可能な夜の腹

 ここにはなにもなかったのだ、どんな熱狂的なものも、苦悩もなく、まるで太陽そのものである天国があるなら、それはすべての光の内側で輝く光そのものなのだから、そこに忍び込める影などあり得ないのだというようにも、光に満たされたこの場所には、たったひとつのその光があるだけであり、それはどんな角度からの見られも許容しないものなのだ、なぜならそこに影はなく、どのような意味もその光のオブジェには吊り下がれないのだから、それはただ光であるものであり、ただ光であり、それ以外にどんな風にも言えないのだから、それに参加するために僕らの取るべき態度と言えば、ただそれに参加するという、ただそれだけであり、どんな何? さえも受け付けない、それはただ完全な光なのだ、葉子は、ここにいるとそんなことばかりを考える、と思う。思惟もあくびのようにのろまで、どれもシャボン玉のように気まぐれなのだ、大切なことなど本当は何もなく、ただ気まぐれと、気まぐれに対する気まぐれとしての感情とも言えない愛着の傾きがあるだけで、さ、どこに歩いて行こうと構わないというわけだ、どのぬいぐるみの頭を一番に撫でてやってもいいというわけだ! そんな世なら葉子はいくらでも愛すこともできるだろうが、ああしかしこのあくびが俺の目に運ぶ涙を、それじゃあ俺はどのように流せばいいのか? ああどんか感情でさえついには色でしかなく、怒りも悲しみも、喜びも区別されたのではない、ただ怒りは怒りであり、すべてはすべてだったというだけのことなら、俺は俺だ、さて俺とは誰だ? という迷宮にでも入り込んでしまって、俺はもっと他に何かがないだろうか、この世には何もないというあまりにもはっきりとし過ぎている真理がうるさいのでもなく俺を締めつけすぎるので、俺はそれを飛んだのだった、ああ、俺は俺である、というこの影のような俺を俺は、振り払えたか? いいや、ここには記憶以外には何もないようだな、現在の手によって平らにならされた記憶以外には、巨大なハクチのスクリーンに映し出された飽きることを知らぬ記憶以外は! ああしかし、それがただ続くということは、ただそれが可能ということは、それじゃあまるでホルマリン漬けのこの体じゃないか、生きることはかつて歩くことだった、それを証明するためにこそ俺はあの夜に飛んだわけだし、こんな生きることの標本じみた生活はなんて……ああ俺は、は、どこにかけられてもいい橋であるはずだった、さて俺は? あの夜川に飛び込んでからどれだけの時間が流れ続けただろうか? ここではまるで時が流れるのではなく、時の流れが流れているのだけというようなのだ。ここはどこだろう、なんて天国に似た、何もないどころかすべてがある、一色に塗れた昼だろう!
 *
 葉子はベッドにもたれかかりながら、固くその柄を握り締めて、ズドンと一発で、プレートの上の整形肉にフォークを突き立てる。ぼんやりとあらぬ方を向きながら、口元に運ばれたものはなんでも疑いなく口に入れる貴族というように、右手が仕事をするのに任せて、自分は無関心そうに、ちょっとチョコでもつまむような簡単さで口に放る。味を探ろうとして、黒目がくじ箱の中のあたりくじを掴もうとさまよう手のように泳いだ。そのとき、あっとなって、当たったのはどうやら旨味でも何でもなく、昨日男の子から貰った頬へのキスの感触だったのだ、葉子はそれを思い出すと同時に、咀嚼して崩れた肉の中からチーズのようなものが溢れ出した、その臭さに顔をしかめながら、肉をこれでもかと咀嚼して、血を飲むようにゆっくりと喉に流し込むと、犬がしゃくりするみたいに涙目でゴクンとやり、すぐに茶を手に取って大義そうに啜る。それから、八つ当たりっぽくプレートをサイドテーブルに退けて、食事を終えてしまうのだ。なんせ飛び降りの、という枕詞のつかないことなどありえない、ここでの葉子の部屋には窓などあるはずもなく、ただベッドの中で食後の満足感に浸っていても、葉子にはあんまり退屈過ぎる、かとって本を読む気分でもないし、書くことは、何故だかもっと、ここでは問題外に思われるのだ、ああ俺の書くことが出来る、掴む、触れられるものがどこにある? 医者の奴は確かに俺に、外でそうしていたようにそれを書け、と命じるけれど、書くということも、ここでは、あんな風でないならありえないことなのだ、あんな……こんな堅い壁からは聞こえてくるはずもないが、今日も外の砂の上に刻まれているであろう指の詩の微かな響きを思うと、ああ指先と砂との押し引き、振動と、暖かさの、押しては返す、音を消し去る音が、その、世界が世界に対して記すような、波の遊びにも似た生命のあまりの執着に、何か途方もないものを思うと、やっぱりそれをわが身に降ろすことなど、到底不可能だったのだ、俺のは俺を破滅させただけであり、あれはどのようにも俺を生かせなかったし、こうして俺が生き残ってしまった以上は、ああ、あれの死のときというわけだ、そんな風に強く思う、と同時に、急な弛緩に襲われ、ああ俺はそれじゃあ戦っているというのか、未だ戦いの緊張感の中にいるとでも? ああそんな、そんな気づきもしないような戦いなら、俺はまだまだそれを放棄することもできないなあ、笑いたくなるほどの、曖昧さと、優柔不断さの中で、しばらく自罰的に、この身体の不可能に浸ってぼんやりとしていたあとで、さてそろそろ、と伸びをすると、光でうがいするような大きなあくびをして、魚が泳ぐように視線をそこらに漂わせると、スリッパに足を突っ込んで、今にも落としてしまいそうな頭を手のひらで支えるようにしながら、指先で頭皮をかき、その指で髪を梳かして、イーと思い切り頬を持ち上げて表情の準備運動をしながら、部屋のドアを押し開ける、風が入り込むはずもないが、確かにそれを感じとったような気がして、ここでは窓もなく光の揺らぎさえない完全な調和の、遊ばれるのではなく遊び尽くされた後のようなこの建物の白い壁を手で伝いながら、コホコホと咳の音を聞く医者よろしく廊下を歩く。
 *
 昨日はここで男の子と出会ったのだった、かわいい顔をした子で、ここにいるみんなの眼の光が自分の内側だけを照らせる一つの内的な調和の世界の、外に開いた窓、あるいは口のような、存在のための光を差し入れるための裂け目でしかないと言うのなら、その子のそれは完全に外だけを見ている、なんと言うか水族館の水槽の窪みのようなもので、そこからはただ魚たちの泳ぎを見ることができるが、見るただその機能だけというようにもどこか致命的に欠陥品であると思える、それはただ見つめ、集めた光の像を内面に結ぶのではなく外の世界に拡散させる、いつも望遠鏡からこちらを覗き見ているといったような男の子なのだ。
「こんにちは」
 と言うと同時にその子が現れるのも、誰かの指先が押したボタンのただ効果でしかないというようにも単純というか、ただその子はどこかから突然現れた、というように現れたというようで、まるで意味の揺れを持たないものなのだ、それで葉子は余計に驚いてしまう。にこにこと笑いながら男の子は葉子に駆け寄ると、キュッとかわいい靴の擦れる音をたてながら足元に止まり、精一杯伸びをして葉子の頬に口づけをくれる。初めは戸惑った葉子だったけど、今ではそれも、なんでもないことのように思える、白線の上だけを歩く子供や、靴を絶対に右から履きたがる会社員なんかと、何も変わらないごく当たり前のことだというように。それだから葉子の方でもただ当然に、男の子がキスのあと葉子に頭を撫でてもらうのを待っているのがわかっていたから、葉子は微笑みながらそっと彼の頭に手を置くと、黒色の堅い草のようなその髪を、彼が喜ぶだけ乱暴に、ぐしゃぐしゃとやりながら、
「こんにちは、ありがとう!」
 と言った。男の子は喜びの余り飛び跳ねるように距離を取り、にっこりと微笑みながらどこか自慢げにも照れくさそうにも思えるような仕草で自分の髪の毛の乱れを手で触れ確認すると、そのあまりの出来に満足し瞳に星を宿して、それから一瞬不安になったように陰を落とすと、ああ、今の確認のために自分の手がそれを整えてしまった分を思い出したので、またさっきのぐちゃぐちゃの完璧さを目指すために、その手でえいっと髪の毛を捻るのだ。するとようやく男の子は完成し、二本の足ですくっと立ちながら、
「ありがとう!」
 とお礼を言うと、また別の誰かに愛を振りまくべく、廊下を歩いていく。
 *
 今日は、向こうから先生がやってきた。いつものようにあちらが先におはようございますと言うので、葉子はわざと、おはよう! と元気よく返事をしてから、どんな表情がその顔の上に浮かぶだろうと楽しみにする、なんせここに居る奴らのほとんどが、鈍感すぎるというか、ある種の執着のなさを極めているとかそんな風で、誰と話していても草木を愛でるような気分にもなってしまい、まるで駆け引きの面白さ、困らせてやることの愉快さを味わう機械などないもの……ああ、だけど、この日は、俺は、にっこりと微笑むことを忘れていたな、と、先生の頬に浮かび上がった笑窪を見て葉子は思い出した。それを忘れると、他にどんなバカを俺が仕掛けても、先ずその表情の硬さが罪状にあげられることになってしまって、面白くないのだ。口げんかの最中に、お前とかバカとか、少しでも口調を荒げればそっちに話題が飛んで行ってしまいらちが明かなくなる幼少期の父親とのやり取りみたいにさ、ああ、〇か×か、なんて俺には全然関心がないんだからな、それにしても、あいつのはなんだか嫌味な笑顔だなあ、なんとなく、でも、あなたには叱るところなんて、今のところはひとつもありませんよ、とでも言うような妙に落ち着いた笑顔なのだ、まるでいつでもそれがあれば豹変することができると、柔らかく首を締められているような気分だ。ああはい、それなら、俺はそれを飛ばなければ前に進めない障害物競走のようにも、あんたに、にっこりと微笑みを落としてさしあげますよ、と、歌を歌いにステージに出てきた女の子のように小さな恥じらいを抱えながら、にこっと笑うと、葉子は本当は先を急ぎたかったのだけど、先生が、どうやらなにか話があるみたく二本の脚を揃えて立ち止まったようなので、仕方なく自分も立ち止まってやる。でもそうすると、一本道の廊下で向かい合って立つ二人の男同士だけど、向こうの方ではカルテやなんかを忙しそうに身につけているし、これじゃ俺の方は叱られる男子中学生というような貧相さじゃないか……昔から葉子は何もせずじっと立っていることが苦手だった、どうしてもキョロキョロと辺りを見回したくもなるし、後ろで組んだ手が、今でも背中に隠れて遊び出さないなんてことはあり得なかった。先生は、体調はどうだとかそんなことを訊き、葉子はあくびをするように、大丈夫ですよ、と返しながら、ふとガラス張りの中庭を見下ろすと、四角柱の空間を斜めに切るように陽の光が天上から差し込んでようやくその底に触れ、じわじわとその面積を広げていく、底にずっと溜まっていた影らを追い払う、すると光はそこに鎮座まします、そんな光景に出くわしたのだ。だけどそのとき、光が一瞬怯えたように散り散りになった、どうやら、ドアが開けられたようであり、庭にはいつものように一人の女の子が現れる。葉子は、先生が、ようやく雲を振り払い顔を出した太陽よろしく、これから何か重要なことでも口にしそうなのを察すると、そんなものがこの俺にとって有用はなずがないさ、こいつがバカどもの手を取り踊ってくれている間は良くても、こいつのペースでことが運び始めれば、それが心底くだらなくないなんてこと、ありえないのだから! とでも思って葉子は慌ててそれじゃあと言って先生を振り払うと、速足で廊下を突き当りまで行き、ひっそりとした階段を、くっくと笑いながら駆け降りる、廊下には先生の、葉子さん、小説でも、健康のためには、何かした方が、という声が、絶えず過去に向かって死に行く現在系の声音に響く! それは無視される快感というか、振られるもののゲームを楽しむようなそんな響きでもあるのだけど、それでもそんな程度の影が、どのように追いかけようと俺には触れられはしないと、葉子は笑いながら階段を降りるのだ。途中、踊り場の端に座り込みながらジャラジャラと小石を手の中で鳴らしている老婆とすれ違うと、葉子はこんにちはというところを勢い余って、きょうは! と唾を飛ばすような勢いで言ってしまう、老婆はじっと重い瞼を持ち上げて葉子を見つめると、それから手を開いて、三匹の石どもの表情を読み取り、雨、と呟くのだ、葉子はありがとう、と言って長い髪の毛を一本千切ると、皺くちゃの老婆の手に握らせてやる、老婆はそれを大事そうにポケットの中に片づける。葉子はするともう夢中になって、さっき見た天使の降りのような光の物真似をして、階段を満たす、降りる。
