見出し画像

「推し活」という言葉の圧、「趣味人」「道楽」という救い

私は推し活をしている人たちは好きだ。でも、いつからか自分は出来なくなってしまった。ファンダムにも怖くて無闇に入れない。

特に「推し」という言葉が一般的になって、「推し活」が市民権を得た時から、その傾向が強くなった気がする。

古参が怖いし、自分はオタクじゃない気がする

「推し活」が市民権を得るにつれ、「オタクであること」自体ラベルの一つと化している。何かを「推す」ための必修科目が挙げられることも増えた。

その中で、古参の手前、自分なんかのレベルで何かの対象に対して「好き」と言うこと自体が、許されない圧を感じるようになってしまったんだろう。

昔から物事を調べてるうちに楽しさが増し、「すげぇ!無知の知!」と次々に関連するものを調べ始め、謎に詳しくなっていくにも関わらず、私はオタクではないと感じる。

例えば、「この総武快速線E235系新型車両のグリーン車、シートがすごくいい!」と感動するが、山手線でE235系を認識してただけの話だ。

シートがふかふかで、新車の香りがする!

「鉄道ファン」を創刊号からすべて保管し、東急線カレンダーに掲載されるような良い写真をマナーを守って静かに撮影する親戚と会話する限り、私は好きだけどオタクではない。その親戚でも「鉄道は趣味」と語る。

世間から、オタクカウントされることもある。
しかし、知れば知るほどまだまだ知らないことがあり、それらを全て深堀りするには人生は時間が足らない自覚が芽生える。

何かを「好き」「体験した」から先に、まだ知ることが残ってる楽しみを見出している。
そこへ、突然「古参」として一過言ある人々から「これが正しい楽しみ方だ」「◯◯が好きなら当然△△は知っているか?」と言われたり、若い人に「推し活ですね!」と言われると、めっちゃ怖い

※鉄道が好きな親戚も、乗り心地のいい新車両や寝台列車、路線について楽しく話してくれるが、やはり「何鉄なんですか?」と聞かれると怖いらしい。

結果として、好きなのにその対象について語れない、隠れキリシタンみたいになる。

そして、オタクを自称しない人同士、同じものが好きなことがわかると会話が弾む。
先日、いつものカフェで「今日レイトショーでトップガン見るんですよー」と話した時に、フードボックスに書いてくれたのはこちら。

トム最高!!いやほんと、最高だよ!

お店の方と私は全然年も違うし観てきた映画も違うが、良く映画館に行くし、どっちもIMAXの「トップガン マーヴェリック」は気に入った。履修科目が違っても到達点として「好き」が重なると嬉しい。

私はこれを「隠れファンダム」と呼ぶことにした。

隠れファンダムの愛は意外と長く、意外と大きいのではないか?

そういえば、Bunkamura ル・シネマで、35mmフィルムの国内上映権が切れるため、大好きな「さらば、わが愛 覇王別姫」が上映されている。
2時間51分の長い作品でも、3日前深夜の席予約が数分で瞬殺する。タイパ時代に大争奪戦だ。

初日の初回に有休を取り、観に行った。動きだけはガチ勢である。
公開時にお子様だったせいで、テレビの中でしか作品を知らない。あのレスリー・チャンを大スクリーンで観ておきたかった。

こんないい作品だったのか!と再発見し、大人になり人生経験が増してからの方が、なんとも言えない読後感が心にずしん、と残る。
スクリーンの余韻は素晴らしい。
奇しくも、撮った時のチェン・カイコー監督は今の自分と年が近い。
青二才でも老獪でもない人間独特の「切れ味」が、危ういほど全力投球され清々しい。

あああー!直筆のサインまである!

冒頭の「推し活をする人達のことは好き」な理由も触れておきたい。

本当に好きで残してきたものを、
より良く魅せようとしたことがわかる。

人はすごく好きにならなければ、買い集めて大切に保管したり、「ちゃんと魅せよう」という意欲には到達しない。こんまりの断捨離に負ける。
(断捨離って心の中の街をSparkJoy!!って発破する)

紹介パネルは誰かによる集大成だし、推す人達の素晴らしさを感じるシーンで、大好きだ。

この話をSNSに投稿した際、「この作品、大好き」と話す人達が溢れた。全員、いわゆるファン活動をしてなくても、長い時間、この作品やレスリー・チャンが好きだったのだ。

実は、表立って「推し活」をしていない「隠れファンダム」の愛も、意外と長くて大きい。
けれども、「推し活」が1パターンとして市民権を得た今は、パターン外ゆえに無色透明になる。

何か好きなものができたとき、上映会や公演を複数回買って家をグッズで埋め尽くす人もいれば、争奪戦と分かったら他のファンにも楽しんで欲しくて、1回を噛み締める人がいる。
前者は「推し活」と呼びやすいが、「隠れファンダム」は間違いなく後者だ。

それが昨今では、後者の人達は「金を落とさないファン」扱いされてしまう。

この手のお金の落とし方や好きになり方が規定されていく様子を見て、私はファンダムが怖くなった。

きっと私のような隠れファンダムが苦手なのは、「お金の落とし方」「楽しみ方」を定義され、純粋な「好き」を否定されることだ。

お前の好きなんて、「好き」のうちに入らない!
と、古参に言われそうな輪だと、興味の初期に離れがちになる。

古参配慮&隠れファンダム離脱を続けると、ファン層が失われるのでは?とも感じる。
多種多様な長く大きな愛が欠けると、「好き」の対象の進化も限定されていき、切ない。

歌舞伎のすごさは「新規参入機会と古参リスペクトの仕組み」があること

これだけ古参とファンダムを怖がるようになった私でも、近づきやすいジャンルが「古くからあるのに、新陳代謝をし続けているもの」だ。

代表的なものは「歌舞伎」だ。
私と歌舞伎の出会いは、曾祖母の「暫」の小さな人形が家にあること。(逆にそれしかない)
幼い頃、誰が演じ、他の演目はどんなか、家族の会話になった。
チケットはお高い。時間も長い。お着物を着ていくガチ勢の古参も、チケットを買い続けるご贔屓さんや代々の古参もいる。

それでも、襲名という世代交代で若いプレーヤーが入り、歌舞伎座や南座以外の公演も、一幕からも見られる。
ご贔屓さんをリスペクトしつつ、新規参入を閉ざさない仕組みがあると、新陳代謝と進化がちゃんと起きる。(人間国宝もカマキリ先生もいる)
古参も新規に優しく魅力を語り、沼に引きずり込む。
チケット裁きは古風でも、ファンダムの持続可能性がすごい。

「趣味人」であり「道楽」です!と言い続けたい

古参配慮や楽しみ方を他人に強いたくなく、オタクや推し活は違う気がする、純粋に「好き」を掘り下げる人や「隠れファンダム」の持つ愛は、どう表現すべきか悩んで出した結論がある。

私は「趣味人」であり、「道楽」をしています。
と、あくまで「趣味」「道楽」を楽しみ深めるスタンスでいることだ。

「推し活」ほどの「あるべき姿」は見せず、
「オタク」ほどの「ラベリング」も感じさせない。
「古参」の皆様にも「素人の趣味人で道楽です」と低姿勢に予防線を引ける。

「趣味人」と「道楽」は非常に懐が深く、純粋な「好き」の持ち主にとって、救いのある言葉だ。

「私は嗜む趣味や掘り下げたいものが増えていくだけ。人生は道楽です。」
と表現し続けることで、身近に純粋な「好き」と触れ合っていく人が増え、その対象に多くの愛が注がれて欲しいと願っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?