空気の温度 (3)
ひとしきり、泣いた速水さんは、落ち着きを取り戻した様子に見えた。
「すみません。泣いてしまって」
「速水さん、謝らなくてもいいんです。きっと、僕には想像もつかないような経験をしたんですね」
速水さんは、黙っている。
そして、その顔は何か考えているように見えた。
僕からは、話すのは止めようと思い、残りの弁当を食べることにした。
「わたし15年間、両親と一緒に夕食を食べてないんです。自分から避けたんです」
僕は、事態が飲み込めずにいた。
「父と一緒に、食事をしたくなかったから」
「お父さんのことが、嫌いなんですか」
速水さんは、頷いた。
「嫌いです。父なんか大嫌い」
「僕もオヤジのことは、以前から苦手でした。そして魚を強引に口に詰め込まれてからは、オヤジのことが許せなくなりました」
僕は残りの弁当を、口に入れると
弁当の蓋を閉めた。
速水さんも、食べかけのサンドイッチを再び口に運んだ。
「今日の定食も、旨くなかった。社食で料理を作る人達の、味覚は絶対におかしい」
席に戻るなり、豊が不機嫌な顔をしながら、ボヤいた。
「僕は、数回しか利用してないけど、確かに料理人の舌は変だと思うよ。外食するより安いから、利用する人間は多いけど、いつも選ぶのに困ってる印象だった」
「どれを注文するのが、一番マシかで、皆んな頭を悩ませてるんだよ。毎日毎日」
「ふふ」
と、速水さんの笑い声が訊こえた。
「速水さんは、笑いますけど、こっちも食券を買ってるわけで、文句の一つも云いたいわけですよ」
「そうですよね。笑ってごめんなさい。私も以前、冷やし中華を食べたことがあるの。だから山下さんの気持ちはわかります」
それを訊いて、豊の表情はパッと明るくなった。
「不味かったでしょう」
「不味かったですね」
そう云いながら、速水さんは、また笑った。
豊は、カップを持つと、ポットに行って、インスタントコーヒーを作って、戻って来た。
口直しといったところだろう。
「そのくせメニューの名前には、凝るんだよな。今日はAランチを頼んだけど、[グリルチキン 天使の恋するソース添え]だった。味の想像がまるでつかない」
これには僕も笑い出してしまった。
凝ってるつもりだろうが、ズレまくってる。
豊のおかげで、明るい気分で午後の仕事をこなすことが出来た。
速水さんも、さっきとは違って、明るさを、取り戻したようだ。
いったい、彼女とお父さんの間で、何があったのだろう。
そのことだけは、僕の中で、引っかかっている。
その訳は、意外と早く知ることとなった。
ある日の昼の時だ。
僕はいつも通り、弁当を食べていた。すると
「あーー!」
と、大声が聞こえて来た。
離れたディスクにいる、男性社員が、持ってきた弁当を、床に落としてしまい、声を上げたのだと判った。
気の毒なほど、弁当の中身は床に散乱していた。
「あれじゃあ、もう食べられないですね。可哀想だけど」
僕は速水さんに、そう云った。
見ると、速水さんの顔は、強張っている。
「どうかしたんですか」
僕が尋ねると、彼女は云った。
「柳さん、父に私の作った料理を、あんな風にされたことがあるんです。それも一度だけではなかった」
「えっ」
「私は中学の時から、家族の夕食を作るようになりました。
母は早朝から働いていたし、疲れていることが判ったからです」
床に散らばった弁当を、彼はブツブツ呟きながら、拾い集めている。
「私も、あの人と同じように、自分が作った料理を、拾いました。
悲しかった。惨めさも、父への怒りもあった。お酒を飲むと、父は人が変わるんです。暴力的になってしまう」
あゝ、だからだったんだ。
速水さんが、お父さんと一緒に食べることを止めた理由。
お母さんは、仕方なく、お父さんと
一緒に居たのだろう。
「私は自分の夕食を、部屋に運んで、一人で食べるようになったんです。食欲なんてなくなっていました。
やっと食べ始めた頃には、料理は冷め切ってました……」
「15年間、ずっとですか」
速水さんは、寂しそうに、微笑んだ。
続く
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