 *
 その子は霰という名前だった。小さな頃から図書館通いをしていた、読書が好きな女の子だった。人見知りな性格で気を許せる友達などこれまでいたことがなかったけど、私立の学校に通っていたので、それが特に問題になることもなかった。だいたい、霰の頭の中には、いつでも話せる友達が、それもすごいたくましさで選択の度に霰を導いてくれる年下の女の子や、学者気質の美しい姿の男の子、当然彼らと霰とは本の中で出会ったのだけど、などがいたので、霰には寂しさなど縁のない感覚だった。ひとりということがどういうことなのか、そのひとりの中に全世界を飼っていた霰にはわからないし、ここに霰が傷ひとつなく存在しているなら、それは霰にとってすべてがあるということだった。私には私の世界があるわ、とまでは言えない怖がりの霰だったけど、それでも霰は、もしもそんな世界が本当に毎晩訪れる夢のように、私を誘いに来て、そしてもう覚めることはないのだと、じっと私の息の根を、本当の幸せで締め付けてくれるようなことがあるなら、それはなんて素敵なことなんだろう……そう考えないではいられない、なんせ現実の世界では霰は、誰に夢見られるわけでもないし、ああ唯一その裸を見つめる霰の眼にしたって、それに落胆を覚えないということはなかったし、それにその目自体が、いやらしい目の蔑みから逃れるなんて、とても出来なかったのだ。そのことに気づいたのは霰がいくつのときだっただろう? つまり、霰には霰の世界と、それから霰がどうやら参加しているらしい平凡の世界があり、どちらかというと多数決的に霰は平凡に決定されており、消えさるには霰が完全に消えてしまうより他ないのだということに? ああ、私がどれほどあちらではなくこの世界の住民になりたいと願ったとしても、お腹が空くというただそれだけのことで私が私の最後のへその緒を切ってしまえないのはどうして?
 *
 授業が終わると部活に、と言ってもそれは文芸部という部活で、ほとんど集まってもみんなでお茶を飲みながらおしゃべりするのが関の山といったような、顔を出しても出さなくてもどちらでも構わないというような緩い部活だったんですけど、私がそこに顔を出していたのは、ええ、今年卒業してしまう先輩の中に、一人、少し気の合う人を見つけていたからなんです、別に好きだとか、何か特別に名前を拵える必要がある、ような感情を抱くというような相手じゃなかったんだけど、なんと言うか、そう、友達、という言葉の中にすっと収まりがいい、そんな男の人でした。ああ、あの会話が、どんなに些細なものだとしても、私には楽しかった、いいや楽しいというか、現実の中にようやく見つけられた椅子のようにも思えて、安心できたんですかね? とにかくその人は、ああ、いいえ、私なんて及ばないほど、立派な人で、確かに私の前ではよく不器用を発揮するし、気を遣えばから回らないことなどない、というような人だったけど、すごく頭のいい人で、今は多分、大学で哲学の研究をしているはずなんです。ああそんな彼の、賢さと誠実さと、やさしさのセットとなったような性格に触れると、ああ私も、こんなにバカで、愚図でも、それでも彼がそうと決めているのなら、私もそれを指標にしてもいいんだ、つまり、誠実さを、やさしさを、私が獲得しようともがくのに、なんの後ろめたさもいらないんだというような気にもなって、嬉しかったんです。
 そんな彼が部活を引退してしまうと、もう私にはこの部活も、部活だったものの抜け殻というか、さっきまでそこにあったものの影というようにも思えてきちゃって、いいやあそこの人たちが悪いとかそんなことは決してないのだけど、それでもどうしても憂鬱な気持ちが私の心に巣くってどうしようもなく呼吸の度にそれを苦しくするから、ああ私はどうしちゃったのか、どうしてもその部活に顔を出すことが出来なくなってしまった、ああ熱い、熱いなあ、ごめんなさい、こんなに早口で、顔が熱い、赤くなってませんか? ふふ、ああ、ごめんなさい、そう、それで、でも、学校には行くのに部活には行かないんだと考えれば考えるほど、ああ、部活のみんなはなんて思うだろう、私がそこに行かなくなることが、どうかあの人たちがあそこを楽しむのに、少しも邪魔な影を落とさなければいいんだけど……ああ、思えば思うほど、私は学校にも行けなくなってしまいました、本当に熱が出てきたみたいだったのです、頭の中をガーンと占める憂鬱が、あんまりそれを見つめすぎたせいで実体化しちゃったと言うか。それで、いつしか私は家で一人で本を読むばかりになってしまいました、それも、頭のそれに、に操られている、というような意識で。思えば私が弱くて、そんな風な言い訳を拵えただけ、なんでしょうけど、それでもそのときの私には、現実の私など、この頭の中の目に、寄生されたカタツムリでしかないと思えて仕方がなくて。その頃から、自分で小説を書くことも、始めました。理由などわかりません、私はカタツムリでしたから、ふふ、母親には、受験期が始まったとかそんな適当な嘘を言うだけで大丈夫だったんです、なんせ私のことになど興味のない母親だし、父親はずっと昔に家を出て行ってしまっていましたからね。それでも貧乏でなく、むしろ驚くほど裕福な家庭で、必要ならそれが手に入らないことなどない家でした、それでも本をねだることなど私は到底無理だったから、近くの図書館に通っていたんですけど。そこで私は今みたいに、自分の好きな文化ばかりを摂取した。妹は、よくできた子なんです、その子はそれはそれはすくすく育って、私はいつも助けてもらってばかり。
 あれ? なんの話でしたっけ? そうなんです、私、ふふ、小説を書いてるって言っておきながらこれじゃああんまりバカげているけど、話すのが苦手なんです、とくに長く話したことなんてこれまでに一度もなかったから、なにを、ああそうだ、私がここに来た理由でしたよね? さあ、母親に心配されてだったような気もするし、自分でここに来たような気もします、とにかく、ここで一度眠り、目を覚ましてからは、気づいたら私はここにいたんだって思うのがとてもしっくり来るんで、そう思うようにしてる、だってここの人たちを見てると、みんなそんな風じゃありませんか? なんと言うか、過去を持たないただ現象としての現在、というか、ふふ、現象って、葉子さんの使いそうな言葉、すぐ影響受けるんです、書く方はこれよりももっと、そう、ここの人たち、でしたよね、私はここが、好きですよ? だって以前までの暮らしと、何が違うんだろうと思ってみても、どうにもなにがなんだかわからないくらいなんだもん。
 葉子さんは? 質問を、結局元の質問のままで返しちゃって申し訳ないけど、どうしてここにやってきたんですか?
 *
 葉子は、どんな表情を浮かべることもしないで、ぼんやりと霰の最後の質問だけは上手に聞き流すと、すべてはもう終わってしまい、その終わりが続く間だけを二人が埋め合わせている、とでも言うように、視線を斜め下にやるのだ。そこに花壇から零れた種が発芽したのか、二揃い綺麗に咲いている花があったので、
「これは何て名前の花?」
 と訊ねた。霰はふるふると首をふる、全力で、それが誠実さ? と思わず葉子が訊きたくなるほどの仕草で。そこには、さっき葉子の個人的な領域へまでつい気楽に足を踏み入れてしまった、その果てに軽い無視があったということへの後悔の色までもはっきりと見て取れたので、葉子は大丈夫だよというように、にっこりと微笑みながら、
「いいや、名前なんてどうでもいいさ、少なくとも、いいや、大いに、これが咲いていること以上に素晴らしいことがあるだろうか? ああこの花が、今ここに咲いていること以上にさ、ただ咲いている、ああ名も持たぬ花、名前も、目的も、過去さえも、いいやそれじゃあここの奴らとあまりにも似て来るので、俺はこいつに特別の家を、名前を付けてやりたいとも思わないこともないが、ああ花よ、こんなコンクリートの上でも、ちょっと茎がしっかりしすぎていないか? でもこれも、なんのためでもないって言うんだから困るくらいだよ、ただ太陽が、あそこにあったから、なのさ、ああ何のためでもない、誰でもないものの花」
 霰はすると、くすぐられるような、なんとなく前のめりになるが、確証を持てないので挙げることのできない利き手のような、そんな曖昧さを体全体と目の揺れとで表現してしまうので、葉子は思わずまた吹き出して、
「あはは、ああそうだよ、多分あんたの思ってるので正解だよ、読書家の霰さん、ほら気になってる答えを言ってみなよ」
 霰はそれでも、どこまでもその確信に近づいていようとも、それが本当に確信として与えられるまでは、それをそうなのだと安心することなどできないのだろう、葉子のことを焦らしの飼い主とでもいうようにも見つめながら、
「多分?……」
 と震える声で問いかえす。
「多分、だよ、絶対かもしれない」
 いいや、それでも霰は絶対などというところまでは、絶対に到達することができないのだ。霰はどんなにそれが絶対に限りなく斬進した果てのないものの果ての事実であったとしても、絶対だとそれを言い切ることなど出来たことがないのだ。
「ツェランだよ、無の、誰でもないものの薔薇」
 霰は風船のようにしぼんでいく、肩でほっと息をつく、それからふいに、自分のあまりのふがいなさのために、今にも葉子のついたため息が、この熱を完全に覚まさせてしまうのではないか、と不安に駆られる。葉子はそんな霰の、怯えを、肩の体を守るように張られた様を、ただじっと見つめる、微笑むと、緊張の糸が緩む。ああ、霰は葉子の表情に合わせて踊る、まるで鏡の奴隷であり、ひとりでくるくるくるくると回って、なんてバカみたいなんだろう、それでもその目が開いて、私を見つめるなら、私はそれに吊り上げられた魚のようにならないことなんで出来やしない、あああれもこれもどれも全部、葉子さんの手のひらの上? 表情の内? なのだ、白眼を泳ぐ黒目の狭さというようにも、その表情の移り変わりの中に、飼われてしまっているような気分だ、ああ視線のリードで繋がれたようで、とても……
 *
 まあいいや、そんなこと、置いといて、いいやあんたの困り顔を見ているのは、俺には何よりも飽きないので、俺はここではみんなが何かを飽きずに持っているようにこれを俺の日課にしたいと思えるほどなんだけどね、それでもあんまり遊んでいるばかりの俺ではないのだ、ああ、俺はここの奴らよりはまだ少しは理性の名残に悩まされているんだからね、いいや、これは、あの医者が俺にくれた言葉なんかじゃないよ、反対に俺があいつにくれてやったのだ、俺のこれ、まあこれは理性の名残のようなものなんだろうと俺が言えば、妙にしっくりきた様子のあいつは、そうだ、理性の名残、理性の名残、と繰り返す人形なのだ、パンチングマシーンを打つみたいに、俺も俺の言葉の威力を計ってみたいほどの気分だよ、いいや、やめとこう。
 ふん、それにしても、ここにきてから俺も少しは花の名前にも詳しくなったさ、なんせここの看護師の中には、それに詳しくない奴なんて一人もいないのだし、誰もみんな何々が咲いてるとかそんな話ばかりするんだからね、この花の名前? いいや、でも俺は本当にそれを知らないんだよ、ほら、花壇のどれとも似ていないしさ、素晴らしいピッチャーが院の外からこれを投げ入れたのかもしれない、ドローンが投下したのかも、それじゃあこれはあんた好みの童話の言葉で言うなら、ジャックと豆の木、だったっけね? あああんたの困り顔は見飽きたよ、どうであれ素敵な退屈だけどね、あ~ああ……こいつが長く育って俺たちを連れ出してくれる日もそう遠くはないさ。いいや、俺はそれを待ち望んでいるとかそんなことは、別にないんだけどね。
 ああ、そうだった、俺がどうしてここに来たのか? だったっけ? いいや、俺だって答えられるくらいならそれに答えてやりたいけど、それならここになんて来なかったはずの俺なのだ、多分俺も、ちょっとどうにかしてたんだろうね。
 ああ、俺もあんたと同じでさ、一体どこから来たのか、それを忘れてしまったみたいでさ、だからもう、俺はどこにいるのか? という問いさえ必要ないようなのだ、なんせこれしかそれがないのなら、それを表す言葉、どんな差異も必要ではなくなるさ! ここはそういうところだよ、そりゃあ俺も聞かれれば思い出しもするさ、うんといいえのコンピューターとしてなら、どんな絵を描いてやったって構わないが、結局のところそういうものだけだよ、ここにあるのは、作家のあんたにはさぞお辛いことで?
