#【夢】
その老人ホームの庭は、たくさんの花々が咲き、いい香りを放っていた。
まるで映画に出てくるような、白いベンチが、そこここにあり、お茶の時間を外で過ごすお年寄りもいる。
美代もその一人だった。
茹だるような暑さもピークを過ぎて、少しだけ涼やかな風が、秋の植物にそっと耳打ちしているように吹いた。
盛りを過ぎた向日葵が、あとは頼むとオレンジやピンクのコスモスに、静かに告げた気がした。
美代がこのホームに入居した頃は、子供たちも孫と一緒に、よく訊ねて来たが、最近はめっきり来なくなった。
けれども美代は、それでいいと思っている。
子供たちや孫が興味を持つものが、世の中には、たくさんあることを知っていた。
「だんだんと日暮れが早くなるわねぇ」美代がそう呟くと、
「そうですな」と、後ろから声が聞こえた。
驚いてふりむくと、美代より少し年下であろう男性が立っている。
「あそこの森の紅葉は、実に見事なものです。せっかちかもしれませんね」
美代が黙っていると男性は、
「隣に座ってもよろしいでしょうか」と、落ち着いた声でそう訊いた。
「はい、もちろんです」美代がそういうと、男性は会釈をしてベンチに座った。
「田中 宏といいます」
「森坂 美代と申します」
「僕の家内は体が弱く、入院生活体が長かったんです。しかし家内は本当によく僕につくしてくれました。髪も家内が切ってくれてました。最期は僕が誰だか、分からなくなっていましたが、幸せでした。美代さんのご主人も優しい方だったのだと、美代さんを見ていれば想像がつきます」
「はい、優しい主人でした。先に天に行ってしまいましたが、幸せな結婚生活を送らせてもらいました」
宏はうなずきながら、美代の話しを聞いていた。そして、
「美代さん、僕と駆け落ちしてくれませんか」そう告げた。
「えっ!何故ですか、私はここでの生活に満足しています」
「それは貴女を見ていれば分かります。歌の時間も、お茶の時も美代さんは幸せそうですね。僕もこのホームは気に入ってます」
「なら、どうして、駆け落ちなどと」
「そうですね…。僕を訊ねて来る人は、ほとんどおりません。失礼ながら、美代さんもそうではないかと思います」
「はい、でも子供ももう50代ですし、忙しいのはわかっているつもりです。寂しくありません」
「本当ですか?」
「……。」
「明日の午後4時に、このベンチでお待ちしています」
「だって、そんなこと…」
「夕食ができたようだ。行きましょうか」
宏は立ち上がり、美代に手を差し伸べた。
美代は躊躇したが、宏の手に自分の手に乗せて、ベンチから立った。
2人は夕食を食べに、ホームに入っていった。
翌日の午後4時。美代はまだ自分の部屋にいた。ベッドに腰掛けたその足元には、小さなカートが置いてある。
窓から下を見ると、宏が昨日のベンチに座っていた。美代のより一回り大きなカートも一緒に置いてある。
美代は決意して、カートを引いて、部屋を出た。
ベンチでは、目を閉じた宏が座っていた。まるで眠っているようにも見える。目を開けると、そこには美代が立っていた。
「来てくださると思っていました。ありがとう」
「タクシーを呼ぶと目立ってしまうので、バス停まで歩きましょう」
美代はうなずき、二人はホームの門を出た。
バス停までは少し距離があるが、二人は、たわいのない会話をしながら歩いた。
「僕は企業を起こし、運良く成功しました。だから蓄えならありますので、心配しないでください」
途中で宏は自動販売機で、ペットボトルのお茶を買い、美代に渡した。
美代は礼を言って、お茶を口につけた。
バス停に着き、二人は古びた椅子に腰を下ろした。
「美代さんは、行きたいところは、ありますか?」
「いえ、特別にはありません」
「南仏はいいですよ。海外に行かれたことは?」
「恥ずかしいのですが、日本から出たことは、ありません」
バスがやって来たが、二人は乗らなかった。
「急ぐ必要はありませんから」と、宏は笑った。
その後もバスは何本もバス停に止まったが二人は椅子から立ち上がる事はなかった。
そして辺りは真っ暗になり、最終のバスがやってきた。
運転手は「最終です」と言ったが二人は動かなかった。
運転手は、怪訝そうな顔をしたが、バスは次のバス停に向かって走り去った。
二人は何も話さず座っていた。
その顔は10歳くらい、老いた顔をしていた。
[叶わない夢さ]
そう、声が聞こえた。
けれど二人には見えていたのだ。
未来は、確実に二人の前にあったのだ。誰が何と言おうと。
遠くから、ホームのスタッフが走ってくるのが見えた。
** (完)**
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