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齢を取るということ

最近、母の耳がかなり遠くなって会話をするのも一苦労だ。

補聴器は絶対に嫌だというし、こうなれば娘の私の肺活量にかかってくる。


大声で母と会話すると私の体力はかなり奪われてしまう。

中学生での体力測定の時、肺活量の検査で何度やっても数字が出ないことがあった。


先生いわく

「空気が漏れてるのよ」

だそうなので、それからまた何度も挑戦したのたが、やはり目盛はピクリとも動かなかった。


先生は絶対に空気が漏れてる説を信じ込んでいたので、友達と先生の二人がかりで私が口を当てている物を押さえつけた。

「これから漏れないわ、さぁ思い切り空気を吐いて!」


そう云われた私は酸欠になるのではと思うほど、空気を吐いた。

やはり目盛りは1ミリたりとも動かず、結局私の肺活量は不明のまま終わった。


それほど私は肺活量との相性がよくない。

それなのに毎日毎日、肺を酷使する生活をしている。


しかも母は、本当は訊こえなかったのに、

訊こえたふりをするのだ。

当然、会話がおかしな方へと曲がっていく。


「本当は、訊こえなかったんでしょう」

私の質問に母は平然と

「うん、訊こえなかった」

というのだ。




 [このババァ〜]

自分の親になんてことを。

けれど胸の中でババァと云わなきゃやりきれなくなる時もある。

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夕食の支度が途中だった。

キッチンへ行くと、父がテーブルで夕刊を開いていた。

だその目は動いてはいない。

見えない訳じゃない。


見えてはいるけど、見えていないことにしよう。

父は決めたのかもしれない。

あの日から。



「東京タワーに行きたい」

ある日姉が突然云いだした。

それで次の日曜日、家族で出かけたのだった。

展望台にも昇ったし、お土産コーナーで買い物もした。


夕食は何か出前でも取ろうということになった。

ホームで電車を待つ間、母と私はベンチに座っていた。

父は会社から電話があって、話し込んでいた。


姉はホームに立ったいた。

え?

声をかける間もなかったのだ。

余りに普通で

余りに自然で


数歩あるいた姉は、まるで“気をつけ”をしているかのような真っ直ぐな姿勢のまま

ストンと

ホームから線路へ 跳んだ


もう十数年前の

日曜日のこと

未だに理由は判らないまま


「今日の晩飯はなんだ」

「鱈の西京漬けに茶碗蒸し、白和え」

「美味そうだ」

「もちろん、美味しいわよ私が作ったんだもの」


齢を取るということは、覚えていたいのに

忘れてしまう

忘れた方がいいことを、いつまでも覚えていたり


そういうことなのだろうか

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       了






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