 だってあんたも思ったことがない? この病院じゃ、誰もみんな光で手を洗ったり、風に涼むみたいにさ、世界との商売を、足し引きを、していない、よくて押し合いと引き合いといったところで、結局はバランスボールの上で跳ねてるだけなんだな、粘土を捏ねては溶かして、してるみたいで、ああなんて遠い孤独だろう、ああそれが完全な調和というものなのか、それともそうであってもただ完全なだけの調和の偽物なのか、俺にはわからないんだけどさ、だから、俺がまだ理性の名残を残しているなら、俺のそれは全力でそれを睨んでいるというわけさ、疑ってるんだよ、ここはどういうところか? 本当の芸術とは、いかにして可能なりや? 
 そう言えば、ねぇ霰? 別にこれはそういう問いなのではなくて、ただの日常会話としてのそれなんだから、気楽に聞いてくれると嬉しいんだけどね、あんたはどうして小説なんか書いているのさ? だって考えてみてよ、ここに居る人の中には、そういう人が多いでしょ? 時間があればいつでも砂に詩を書いてる爺さんや、他のどんな人だって、蜘蛛の巣作りのような詩人なのさ、あの少年のキスだってね、ただの詩なのさ、まさにただ詩というだけの詩さ。だけど俺の見たところでは、あんただけはちょっと違うんだね、ああ俺の思うところでは、あんたと俺だけが、ここではちょっと異端児なのさ。
 だから俺はそれを知りたいよ、ねぇあんたが小説を書くっていうのはさ、あんたのただ見られ続ける夢、歩まれるただ道というようなそういうものなのか、それともどんな風にも言えてしまうことのない、どんな簡単な罠にも捕まらない、つまり一とゼロとの間からはどうしてもはみ出してしまうようなさ、そういう。現実の複雑さをどこまでも背負ってしまうようなものなのではないの?
 *
 そこは四方を建物に囲まれた中庭だった。ガラス張りとなっていて、廊下から中が丸見えだからなのか、誰もいつかないところだった。そこが憩いの場なのか、それとも廊下を通る人らの心を花で満たすためのただ花の水槽なのかはわからない、しかし、葉子と霰だけ、そのくり抜かれた四角柱のような外観に、よく計算されて出来ていたから日中の特定の時間にはたっぷりと日差しの降り注ぐその場所を、その人気のなさも含めて好きだったので、二人はいつも太陽がその真上に輝く一時間が訪れると、示し合わせたようにこの中庭に降りて来て、花壇の縁の煉瓦に腰掛けて話をするのだ。
 *
「今日、妹がやってきて、本を持ってきてくれたんです、前に葉子さんの言ってた、サリンジャーの短編と、ローベルト・ヴァルザーの散文集と、クレジオの初期の作品と、ロートレアモンの詩、読んだことあったけど、他には、ジャン・ジュネと、ヘンリー・ミラーと、バロウズ、ボリス・ヴィアンなんかを、ヴァルザーはまだ一冊も読んだことなかったから、さっきまで夢中になって読んでた、語り口がすっごく優しいというか、変なくらいに親切で、葉子さんが私に話してくれているみたいだった」
 こんな風に読んだ本の報告をし合うのは二人の日課だった。ここでは相手の話を飲み込んでは、吐き出し、それをまた飲み込んで、という人工呼吸じみた会話でも、できる相手など一人しか知らない二人だったから、二人はその日の当たる一時間の間に、思う存分に空気の出し入れをする。
「俺みたい? そう? 確かに、そんな気が、なくもないって、自分で言うわけにはいかないけどさ。ヴァルザーかあ、あれは確かに今の俺じみてるかもね、なんというか、天国の散歩者なんだな、あいつは、それでいえばサリンジャーなんて、俺は評価の悪い後期に書かれたただ話しているだけというような作品が好きなんだけどね、なんと言うか、夜的な緊張、凝縮するもの、深く深く、速く、小さく、根源にたどり着こうとするもの、重力的なもの、そういうものどもから見放されたというか、そんなのをなしでも歩けるようになった人たち、ようはランボーの砂漠や、日本だと田村隆一なんかがそうなのかなあとも思うんだけどね、そういうのには、どうしても俺はひかれるわけで、ねぇ、サリンジャーのどの作品だか知らないけど、早く読んで感想を聞かせてね、今夜読む本をもうすでに決めているってあんたではないでしょ?」
 話しながら、言葉や、手や表情が、ふざけた植物の蔦みたいに自在にふらふらとやり出すことを、葉子は自分で心苦しいと思うし、とても人に聞かせるような話し方ではないなあと、特にこんな風にまともに話したいと思えるような相手と話している場合には思いもするけど、その度に前に霰の葉子にくれた表現である、その話し方は、意味を、自分に見えている絵をそのまま相手に伝達、飲み込ませようとするようなものではなくて、むしろ不可能な絵画として置かれた言葉と言葉との距離を、夜空に絵を描くのではなくその星座を一点一点指し示すことで、話者が聴衆と同時にそれを指さす、夜空のそれを同時に見つめる、ようなそれなんです、というそんな特別に編んでくれた花の冠のような比喩を思い出し、まあいっかあと甘えたような気にもなるのだ。
「私、本を読むのと同じくらい、葉子さんと話すのが好きです、これまで、こんなに話す友達なんて一人もいなかったのに」
 霰がうつむきがちにそんなことを言うと、葉子はふと、だけどあんたの本の中では、これでさえあまりにもありふれたものなんじゃないの? それなら俺とのこれは、ただ色違いのポケモンが出てきたようなそれではないの? とでもイジメてやりたいような気にもなるのだけど、小説の中ならそうでもないのだろうが、現実の霰はそれではあんまり怯えすぎてしまうということはわかっていたから、言葉を飲みくだす。それで言いたいこともなくなってしまったから、どこか興味も風のように去ったとでもいうように、さあね~とだけ返事をする。霰はふふふと笑って、
「本当に、本を読んでるようだっていう、その感じが好きなのかな、だって本は私が何を言ったって何も感じないし、葉子さんは、なんと言うか、どんな深刻さも深刻さと捉えない、どんな傷も、喜びさえ、なんというか、形あるものとしては捉えないというか、それはあくまで一瞬の雲の造形というか、前に葉子さんが言ってたことだったかもしれないけど、無数の世界の内のたった一つの瞬きの、偶然の出会いだとか、そんな風で、全然私は葉子さんと話してると、何でも言える気がする」
「本を読んでるみたい? あれ俺がそれを言ったの? ああ、ふーん、そう? だけど俺が本当にあんたを取って食わない羊だとでも? 雲だとでも? まあいいや、俺は今朝もバカなんだよ、なんだか蝶々のように馬鹿でヒラヒラしてて、話すと口よりも目の方がパチパチするくらいだよ、まあいいんだけど、ねぇ霰? いいや、何を言いたいんだかも忘れちゃったよ、俺は何もあんたにふふふと含み笑いさせるために話してるんじゃない、押せばランダムに言葉を話す高性能のあんたお気に入りの人形じゃないんでね、勿論言葉の飛び出す幼児のための絵本なんてことでもないので、いいや、でも俺には、あんたを楽しませるためにやってるってふしも……」
 霰はやっぱりふふふと笑って、それから気がつくので、口から水を零した子どものように、あっと葉子の叱りの視線に身構えようとする。葉子はふんと呆れたのか満足したのかわからないような表情で霰のそんな上目遣いを迎えつける。ねぇ、あんたのそれは本当に俺を恐れているわけ? と、ふいに葉子は訊ねてみたいような気がして、目でそれを訴えかけると、霰はえ? と問うように黒目を大きくしていく、ああそれは鯨の口の中にでも飲み込まれていくというほどの、ぶわっと大きな瞼なのだ、粘着性の膜みたく広がっていく、まさしく語の中の瞼、なのだ、霰、あんたが俺を見つめてくるのは。
「ねぇ霰? 俺も本当は、あんたに何でもかんでもあげられるものは全部、それこそ作者がそうするようにしてやりたいほどの気分なんだけど、それでも俺は、頭が、ちょっと前よりもずいぶんへんになっちゃってさ、いいやこんなところに入れられているから、こんなことを考えるようなバカな俺ではなくても、それでも俺も随分と、ぼんやりしたところの多い奴になっちまったってわけだ、サリンジャーの隠居でも、ランボーの砂漠でも、カフカの役所でもなくてね、ああ、ね? 俺も前はもっと上手にというか、いいことも話せたはずなのにさ、信じる? 俺が本当に素晴らしい、宝石のようないくつかの詩をこの世に産み落としたことがある、なんて? あんたは信じられるかな、まあいいや、あんたはどうせ信じると言うだろうし、いいやあんたが嘘を言うとかそんなのではなくてね、あんたはどうせ信じるのだ、俺なら信じるであろうそれを、あんたはね。だけど、ねぇ、俺は作家だったんだよ! それが、集中力という言葉の裏側に落ちちゃったみたいなここに入れられて、どんな花の芽吹くほどの隙間もないほど完全に満たされたというか、完全に完全なこの場所で、どんな詩よりも速く饒舌に、とめどなく話す沈黙の声を聞きすぎたものだから、ねぇ、俺からは、とてもじゃないけどどんなことに対しても無能力という感じがしない?」
「しない」
 と霰はいくらでも強くそれを言い切ることが出来るのだ、なんせそれを断ち切ることの必要性を誰よりも感じて生きてきたあんたなのだからね。何度自己否定の誘惑があんたを押しつぶそうとしてきたことか、そして何度重い石のような眠りから覚めたとき、朝一のあんたの瞼の重さが、あんたの汚されたドレスの主犯者をそのベッドの中に見つけることになったことだろう、あああんたは何度あんた自身を殺して来たんだろう。ただ、葉子にとってはどんな言葉もそこで留まるものなのではなく、育ち続ける植物の蔦のようなものだったから、霰が違うよと葉子の眠りを覚ますように言った言葉も、すぐにその真剣さを忘れてぷかぷかと思惟として漂い始めるのだ、葉子は煙草をふかすようにぼんやりと霰の言うのに耳を澄ませる。
 *
「そう言えば、長いの? 霰は、ここの生活」
「えっと、半年くらいかなあ」
「へぇそう。それでもやっぱり、毎日ここに来るってことは、気の合う人は他にあんまり居なかったんだねぇ。ここじゃ何かをやってる人ばかりだし、あんたの家族にしてもあんたにはここがあってるって見えるんだとしても、なんと言うか、ここの人らは、俺たちのように立ち止まりはしないものね、なんと言うかさ……いいや、こんな言い方はすごく悪いけど、それこそ蜂が蜜を運ぶようにも、よくもまあと言った風にね」
