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空気の温度 (終)

理玖 理玖、訊こえてるか?


僕は向かいの豊のことを見た。

「大丈夫か?このところずっと、ぼんやりしてるだろ」

心配そうに豊が云う。


「大丈夫に決まってるよ。いつもと同じなんだから」

「どこがだよ。隣に座ってないからだろ」


確かに速水さんが、会社に来なくなってから、もうすぐ半月になる。

デスク周りは、きちんと整理してから、休みに入った。
彼女らしいな、と僕は思った。

「速水さんも辛いだろうな。彼女のお父さんは2年前から入院してたんだな。知らなかった」

豊が、誰もいない僕の隣を見つめている。


お父さんは、もう長くはないらしい。
2ヶ月前に、退院し自宅療養をしていたそうだ。



「昔、お世話になった方から、温泉を勧められたんです。病気治癒に訪れる人が、後を絶たないそうで、
そこへ、父を連れて行ったらどうかと」

速水さんは、会社に休暇届けを提出し、翌日から僕の隣は、空っぽになった。



「きっと速水さんにとって、親子で温泉に泊まるのは、これが最後になるんだろう。なんかさ、切ないな」

悲しそうに、豊が云った。

豊は、ああ見えて、実はナイーブで、人一倍、繊細なやつだ。

「そうだな……」

僕も、こう答えるのが、やっとだった。

15年間、一緒のテーブルで食事を共にしていない父と娘。



【嫌いです!父なんて大嫌い】



最期の温泉旅行……。


速水さんは、どんな想いなんだろうか。



(桜花って、いい名前ですね)

(ありがとうございます。私も気に入ってるんです。まぁ単純に桜の時期に産まれたからですが)

速水さんは、そう云うと、はにかんだ。


いつも隣り座っていた速水さんが、いなくなると、僕には社内の温度が下がったように感じた。

人に話したら笑われるのが、オチだろうが。




深夜0時過ぎ


私は窓から空を見上げていた。

こんな凄い星空を見たのは生まれて初めてだ。

美しいというより、怖いと感じる。
最初に見た時、ゾクッとした。


宇宙の広さなど判らないが、無限というものに、得体の知れない恐怖を覚える。


「桜花、いい加減に寝なさい」

母に怒られてしまった。
私は静かに、窓を閉めた。

小さなイビキが聴こえる。

このところ、ずっと不眠症で寝られずにいた父が、目の前でスヤスヤ眠っている。


「よほど温泉が良かったのかもしれないわね」

毎晩父が、一晩中起きてるものだから、母も寝不足になっていた。

「私たちも寝ましょう」

母は、そう云って掛け布団をかけると、眼を瞑った。


父は、自分の病気のことは知らない。
父の性格を考えれば、告知はしないと母と決めた。

たぶん、半狂乱になるだろう。
だが、肝臓が、ほとんど機能していない今の父は、脳に毒素が廻り、
終始なにも考えることが出来ずにいる。

医師は、たぶん痛みも感じていないでしょうと云った。
良かったのかもしれない。

私はそう思うことにした。


冷えてきたので、私も布団に潜る。

さっき見えた、人工衛星を思い出していた。
命が尽きるまで、周り続けるのだろうか。

訳もなく、泣きそうになっていた。



この旅行から2週間後に、父は逝った。




「おはようございます。長いこと、ご迷惑をおかけしました」


「速水さん!大丈夫ですか」
僕は思わず、声を上げた。

「大変でしたね。お父さんのこと、残念です。お悔み申し上げます」

豊は冷静にそう云った。
僕も豊も、頭を下げた。


「ありがとうございます。母も私も大丈夫です」

そう云って速水さんは、お辞儀をした。

そして椅子に座った。


この日、彼女は淡々と、仕事をこなしていた。

そんな速水さんを見ている内に、僕は帰ったらお袋に、偏食のことを話そうと思い始めていた。

僕はもう、口に魚を詰められた、小学生ではなくなったのだ。



昼になり、僕はいつも通り、鞄から弁当を取り出した。

いつものカップラーメンの匂いがする。

麺をすする音も。


僕は反射的に隣りを見た。

そして驚いた。

何故なら速水さんは、湯気の昇るラーメンを食べていたからだ。


僕の視線に気付いた速水さんは、
こっちを見た。

恥ずかしそうな顔。


「速水さん、食べられるようになったんですね」

「はい。旅行先で父と並んで食事をしました。家に帰ってから父が逝くまでの二週間、毎日一緒に食べたんですよ」


「良かった……」
僕はそう、呟いた。


「柳さん、ありがとうございます。
でもね、これって自分が父のことを
許したのかが、判らないんです」


「今はきっと、理由なんて探さなくてもいいのだと、僕は思います。
一緒に食事を食べることが出来た。十分なんですよ、それだけで、」


速水さんは頷くと、それでだけで十分なんですよね。

独り言のように彼女は云った。


「僕も母に正直に話そうと、思います」


速水さんは嬉しそうに僕を見ている。

「柳さんは、きっと乗り越えられます。
何か私に出来ることがあれば、偏食を治すことを、手伝わせてください」


「ありがとう。桜花さん」


「どういたしまして、理玖さん」

そして桜花さんは、またラーメンを食べ始めた。


「暖かいって、いいですね」

そう云って、涙を拭った。


      了

















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