山先生の姿があるのを見つけた。
生徒たちが、先生と同じテーブルに数名いる。
定食らしき物を食べている守山先生のことを、穴の空くほど観察していた。
✴️✳️
「お気の毒に」
思わず私は呟いていた。
その日、帰宅してからも私は何故、守山先生に親しみや懐かしさを感じるのか、考えていた。
33歳といえば、私よりも16歳も年上になる。
そんな男性との接点が分からない。
「デジャブとか、そういうのかなぁ」
その晩はそれ以上考えずに私は眠った。
翌朝、スマホに留守電が入っていた。
聴いたら姉からのものだった。
『もしもし、玲子?もう寝たの?早過ぎない?まぁいいけど。あのさ、玲子に貸したドナルド・フェイゲンのCDを返して欲しいのよ。友達に貸すから。じゃあね、おやすみー』
相変わらず前置きが長いなぁ。用件だけでいいのに。
姉さんは昔っから変わらない。
よく喋るのに、肝心のことは話し忘れることも、しばしばだし。
ん?
✴️✳️
姉さん……?
なんかモヤモヤしてきた。
何でだろう、寂しいし切ない気持ちがする。
「早く着替えなきゃ、遅刻しちゃう」
時計を見た私は、慌ててパジャマを脱いだ。
朝食を食べる時間はなかった。
オレンジジュースだけ飲んで私は家を出た。
外は少し風が吹いていた。
けれど、新緑の今の時期は、風も心地良い。
街路樹の緑の葉が、サワサワと風に吹かれてそよいでいる。
五月、一年の内で私が一番好きな季節だ。
私は立ち止まり、深呼吸を、してみた。
息を全て吐いた時、ある看板に目がいった。
《空室有り》
そうだ!
思い出した。
守山先生はあの時の人だ。
✴️✳️
私がまだ小学生の低学年の時、父はアパートの経営をしていた。
一階に私たち家族が住み、二階の三部屋を賃貸にしていた。
その内の、真ん中の部屋に住んでたのが、守山先生だ。
私は人見知りで、友達が出来ず、いつも一人で地面に落書きをして遊んでいた。
「やあ!玲子ちゃん、アイスを食べにおいでよ」
そう声を掛けてくれたのが、守山さんだった。
優しくて楽しいお兄ちゃん。私はそう記憶していたが、名字までは分からなかった。
今の時代では、小さな女の子が、他人の男性の部屋に行くことなど考られない。
のどかな時代だったと思う。
守山さんは、確か大学生で、ひょんなことから中学生の姉の家庭教師を引き受けていた。
学業最優先の父が頼んだのだろう。
一度、守山さんと姉が、アパートの外で笑いながら話しているのを見たことがある。
姉はイキイキとしていた。
まだ小さかった私は、その中に入れない気がして、姉のことを、
「お姉ちゃん、ずるい」
そう思った。焼きもちとは、あの感情を指すのだろう。
ところが、父が急にアパート経営を辞めると言い出した。
アパートなのだから当たり前なのに、二階の足音が気になる、そんなくだらない理由だった。
二階の住民の皆さんは、出て行くことになった。
姉は泣きながら、父に抗議していた気がする。
たぶん……いや、絶対に守山さんのことを姉は好きだったのだろう。
私もお兄ちゃんが居なくなるのが嫌で泣いた覚えがある。
私にとって、守山さんは紛れも無く
『初恋』の人だった。
アパートの周りには、建物は無く、畑と野原、小さな雑木林があった。
今の時期は風が吹くと、あちこちから、樹々の葉が清々しい音を立てて、そよいでいた。
その新緑の中には守山さんも確かに居た。
遠い五月の記憶。
教室で英語を教えている守山先生。
食堂で、ラーメンをすする守山先生。
廊下ですれ違う時、「おはよう」と、笑顔になる守山先生。
先生に、自分のことを話してもいいものだろうか。
『あのアパートにいた小さい女の子は私です』と。
そんなことを話したところで、どうするのか。
そんな想いもある。
ただ……守山先生、姉は結婚して子供もいます。
けれど、私は一人です。
それを伝えたい自分がいるのは……本当。
バカみたいですね、わたし。
続く
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