 霰はクスッと笑いながら、駄目ですよ、と葉子を非難するようでもなく、かといって心の奥底では肯定しているというようでもなくそう言うのだ、なんというか、それは空咳のようにも無意味なものであり、既に鳴かれた犬の鳴き声や、風のようにも出会ったときにはもうそこにはないものであり、形のない彫刻作品を撫でるならそのように撫でるだろうというような、なんとなく肩をもむようなものであり、与えられたものに気楽さを与える効果を持つものなのだ、あああんたの砕けて笑うのは、車と一緒に出発する音の友情というようにも俺には心強いのだ、と葉子は思う。
「でも、本当に、だよ、だってあんたには変に血が通ったところがあるでしょう? だから砂漠のどんなオアシスにもありがたがってありつくようなのは難しそうだ、どんな本でも楽しんで分析しちまうパズル屋のような学者がいても、あんたには好き嫌いがあるでしょ? 本の妖精ってわけにはいかないんだ、でも、その様子じゃ、そんなに尽きないものなのかなあ、本は、あんたの喜びは、なんせ半年もだ!」
 霰はすると口ごもるような、幼児が口元をもごもごさせるような仕草で、なんとなく甘えて布団に潜り込むようにも視線をくねくねさせながら、迷路の出口を探すように返事の突先を探そうとするのだ。
「でも、私は……」
 その後に言葉が続くわけではなかった。ゆっくりしなよ、と葉子が姿勢を崩してやっても、霰は焦りながら言葉を探す、すると葉子はつい口を挟みたくもなってしまう。
「俺はあんたが文章を書いてるところを見てみたいよ、なんせあんたの書いて、俺に見せてくれたこともある小説の文章は、それはそれは濃度の高いものでさ、俺でさえ飲み込むのに苦労するほどだったんだから、どんな一滴一滴が生まれ落ちるんだろう、それで詩を書くということはやっぱりそういうことなのかなあ、一編の詩が生まれるためには、殺さなければならない、多くのものを殺さなくてはならない……それじゃあここの連中のなにもかもの生とでもいうようなありさまは、いったいなんだろう、いいや、どちらが悪いのだということもないけど、人間には時期が、季節があると言うだけなんだろうけどね、なんせあんなに濃いアルコールよりも酔わせる、ランボーの最後がああなら……んで、ここの天気はもう毎日が昼、というわけだ、あはは! いいや、俺の言うのは無視してくれていいよ、これらはあんたに打ち込まれた弾丸でもなけれな遅効性の毒なのでもなく、がら空きの腹に狙いを定めたボディブローでさえない、ただの可能な道への犬の散歩なんだから、霰、さっきの質問だけどさ、あんたは半年もよく退屈しなかったねぇぇぇ」
 霰は微笑む、鏡が光を反射させるようににこっと笑うので、葉子はそこに映し出されていたのは俺なんだ、と気が付く。
「葉子さんは? 退屈?」
「ああ、俺だって、あんたのように本は好きだよ、それでもどんな本でもそれが本であるなら可能だ、なんて言うことは到底できない、これを言うためには俺はもっと本への執着を捨てるべきだし、俺がそれを書くなんてことがあれば、いいも悪いもそれから取り除くなんてことはとてもできそうにない、俺にはどんな本も腐って見えるし、ああ読める文章なんて一ページ分もあれば名著さ、いいや、これは俺の中のひとりの小人の言うことだとしてもね、全然嘘だとも言えない。それだから俺は、なんだっけ? ああそうそう、それが図書館でも、映画館でも、一人の部屋でも、ああ完全なこの内部だとしても、俺は残念ながら、どんな砂粒にも永遠があると思えども、ガムを噛み続けるのにはすぐに飽きちまう子どもなんだよ、吐き出して、はい次へ、それが永遠の徒労だとしてもね、ああだって季節は回るもの、地球は、血は回るものでしょ、あんたらの完全性は機械の中で達成されるものなのではなく、ね、あんたらは繰り返す完全さなのではなく、俺としては、完全性の完全性だ、欲しいのは、すべてのすべてだ! 霰? あああんたらって誰だろう、あのね、俺は、もっと広いところを歩き回りたいよ、偶然、昨日、俺は海の動画をずっと見てたんだよ、部屋のテレビでね、たまたま何かを見たいと選んだDVDがたまたまそんなのだったんだね、ずっと平坦な海をイルカが泳いでるだけの動画。海の真ん中の方ってのはもうありえないくらいに平らでさ、俺らはいつも浜辺からそれを見るでしょ、するとなんだかドラマの始まりのようなそれでも、真ん中では何も起こらないどころか、それはただ手の付けられていない剥き出しの生命でしかなく、ああどんな何が傷つけることも、いいや、どんな何も飲み込まれないということなどありえなく、ああ、つまりすべてはただ生まれては死んで行くものでしかありえなく、死ぬほどに平たんで雄大なそこでは、ああどんな波さえも、騒がしくない、圧倒的に静かで、腹のようで、ゆりかごのようで、時計のようで、ああ海はそんなところだったよ、俺の病室のテレビの中じゃね。海はただ生きていた、ああ、なんというか、それは変わるわけでもない、進むわけでもない、太陽のように燃えているのでもない、ただ存在しているというか、あるというか、太陽も月もそこに帰っていく存在の地平……とにかくそんな巨大な海の水平線がずっと向こうに見える、海はそれに、更にその深さを持っているわけだから、俺のイメージなんて遥か及ばない巨大さだよ、そこをね、イルカが、真っ直ぐに、あんな細い顔をつけて、泳いでく、あいつらにはなにが見えてるって言うの? どんな一生をかけてもさ、到底海のどんな一部のことだってわかるはずがない、だから一生を遊べるプールなのだ、未知の庭さ、いいやあいつらはどんな風にも冒険者じゃなく、目的も持たない、ただそれじゃあ自然機械の歯車だろうか? ここと同じように? どんな部屋とも同じように? いいや、それは排除するのではなくすべてを含むことで、それ自体のすべてではなく、すべてのすべてでありえるところさ、ああそれがどんなに気持ちいいだろう、って思うとね、俺は、途端に、外に出たくなった。水族館のイルカを見たことがある? 確かに巨大な水槽だけど、そこに何頭もいるイルカたちは、全員が全員お決まりのルートをお決まりのやり方で延々と繰り返し泳いでいるんだね、まるで目を閉じて歩けば歩くことが脳内の暗闇にだけ可能な無限を開けるというようにさ、一冊の書物を繰り返し読むみたいに! ああ、あの気狂いじみた作法と俺の今とを比べるなんて芸のないことはしなくても、なんせ、ああ、あのイルカも、俺もあんたも、こんな今でさえ、どんな一人称の中にいても、自由であれるのだからね、神は俺たちに自由という言葉を必要とさせないくらい、とんでもない宇宙を、この頭さえなくとも、すべてのすべてである、すべてを持つ宇宙の中に授けてくださったのだから、ここの人らにもハレルヤ、さ、心から素晴らしい。だけど俺はそのビデオを見ていると、どうしてももっと広い地面の上に立って太陽と、こんな狭い面会室でもなく対峙したいような気がしてくるんだよ、いいや、どうしても俺は同じところをくるくる回るな、お決まりのレトリックで、ターンでさ、ああだからどうしても俺はもう一度外に出て、自由にそこを歩き回らないといけない、すべてをこの腹の中に収めるのではなくても、すべての中に溶け入りたいのさ」
「海……」
 霰はポカンとした表情で、ただ一言だけぽつんと口にする、まるで夜空に初めて星を見た人のように! 葉子は思わず吹き出して笑い、いいや別に、と話題を塗り替える。
「ここにいるのだって楽しいよ、なんせどんな本も無限大でないなんてことはありえないんだ、更にその中のたった一語にさえ、どんな図書館でも及ぶことのない物語があるんだから! グラウンドに出たことある? あそこにひとり、ずっと詩を書いてる男の人がいるでしょ? 話しかけても眩しそうに少し目を上げるだけでさ、俺の目を見つけられもしないうちに、もう陽の光に潰されたようにその穴倉に帰って、俯いてまた砂をなぞり始めるの、俺はそんなの見てると、なんというか、それはそれはすごいことだ、想像さえ及ばないほどの集中力だ、というか、あきらかに神がかりなんだけど、それでも、なんというかさ、わかる?」
 あははと葉子は笑いながら、言葉の出てこないのを、機械の頭を叩くように揺らす、焦るようでもなく、勝手を知った老爺のように、頭を掻きながら、
「あのね、俺の直感は、これまで外れたことがないんだよ、そりゃあ俺の見る目で判断するわけだから、当たり前でも、それだけでもないはずだよ、俺が自分が思うのに従ったのに、後で後悔したなんてこと、一度もないというか、どんな回り道をしても、必ずそこに帰ってしまうというか、それに憧れてしまう、どうしようもなく引き付けられる、そんな旅鳥の感じるような感じ方で、感じるものがある」
 葉子は遠くを見つめようにも壁であるこの中庭を心苦しいと思い、視線を巡らせていると、霰の膝の上に置かれた指先の緊張、視線はそれと出会い、今は俺もこの子も、次に何が言われるのかを待っている、ああその次がない限りここに終わりはないのだ、と気が付くのでもなく思う。
「葉子さんは、いつからここにいるんですか?」
「あんたに初めて会った日、あれが俺の最初の日だよ、まったくロマンチックな意味でもなくね」
「葉子さん、最初から今と変わらない様子だった」
「そう? あのときは俺も、今よりもっと落ち着いてるというか、もっと穏やかで、感じる能力がまるでなくなってしまったようだった、こんなところに入ったのが原因でなくとも、ここに入るために俺が引き起こしたちょっとした騒ぎのせいで、俺と俺の心はズタズタで、そこはなにも起こらないただ荒野だった、さっき俺が語った海上の無限の地平の開けというのでもなく、そこには揺蕩うものさえなにもない、死の土地だった、枯れ果てた荒野だった。今、俺はそこを永遠の罰的に彷徨うのではなく、もっと自由にただ泳げるといった風で、あれ、なんの話をしてるんだっけ?」
「もうすぐ出ていくんですか?」
 そんな風に話が現実の足を掴むと、葉子は妙に気の抜けたようになって、再び体勢を大きく崩す、ああだから、言葉が鳥にでもなって飛んで行きやしないか? 折った折紙に神が下りて、鶴が羽ばたいていけやしないか? と願うようでも、うなだれるようであるような気持ちで、投げやりに口にする。
「さあねぇぇぇぇ。今のところ俺も、毎日同じことを繰り返してる、水槽の中のイルカだよ、少なくとも外のみんなの許しが得られるまで、俺がもっと正常だってみんなが理解してくれるときまで、待ってないといけない、あなたは?」
 葉子は視線までも投げやりに、霰に飛ばす、訊ねたのも、今回は霰の答えを聞きたいと思ったわけでもなく、ただ意識の移り変わりだった、と思う。
「私は……」
 霰はまた言い淀む、無意識の海をかき分けて迷子になる言葉の先端は、集中力の仕事でそれを掴もうとする、探す、次の言葉を? ではなく心の兄弟を、ああ同じ暖かさを、色を、熱を持つものを、目を閉じながらでも感じられるそれを。葉子は霰の手を、掴もうとしたのでもなく、ただ寂しさに自分の手を握るようにその手を掴んだのだった、そっと兄弟に、熱に寄り添うように。
「あんたも、出るんだよ、多分、いいや、俺はなにもあんたの人形じみたところに同情して、そこに希望を吹き込みたいと思う宗教家なのではないけど、とはいえここに入れられる前、あんたにはあんたの泳ぐべきところがあったんじゃないの?」
「私は、どこにいても同じだから」
 霰は泣き出すんじゃないかな? と葉子は思う、なんて熱い手なんだろう、霰の中の小さな霰たちが、一斉に危機を感じて騒ぎ立てているようなのだ。
「そうだ、あんたはどこにいても同じなのだ、だからあんたは、どこにでもいられるようでなくてはいけない、ここは確かに無限だろうが、無限の無限にまで開かれていなければならない、いいや、俺はとってもひどい奴だよ、ひどいことを言っているさ、特にあんたに対してはね、戦え、あるいは死ね、その場所に出て、と命令するクソ太陽だ、ただし穏やかに、あくまでも北風の対義語然として、ね? 死ねばいいんだよ、そこで、完全に灰になっても、時がまたあんたを集めるさ、毎日日が昇るんだってこと、ここにいると忘れるくらいじゃない?」
「葉子さんって」
 霰は葉子に取られた手を見つめる、葉子はしかし何事もなかったように、白々しく笑いながら、なに? と光がころっと傾いたように笑う、霰の指に自分のを握らせると、これまでイメージだったものがそこに肉体として下りるようで不思議だ、と思う。
「答えにくかったらいいんですけど」
「なに?」
 ああ俺はもう言ってしまいたい、これほど感じるということがすごいということをどんな風に口にできるの? と。ああもう俺が本当に、ありえないくらい本当に、ここにいるのだということを、あんたも俺がそうであるように感じはしない? と。
「どんな人だったんですか? その、外で」
「俺がどんな人だったか、どんな風に歩いてここにやって来たのか! 俺は作家だったんだよ、ひとときの興奮で川に飛び込んだので、哀れにもこの右手の小指の骨を粉砕してしまった、かわいそうな、詩人さ」
 葉子は霰の手をぎゅっと握る、握ると、潰れた小指が霰の手の中にモグラのように潜りこもうとする、舌が口内に押し当てられて潰されるように、小指が変形する。
「痛そう」
「全然! ただ、ちょっとは不便だろうよ、俺はまだあのあとでなにもしたことがないので、これをどんな風に使ってたかも忘れちゃったくらいだけど、そのときが来れば、そうだなあ例えば、あんたと俺がなにか約束をしたいとしても、この指じゃ、惨めだ!」
 ふふっと笑って霰はふたりの手を持ち上げて、太陽にかざす、そして指を抱き抱えるように彼女の手のひらで包んで、子供をあやすように揺さぶる、まさしく子供を相手取るように、葉子は完全に霰の中に招き入れられてしまい、もうその庭で遊ぶしかないといった風に、葉子はされるがままで、霰はするがままなのだ。
「川に……」
 霰はそのときの光景を再現するように、言いながらその指を見つめる。
「んで、俺と岩とに挟まれて……俺がどれだけ朦朧としていようとも、どうやら時間は俺を連れ去り、それでも置き去りとなった俺の魂の方は、夢からもう戻っては来れない罪人のようなこんな姿に……」
やがて、葉子はゆっくりと手をほどくと、ひんやりした煉瓦の上に、散歩の休憩中の犬のようにそれを待機させて、ゆっくりと首を持ち上げる蛇のように、話の方向を少し操作する。
「あんたの家族は、妹だけなの? 来てくれるのは」
 葉子は今ではどんな痛いところを突くのも痛くはないと思う、どんな恥部だったところも今では、より深くお互いを感じられるし、熱さへの反射というようにも飛び跳ねるように速く、俺もあんたもそれを捲ってやりたい、と思う……
「はい。私と血が繋がってるなんて思えないくらいの、しっかりした妹で、その子が私のことを思って、そうした方がいいって、今は妹だけが。伝言もその子が全部してくれるんです」
「あんたくらいの読書家なんだ、その子も」
「いいえ、本当に元気な、明るい子で」
「そう? あんたはだいぶひねくれてるもんね」
「妹は、ほんとにしっかりとした子で」
「なにを話すのさ、二人で?」
「ああ、学校であったこととか、妹が、話します、ほとんどは」
「あんたは楽しくて、つい相槌ばかりなんだ、にこやかに」
「そう。葉子さんは?」
「俺は、そうだ! 手紙が来てたっけな、ねぇ、今日は何日だろう、俺の後輩の、森林浴という奴がさ、また来るって言ってたっけな、そいつは、俺の味方だよ、あんたの妹のようにね、とはいえみんなが敵というわけでもない、もしもそうなら俺はこんなところに呑気に居着いてることもないんだからね、どんな風にでもこんなところは出てやる! ねぇ今は何時だろう、多分、今日くらいに来てくれると思うんだけど、ここには時計も携帯も何もないんだから、それだけは困った!」
「多分、二時くらい、かなあ」
「だろうね、じゃあ俺は、部屋に戻るよ、多分、森林浴が、もうすぐ見舞いに来てくれる時間だ! それじゃあまた明日、書いたものでもまた持って来てよ! 本の感想と一緒にでもね。そうだ、あんたが貸してくれた本を今読んでるけど、やっぱりあれはいい本だねぇ、読み終われば、また返すよ、じゃあ、またね」
 はあいと霰は柔らかく手を振る、葉子は日が溶けていくように笑う。
 *
 三カ月も四カ月も、ひとつの部屋の中で、建物の中で過ごすってのは、どういうことだろう、いいや、前に葉子さんは、ほとんど家から出もしないでずっと本を読んでるみたいな時期もあったし、髭も伸ばしっぱなしでさ、客人の相手もしないで、部屋の電気を一日中着けたままで、目が動物みたいになってた、ギョロギョロと、なんと言うか、普段のあの人の柔らかさのようなものが消えて、もっと機能的に、精神の付属物みたいになってた時期が、だから今も、あんまり不満を言いもしないで大人しくここに入れられてるということは、やっぱりそんな極度の自閉状態みたいなことにも、葉子さんは耐性があるというか、むしろよく馴染める人なんだろうなあ、あの時も、僕たちの方がそろそろ外に出ませんか? と誘うので精いっぱいだったっけ、ようやく外に連れ出せても、こっちの話を聞いているのかいないのかもわからないうちに、ふらっと部屋に帰って、なんにも間にはなかったって風に本を読み始めるんだもん、ささらさん、そうだ、ささらさんが出てきてようやく、あの人はあの人本来の暖かさと言うか、人間味、人に対してのある種の甘さのようなものを取り戻したようになって、自分が気遣われている側だということも知らぬようにささらさんに、どうしたの、ああ久しぶりだねぇ、だから……とそんな風なことを、老婆が孫の手を取るみたく言ったんだったな、葉子さんはパタリと本を閉じてしまうと、行こう、と言って僕たちを外に連れ出したのだ、僕たちみんなを、そのときは久保さんもいたかな? 確か美海さんがいて、ささらさんが、そんで僕が、それからは、ほんとにもう目まぐるしくあの人の目の色は変わっていった、まさかあの快活さが、あんたにも簡単に夜の飛びへと裏返るとは、誰も思っていなかった、あああの人の、どんな気分でも、何も支えを持たないものであり、あの人には、気分の傾きだけがすべてなのだとは、だから感じることの大きさがそのままあの人を破滅に連れて行くことになるのだとは。そうだ、あまりにも性急な人なのだ、その癖、何かがそれに触れない限り、完全な秩序を保ち続けられる、球のような人なのだ、それがどんなものでも、あの人が、それがそうである、そのものを唾棄することはあり得ないのだし、あの人はなんであってもそれを始めてしまったら、いくらでも、少なくとも季節のようにはそれを定着させることができてしまう人なのだろうし、あああの人の中がどんな風になってるかは相変わらずわからないけど、だいたい四カ月くらい、か……確かにそれはひとつの季節の終わりとしてはちょうどいい頃合いだし、さてそろそろ、あの人も、ここを出たがっているといいんだけどなあ。いいや、もしもまだあの人がここに強烈な根を張っているようでも、それでさえ、あのときとは状況が違うのだ、なんせあのときには、いつでも世界は葉子さんの意志を受け入れたし、葉子さんが出ようと思えばいつでも出られるという限りにおいて、葉子さんはあの部屋を出なくてもよかったのだ。こんな風に閉じ込められたんじゃ、あの人が、もし仮にここを出たいなどと本来なら全然思わないのだとしても、あああの人は出られないを出ないではいられない人なのだ、それは単純に禁止が欲望を生むとかそんなことではなくて、あの人はどんな手のひらも流れ落ちる水のような人だから、絶えず歩いてなきゃ過去の中に死骸として横たわることになってしまう、時間のような人なのだから、ああ時計が彼を表現するのだとしても、彼を閉じ込める檻ならそこを抜け出したい人なのだ、実際、どういう気分なんだろう、あんな人が病院に閉じ込められているのって。
 *
 森林浴は、裏にある駐車場に車を止めて裏口から建物に入ると、目の前の非常用エレベーター、清掃員や郵送業者が使う用の別あしらえのものに乗り込んで四階へと向かう。巨人のしゃっくりのように止まり、吐き出されるとそこはコンクリートが剥き出しとなった狭い空間であり、左手側の重い扉を開けると、病院の廊下の出ることが出来る。目がどうしようもなく自分の内側に座ってしまうような一面の白い壁であり、頭が痛くなるほど自分の声が聞こえそうだ、と思うから森林浴は何気なく視線を、窓ガラスに、花々の生い茂る中庭に向ける。覗き込んでもその底は深海のように深く暗く、ひっそりとしている。指紋ひとつない硝子に躊躇して、服の袖をかぶせながら森林浴が硝子に手を置き、その底に目を慣らすようにじっと視線を注ごうとすると、どこからか、男の子がやってきて、つかつかとまるで独楽が手元に戻ってくるような躊躇のなさでこちらにやって来て、目の前で立ち止まると、
「おはよう!」
 と言いながら褒めてもらいたそうに足を伸ばすのだ。森林浴がなんのことかもわからないというように首をかしげていると、男の子は涙を流すというか、目を涙に変形させるというか、そんな風に泣きだしたのだ。思わずうろたえて森林浴は男の子に被さるようにしゃがみ込んで、機械のように熱くなった男の子の頬を撫でてやる、えっえっ、と自分でも気づかない声を出しながら、辺りを見回して看護師のひとりでも通らないかと思っていても、建物はあまりに静かだし、ああ、これでは全面鏡張りとでもいうように男の子のすごい鳴き声が反射して何重にも響くというほどなのだ。森林浴は意を決して再び男の子と向かう合うと、その子の首からぶら下がったカードに気が付いた。紐がねじれて向こうを向いていたカードを表向けると、そこにはクレヨンで、おはよう、と言いながら夫人の頬にキスをする男の子の姿が描かれていたので、森林浴も見よう見まねで、どうにでもなれと半ば目を閉じながら、男の子の頭を抱いて頬を寄せると、
「おはよう!」
 と言いながらキスをした。男の子はするとしゃっくりを少しずつ、親からの言いつけを思い出しながら小銭を数え、一枚ずつ財布にしまい込む初めてのおつかい、というようにその喉の中に収めていく、すっかり元通りになると、にっこりと笑みを産み落として、何事もなかったように向こうへ歩いて行った。
 *
 ああそう言えば、最初の時、院長がそんなことを言っていたっけ、ここにはこだわりの強い患者がたくさんいます、できるだけ彼らのペースを乱さないように、彼らには彼らの生のリズムがあるので、それと出会ったとき、触れ合うようなときには、彼らの手を振り払うような真似はしないで、できるだけ彼らの手に同化してやってください、彼らの踊りを共に踊るのです……あはは、僕は最初、それが葉子さんにも当てはまることなんだって思うと面白くて、なんたってあの人には、まさしくそういうところがあったし、そのときは笑いをこらえるのに必死だったけど、なるほどこういうことだったんだな。
森林浴は胸をなでおろす、そして唇に残った、妙にバラ色の頬の暖かみをしまいこむように、よし、と小さな声で言うと、四階のある一部屋の前で立ち止まった。コンコンと二回、ノックをすると、どうせ来ないか、あまりにも遅れてくるであろう返事には頓着しないで、すみません、と言いながら、ドアを開ける。
 *
 夜以外には地面と平行にできないらしいベッドを四十度くらいまで起こして、映画でも見るようにゆったりとくつろぎながら、葉子は本を読んでいた、森林浴が来たのに気がつくと、ああ、と顔を起こして、それから笑うのではなくなんとなく企むように、にやりと表情を重く黒く変形させるのだ。森林浴には、それがどんなに意味深に見えようとも、なにを指し示す合図でもないということはわかっていた、この人は照れ屋というか、どうしても素直にやることができない人なんだ、なんでも大袈裟さの陰に隠してしまったり、おどけることでそれを自分の手で最初に汚してしまったり、いいや、それはなんの防衛本能でもなく、ただマナーのように染み付いているものなのだ、この人なりの不器用なスマートさなんだな。
「葉子さん、なにを読んでましたか?」
「ん、これ、これ」
 と言いながら葉子は本を、うちわを仰ぐようにパタパタとやりながら森林浴の手元に届ける、すると手持ち無沙汰になった両手を、なんとなくベッドの中に片づける。そんないかにも病人らしい自分の姿に、今度は照れ臭さを感じるのか、ふっと笑って、ただカーテンがそこに浮かんでいるだけの窓の方を見つめる。本から森林浴がさっと視線を上げ、葉子のためにカーテンを開けてやろうと手を伸ばしたとき、葉子はあっと言いながら森林浴の腕を掴み、それからあははと何か隠し事をするように笑う。森林浴の手をさっと今度は離すと、いい? と森林奥の視線をじっと奪い取って、壁に追い詰められた犯人がそうするように、両手が何も武器を所持していないということを示すように宙に掲げてから、沸点に到達して何かが弾けて、やけになってしまったマジシャンのように、ほら! とカーテンを勢いよくめくってしまうのだった、そこにはただ白い壁が、何の跡を持つわけでもなく続いているだけだった。それで、窓などない、ただ見せかけのカーテンなんかを嬉しそうにじっと見つめていたことの言い訳をするように、
「いいや、それでもお前は、なにもこんなものを俺の窮屈さと結びつけなくてもいいんだよ、俺は出たい時にはいつでもあの中庭にでも、運動場にでも出れるのだし、ただ俺の落下防止策と、見せかけの悪さという二つの問題を同時に解決してやるためのこんなささやかなアイデアを、俺たちが批判してやるのはかわいそうだし、あああわれがるのは誰に対してもおかしいさ、でも、俺はどうして四階にいるんだろう、あはは!」
 森林浴はそうだとうなずくように、ゆっくりと伏し目がちになって、読書の中に帰っていく。葉子はひとり笑い声を収めると、息を整えて、
「読んだことなかったの?」
 森林浴は本に集中しているかと思いきや、葉子が訊ねればすぐに顔を起こして返事をする。
「いやあ、こんなの図書館にあるんだなあと思って、すごいですね、誰が読む用なんだろう」
「いいや、これはこの院のものなんじゃなくて、ある女の子の差し入れだよ、女の子の女の子の、ね、霰ちゃんという大変読書家な友達を俺はこの院に持ったので、その彼女が彼女への彼女の妹の差し入れであるこの本を俺に貸してくれたというわけさ」
「これ、前に言ってませんでした? ヴァルザー、好きだって」
「ああそうだよ、これで読むのは何度目かわからないけど、あんたもここに来ればわかるかもよ、俺はもう新しい本なんて、まるで読む気にならないんだからね、何度読み返そうが、飽きが来ることはないよ、なんせ俺はもう無限に飽き果てたあとというわけなんだから」
 森林浴はそうですかと独り言のように呟きながら、そっと本を葉子のテーブルの上に戻すと、なんとなく話題が込み入ったところに行ってしまいそうだと察して、静かに微笑みながら、
「運動する友達はいないんですか?」
わけもなく葉子は笑ってしまう、目を細くして、信じられないというように。多分、運動という言葉の響きが子供の頃以来で可笑しかったのだろう。
「あっはっは、いいねぇ、それじゃあんたが相手になってよ、行こう、運動場にさ、部活は何だった?」
 葉子はベッドから足を出す、それを起点に立ち上がり、森林浴の肩に手をかける。
「僕は軽音です」
 葉子は森林浴の肩の上で、見舞われた軽い目眩を抑えつけると、もうその肩は置き去りにしてしまって、スリッパを引きずりながら、どうせ俺の方が遅いのだと気遣わない老爺のような足取りで、部屋を出て行こうとする、森林浴はあとを追う。二人はツカツカと廊下を歩いていく。
「サイテーだ! 流石の当病院と言えども、楽器セットは置いてないよ、俺の払ってる金のことを思えば、あってしかるべきだけどなあ、ひと月にいくらするんだっけ? あんたらが払ってる金は」
森林浴は後ろの言葉は聞かなかったように、さりげなくスルーして、
「いいや、僕もスポーツでいいですよ、ここで大きな音なんて、想像できないし」
 葉子は横目で森林浴の様子を伺う、けれど大した兆候も出ていないから、ああそうと投げ出してしまい、意地悪な仮面も脱ぎ捨ててただ友達として話すことにする。
「なあ、おい、大きい声と言えば、さっき泣き声が聞こえてきたよ、何かあった?」
「ああ、それ、男の子が……でも大丈夫でしたよ」
「廊下の子? あの子が泣くなんて!」
「いいや、最後は笑ってましたけどね、僕が、頬を差し出すのを、うかうかしてたら」
「ふーん、何をそんな気を取られることがあるかねぇ」
「いいや、中庭を、ちょっと見ていたら」
「誰かいたの?」
「いえ? 暗いから、どうなってるんだろうと思って」
「ああそう、ならいいんだけど」
「なにがですか?」
「なにが、だろう、さあね」
「悪いものでも出るんですか?」
「いいや、まさにその反対だよ!」
「へぇ、それじゃあ僕の予感も当たりだ」
「おい、そういうのは先に言えよ、ズルいなあ」
「別に勝ち負けでもないでしょ?」
「ああ、快さだよ。おい、運動は、お前は出来るの? 俺は結構得意だよ」
「そんな格好でもですか?」
 葉子は確かに妊婦の着るようなワンピースを着ていた。ここに来るとき、寝巻のために持ってきたものだった。
「俺のアディダスを持って来い!」
「今度、はい」
「今日は、ちょうどいい手加減だよ、テニスでもいかが? 俺と久保は、これでも高校じゃテニスをやってたんだからね、勿論俺はすぐにやめたとは言え」
「じゃあ、はい」
 *
 葉子たちは、事務室でラケットとボールを受け取ると外へ出た。テニスコートはグラウンドを突っ切った最奥にあるはずが、思い付いたように、森林浴においと言うと、葉子は建物沿いに影の中を歩いて、散歩道に出る階段の下に座り込んだ一人の高齢の男、ベレー帽を目深くかぶり、ぼれキレ同然の服を身にまとった男の傍に歩いていく。そして建物の陰から自分の影の頭をほんの少し突き出した彼の影をも踏まないように、そっと男の隣に並んで腰かけると、男がこの日は木の棒を使って地面をカリカリとやっているのを見つめる、というよりもそれに参加するように、じっと集中力を合わせるのだ。森林浴に、こいこいと手で合図を送ると、森林浴は訳も分からないまま葉子と同じ姿勢になった。葉子は男が地面に文字を刻むのを、今更、うっとりとするわけでも、不思議に思うでもなく、ただ様子見というのでもなく、しいて言うなら男が文字列をそう見つめるように平然と、靴磨きをするような集中力と平静さで見つめている。森林浴には、目を凝らしてもそれがどのように文字なのか、詩なのかわからず、ただ乱すわけにはいかないのだろうと二人の様子を見れば思うから、じっと葉子の隣で、時に取り巻かれている。それにしても、男の表情の、特にその目の、岩のような堅さというか、光のなさにはすごいものがあるなあ、どれだけじっと見つめているようでも、あれじゃ何も見ていないようなのだ、見るというよりも、岩がそっと森の中に置かれているように、目そのものが、同化しているというのとも少し違う気がする、なんと言うか、それとじかに触れている、目が、過去でも未来でもないところに行ってしまっている、ただここ、誰にも見える外のこの世界にその影というか、形だけを残して、起きながら夢を見ているような、放心状態? なんと言うか、昼下がりの公園で遊ぶ子供たちの、荷物や何やがかごに入れられた明らかに背景過多の、それでいて忘れられた、置き捨てられた、今ここにあるはずの異物とでもいうか、博物館にでも置かれたような、そのものの時間からの超越具合なのだ。いいや、どんなにそれに似合う表現を今ここで探し出しても、ぬいぐるみに着せる服のようにも、彼のなにがそれを喜ぶこともない、ああどこまでも、僕の側からのアプローチに留まっているというようだけど。実際、彼の服に止まったテントウムシ、のような僕のこの集中力が、少しでも乱れればそれだけでもう、ずいぶん遠くまで離れてしまう、そんな乗りこなし難い波のようなところがあるのだ、ああ、もう彼が地面にそれを掘るのも、僕にはまた、木の枝の退屈な行き帰りにしか見えなくなったや、葉子さんはいくら見ていても飽きないようだけど、そしてこの人も。
 *
 葉子は彼に話しかけるのでも、寄りそうのでもなくただそれを見ていた。ふとしたときに前を見ると、そこにあったはずの影が向こうへと移り、もう帰ろうよとせがむ子供のように長く伸びていた。葉子はずいぶんと時間が経ったことに気づいて、立ち上がると、森林浴が立つのを待ってから、一緒に歩きだす。葉子があのね、と言うと、森林浴ははいと答えるので、葉子は話し始める。
「あのね、あの方は、日の出るうちはいつでもここで、これを書いてるんだよ、俺が何を言おうと耳も貸さずにね、ああそれはどういうことなんだろうと思って、ここに来てしばらく俺もこの人を、なんとなく、気にかけていた。いいや、誰が彼の周りで何をしていようとも、簡単には乱される彼ではないのだ、名前と、あとは月の出だけ彼の意識を素通りできるらしくて、いつも日が落ちるか、看護師らに呼び掛けられるかで部屋の中に帰っていく。一度は俺も、どうしてもこの人と、目だけでもやり取りできないかと考えて、その名前を呼んだことがあったけど、でも、そのときも、そうだ、あの人はその名の呼ばれるのに着き従う亀というようでね、すっかり何もかも忘れたように俺の目をじっと見て来るんだからね、いいや、いいや、戻ってくれていいですよ、と俺は彼を連れ出してしまって本当に悪かったと、元の作業に帰ってもらったのさ。ああ、それにしてもそれはいったいどういうことなんだろう、少なくとも書くということはいつでもあんな風だということはさ、ああ、それは、だって、今ここで言葉にするのも躊躇われるくらいの、途方もなさなんだよ、わかるでしょ? いいや、いいや、俺はいつでも、どんな空の底と思われたものさえ、あっさりと晴れ渡ることで、ああこの世界の底の底の底のなさを、どんな風に実感させられることもある、と覚悟はできているつもりだけど、彼の座っているとするその底はどんなところなんだろう、そこでは兄弟という語は、どんな意味も持つのか? もう言葉はなんの意味でもなく、差異でもない、それはひとつの抱きかかえ合った混沌でしかないのじゃないか? いいや、存分に俺は迷子になりそうだよ、つまり、俺が言いたいのはね、あの人がここでは、俺の先生というわけなのさ、俺にその底のなさを思わせてくれるね、たまにああして英気を養う必要があるんだ、彼にとっても何が減るわけでもないだろうし、ああ、あんな風な、確実にそれがある、と思える一世界に触れることは、それだけで言いようもないほどの幸せなんだよ! なあ森林浴、どうだった?」
「どうだった、もなにも、いやあ、岩のようでしたよ、こちらからじゃどのようにもアクセスできないというか、いいや暴力的になら、対話は可能でしょうが、それでさえそれほど人間的な交感とも呼べないものなんじゃないかなあ、と」
「そう? まあそんなところだよなぁ~」
 葉子がそう言うのも、それほど森林浴の返事が満足なものだったからなのか、それともどんな返事に対してさえもう興味を持てないのか、まるでわからないのだ。それでも今更葉子のそんな気まぐれに振り回される森林浴でもないから、葉子が首を忙しく回して声の聞こえる方を見やるのに、控えめに寄り添う。
「ああ俺は、あんたに他にも人を紹介してあげたいと言えば、そうなんだけど、それでもあの詩人ほどの人は、いくら何でもそうそういるもんじゃないしさ、ほら見なよ、みんな日の光が好きなのか、こんな時間には外に出る人も多いけど、なんとなくというような散歩や、ちょっとしたスケッチや、簡単な手遊びに夢中な人らがほとんどで、まあ彼ほどなんと言うか、目が完全にその内側を向いてるような人は少ないよ」
 確かに、グラウンドには疎らではあるけどそれなりに人の姿があった。それを見ている限り、森林浴には、ここと昼下がりの公園との、どんな違いもわからない、いいや、違いなどないのだろう、ただ葉子さんがそうであるように、いいや、いつかそんな風に言っていたように、ちょっと日常とは違う時間を泳いでいる、ときが多いというだけのことであり、人によっては日常の世界へのただ帰ってき方を忘れたか、世界とのつなぎ目が切れてしまったか、始めからあっちの時間の住民だったか、ということなのだろう。それじゃあ葉子さんは? 息を飲んで、森林浴が隣を歩く葉子に視線をやると、素早くそれをさっちしてすぐに見つめ返す葉子なのだ、それから、どうしたの? とやさしく問うように目に光を招き入れる。
「いやあ、葉子さんは、忙しい人だなあと思って」
「そう? 俺が?」
「そりゃあ、一人でじっとしてる時間も多いんでしょうけど、外に出ると、キョロキョロするじゃないですか、いつも」
「そうなの? 俺としては、あの詩人の彼のようにも、どっしりと構えてるつもりでいるんだけど」
「いいや、その反対ですよ、挙動不審なくらい、そんな風に思ってるんなら、多分自分で見たら、ちょっとがっかりすると思うなあ、だって落ち着いてるとかクールとかそんなんよりは、鳩みたいなんだから。ははは、書いてるときは知りませんけどね、そう言えばあなたがずっと家に引きこもってるんで、みんなが騒いでたときがあったっけ、あのときの目の動物っぽさは、確かにちょっとあの人に似ていて、葉子さんが親近感を抱くのもわかる気がする」
「ああそう。それにしても、楽しそうに俺を笑うねぇ、あんたは」
「いいじゃないですか」
 と言いながら、なお森林浴は、ははは、と笛を吹くように笑う。
「静かなんだぜぇ、ここは、それが取り柄だよ」
 葉子の言うことが皮肉なのかはどうかはわからなかったけど、森林浴はすとんと笑い止むと、何事もなかったように応答する。
「そうでしょうね」
 人はいるというのに話し声はほとんど聞こえない。あるのは、風が木々を揺らす音、また、グラウンドを擦る靴の音や、咳の声が聞こえる、鳥の鳴く声、風が集まって鞭打つように物の形を叩く音、犬が吠えるように印象に引きずられない誰かのただの叫び声、空を飛行機が飛んで行く音、どこかで蛇口から水の流れる音も。
「ああ、本当に、退屈なくらい当たり前のものばかりなんだよ、ここには、何も変わったところなんてない、ただ昼があり、ただ昼があり、ああ、圧倒的に、時には押しつぶされるほどと思えるくらい、ただそれがあるばかりでさ、それがあるのだ、ただそれが、太陽と同様に君臨していて、他には何か? いいや、それが君臨するということは、それの天下だ、他には何もないよ、いいや、すべてがあるんだ、ただそれらすべてが、当たり前のことであり、ああ俺は驚かないことに驚くくらいなんだよ、ここはなんて当たり前のところなんだろう、あんたも入ってみりゃわかるよ」
 森林浴は何か言いたいことがあるようでも、それを構えて葉子の心象世界へと踏み込んで来はしないで、ただ、そうですか、と言葉を諦めてしまうので、葉子は少しからかうというか、驚かせてやるように、
「だけどそれは、あんたらが俺をそう判断したように、俺もひとりの、ここの人らと同じようなバカだからそう感じるってだけのことなのかもね」
 それでも森林浴は、特に驚いた様子を見せるわけでも、声のトーンを荒げることもなくとうとうと返事をする。
「誰も、あなたを狂人だとか思ってるわけじゃないですよ」
 森林浴のその言い方が、どうしようもなく葉子を安心させるというか、敵でいられなくさせるものだったから、葉子は好戦的なのをやめて、
「じゃあ、俺は、いつになったらスポーツと読書以外にもやらせてもらえるのさ」
「例えば? 何がしたいんですか?」
「う〜ん、暴力、やりたくもない飲酒、スピード違反、あはは、いいえ、俺にはなにも思いつかないや、ここにはなにがないって言うのさ!」
「でも、わかりますよ、葉子さんがここを出たいのは、そりゃあ当然だ」
「いいや、俺はここにも帰ってきたいよ」
「そうですね」
「内と、外、それが俺には邪魔だ、つまりあの、門が」
「いつでも出ようと思えば、出られるでしょ?」
「ささらが認めてくれればね、なんせ今の俺には、ここを出ちゃえば生と死の境目さえも曖昧なくらいなんだ、俺はここで十分に分断線というものを学んでるんだよ、ささらは元気? ああ、ここにはささらがいない」
「さあ、見たところ、普通ですよ、美雨さんが付きっきりだった頃もあったけど、今は普通に仕事にも行ってるようですし、変わりません」
 葉子がにっこりと微笑むと、そのやさしさに対してようやく餌をあげられる飼い主のようにも、森林浴は目で笑い、
「葉子さんがいない以外は、ですけどね」
と付け加えるのだ。葉子はちっと冗談っぽく舌打ちをする。それとも、本気で恨めしいのか、こんな恨み事を続ける。
「それで、俺はいつここを出られるんだよ、金もバカみたいにかかるんじゃないの? なんせいい暮らしなんだよ、ここのは」
「葉子さんが本気で出たいのなら、というのはまあ、あなたがダダの限りを尽くす、ということですけどね、そしたら、すぐですよ」
「でも俺は、出てもまだしばらくは実家で暮らすってことだったでしょ?」
「そうですよ、すぐに、ささらさんと暮らせると思いますか?」
「俺は思うね、あんたも、本当はそう思うでしょ? 思っていない奴なんて、本当はどこにもいないはずだよ、ささらだって、俺がもう平気だってことくらいわかってるさ、いいや、俺がこれまでも平気で、これからも当然平気だってことくらいはね。俺はただ、あの夜ちょっと気が変になって、それも、ちょうど俺が許した分だけ俺は変になって、目分量で測られたきっちりと数メートルのところから、きちんと見えた川底に、あるいは、死へと、俺は飛び込んだだけなのだ、本当にそれだけのことなんだからね。俺は変になってなどいないし、だからって俺の正常さがあれを繰り返すわけでもない、何かを学んだわけじゃなくても、別にもうあんなことはしないよ、と俺にはっきりとわかっているし、あんたらがそれを望んでいることだって、しっかりわかった、だからもうあんなことにはならないんだよ、絶対にね」
「あなたがどうしてあの日飛び降りたのか、もっとはっきりと説明してくれたらなあ、いいや、わかってるんですよ、はっきりとしたひとつの理由があるなら、あなたはあんなことしなかっただろうっていうことは、だからそれが怖いんですよ、あなたに関しては、いつ何が起こるかわからないってことが、ささらさんも、それを無視するわけにはいかないんです、誰よりもあなたを死なせたくないのが、あの人なんですからね」
「わかってるよ、わかってるよ、一度手を噛んだ愛犬が、再び愛を得るのには時間がかかるってことも、そんな比喩がこの場合にはまるでそぐわないんだってこともね。ささらは俺のことを考えてくれているのもわかる、俺がきっかけさえああればもう一度、実際のところ、飛ばざるを得ないということも、全部分かったうえで、ああ俺は、もう大丈夫だと今の俺が言う以上は、絶対と何の嘘もなく言うしかないのだし、実際に、それが絶対でないことなどありえないのだ、あんたらが俺を生かしといてやりたいなら、あんたらは俺を生かすしかないさ、という簡単な問題なんだ。いいや、それでも、なんにせよ、俺はなにもみんなを攻撃したいわけじゃないさ、俺が攻撃されたとも思ってない、単純に俺はあんたらの好意を、それはそれは大人なやり方で受け入れるために、あんたらに俺が、そんなに子供ではないとわからせてやるためだけにでも、ここにこうしてじっとしているのだしね、俺はあんたらをどうかするよりは、跪く方を選ぶよ、俺はささらのことを愛しているし、言うまでもなく、どんな疑いさえもなく、あんたらが俺を狂人と思ってるなんて、そんなことは思わないさ。それで、俺が、どうして飛び降りたか、だったっけ? ああ、どうしてだったかなあ、そんなに悪い気分ではなかったはずだよ、いいや、今では本当を言えばあの頃の気分なんてすっかり、魂ごと抜け落ちたように、俺にはその俺が、一番遠くに思えるというほどで、なんのことだったかわからないというのは、夏には信じられないほどあの冬の寒さも遠いように、俺にはまったくあれがなんのことだったのか、思い出せないんだけれどね、でも、こんな調子じゃどうやらあんたらは俺を許してくれないみたいだし、いいや、まあ、集中力がそれを引き上げることはできるだろうけど、こんな天気じゃあ、ねぇ?」
 *
 いつの間にか、二人はグラウンドの真ん中で立ち止まっていた。葉子が、あっち、とわざとらしく指さすと、はい、と森林浴が答えて、二人はようやくテニスコートを目指し始める。グラウンドの一番奥から、三段分低くなっているところに芝のコートがある、葉子はそれをひと足で飛び、見せびらかすようにも振り返っては、あはは、悪く思うなよ、と言うように森林浴に笑いかける、森林浴は別にどうということもないのだろうけど、なんとなく心に悪いものは目に入れたくないというようにそっぽを向きながら、ポケットに手を突っ込んで一段ずつ階段を降りて行く。
 二人はさっさくネット越しに向かい合うと、簡単なラリーを始める。初めはグラウンドを散歩するような、何でもないことだと思っていても、ボールを運んでいると、どうしても熱中するし、強い球を打ち返してみたくもなる葉子だったし、それに振り回される森林浴も、葉子がその気なら、いつまでも振り回されているわけにもいかないのだ、会話することも忘れて、二人は大型犬でも散歩させているような、お互いの下手なボール運びに振り回される。足取りと同じような、不安定さでふふふ、と笑い、決めにいったボールをポーンとコートの奥に外してしまうと、ごめ〜ん、と相手の背中に声を投げかけた、葉子は森林浴がボールを追いかけるのを見つめながら、汗を拭いとり、ワンピースの裾を持ち上げて団扇のように仰ぐと、再びそれを下ろして、屈伸をしてみせ、森林浴がサーブを打とうとするのに構える。森林浴が下から弱いボールを打つと、葉子は走ってコートの前に出る、片手でワンピースの裾を膝の上に押さえつけながら、片手だけの手打ちでホイっと森林浴のいないところにボールを落とすと、森林浴も前に出て必死に腕を振り、ボールをポーンとコートの奥に返すので、葉子は笑いながらワンピースの裾を離してコート奥まで急いで走り、体を思いっきり捻りながら半身の姿勢で、無我夢中に相手のコートにボールを打ち返すと、やっぱり無理な姿勢だったようでその勢いのままコートの中を転がることになった。砂を払いながら相手のコートを見やると、森林浴がやるなあと言うようにこちらを見つめながら、ラケットの杖にもたれかかっているのが見える。
「入った? 今の!」
「入りましたよ、すごいなぁ」
「あはははは! 俺はこんな服を着てるんだよ!」
「はい」
「まだ降参しないの?」
「休憩しましょう」
「ああいいよ」
 そして二人はラケットをその場に置くと、コート脇のベンチに並んで腰掛けた。葉子のワンピースがひどく砂にやられているのを見て、森林浴が、怪我は? と訊ねると、葉子はちょっと擦ったと言いながら無関心そうにあちらを見やる。
「ああ疲れた、煙草持ってないの?」
「ありますけど……」
 森林浴は口ごもる。
「いいんですか? こんなところで」
 そう言いながらも、手にはもう煙草のケースが握られているのだ。
「ダメなんてことは、ここにはひとつもないんでね」
 葉子はケースから一本取り出すと、森林浴に火をつけてもらう。旨そうに煙を吐いている間に、森林浴も自分のに火をつける。
「確かに、いいところかもなあ、葉子さんが出たがらないのも、わかる気がする」
「俺が出たがらないって? いいや、俺がここを結構好きだというところまでさ、言えるのはね、実際あんたも入ってみればわかるだろうけど、ね、どんなところであろうと逃げ出したくならないところなんて、俺にはひとつもないさ」
「でも、逃げないじゃないですか」
「はん、それはあんたたちのせいじゃないか、と言って俺はこんな議論からならいくらでも逃げられるけれど、まあいいや、ねぇ森林浴? 俺にだって、たまには羽を休めることくらいあるさ」
 ゆっくりと足を伸ばしながら、葉子はあれを取ってきてよと森林浴に言う。
「ラケットとボールをさ」
 森林浴は素直に立ち上がり、歩いて行く、ボールとラケットを二本とも回収し、葉子の元に戻ってくると、葉子は貸してと言って森林浴からラケットとボールを受け取り、その場で座ったままサーブを打つようにボールを投げ、ベンチの端からこぼれる手を大きくスイングすると、思い切りボールを空に打ち込んだ。フォロースルーがベンチの角にぶつかり、痛っと葉子が動きを止めている間に、ボールは病院の敷地を超え、向こうに見えなくなった。
「なんて簡単なんだろ、ここを抜け出すの。でも俺は、ただここを抜け出したいのではなくてね、俺は、自分でさっき言ったようには、あらゆるものからただ逃げたいものなのではないのだ、俺はささらのところにまた帰らないといけないのだから、俺にはここを抜け出すだけでは、なんにも意味がないんだよ、わかるかな? だから俺はあんたにだって何度も言ってるでしょ? ねぇ、いったい誰が俺をここから出さないように仕向けているわけ? 久保? 美雨? まさか、ささらなの?」
「誰でもないですよ」
「それじゃあ、誰?」
「先生が言うには、あなたはまだ相当な御乱心というわけなんですね、まだ安定していないとそんなことを言うから、先生ですよ、それとあなたの両親が、どうしても治るまであなたを出したくないらしい」
「ああそうか、だけどね、ああ残念だけど、この俺の見ているものがただ狂気と呼ばれてしまうなら、あの先生は、俺が、だったら、あの人の前でどんなに正気だと言ったとしても、俺が気狂いの地面の上に立ってるとされてる以上は、ああ、どんなプラスにもマイナスが掛けられて大きな狂気というわけだ!」
「だから、僕は言ってるでしょ、あなたは早く逃げた方がいいですよ、どうせ、出てしまえば、それで終わりなんですから、何もこんなところは、夢の迷宮でもなんでもない、不条理にも満たない箱庭なんですからね」
「そうか、それじゃあささらは、別に俺の正気のことを疑ってるわけじゃないんだね?」
「疑ってませんよ、誰も、あなたには安静にしていてほしいだけです」
「え? いったいどっちなのさ、俺がここを出るべきなのか、出ないべきなのか、いいや多少の血の流れくらいはいいさ、だけど、誰が泣くことになるか? これが問題だ、それがささらなら俺は嫌だよ」
「さあ、出るか出ないか、そりゃあもちろんあなた次第ですけど、あなたが出てくれば出てきたで、普通にことは進むんじゃないですかね? 嬉し涙でも嫌ですか? 少しでも後ろめたいのなら、迎え入れられることも嫌?」
「いいや、だったら俺は出るよ、こんなところ、おい、明日車で来いよ、いい? 正門横に車を止めてね、クラクションでも鳴らしてくれれば」
「あなたの両親が、ちょっとうるさいかもしれませんが」
「両親? ああ、うるさすぎて、俺はわざと無視してたのに! え? いったいあの人たちがなんだと言うのさ!」
「その人たちが、あなたの入院費を出しているんですよ、まあ、出て来てすぐに、あなたがささらさんと暮らすなんてこと、あの人らは認めないでしょうね」
「俺を何歳だと思ってるんだよ、いいや、親離れはするさ」
「で、入院費は?」
「お前までそんなことを! ふん、あいつらの好きで俺を入れたくせにさあ、上等な鎖を作ったもんだ、自分らの首を吊るすのにも十分なくらいの、貧乏なんだよ、うちはね、ああ、いいよ、いいよ、そのことについては、出てから考えることにするよ、とにかく俺は金を返せばいいんだね? いいさ、何に振り回されようと、最終的にあの家にたどり着けるなら、ねぇ、ささらと住むこと自体は、どうなのさ、もしも何もかもが収まるべきところに収まったら、そのあとで、ということだけど」
「さあ、そういうことなら、賛成してくれるんじゃないですか? お二人とも、ささらさんのことは信頼してるようですし、ただ、葉子さんが迷惑をかけないかどうか、というのが二人の悩みらしいんです」
「迷惑なもんか! 例え迷惑でも、迷惑以上の迷惑だ! いいや、何でもないさ、そんな迷惑は、どこ吹く風だ!」
「そうですか?」
「そうだよ」
「それじゃ、明日でいいんですね?」
「うん、あのね、お前は今日と同じ時間にきてくれよ、俺は中の友達と話さなくちゃいけないからさ」
「わかりました、それじゃあ二時で」
「ねぇ、電話を持ってない? ささらにかけたいんだけど、なんたってささらは、来てくれないしさ!」
「仕事中ですよ、出れないんじゃないですか? それに、僕は、持ってませんよ、受付で預けてきました……一応言っとくと、来れないのはあなたが来るなと言っているからですよ、わかってるとは思いますが、一応」
「ああそう、そうか、そうか、そうか! それじゃあ、余計に明日からが楽しみだ!」
「はい、それじゃあ、気を付けて」
「はいはい、またね」
 *
 葉子はベッドの中で本を読んでいた。霰に借りた本で、残りはあと数ページと言ったところだった、葉子にはどこにどんな言葉が書かれてあるか覚えてしまったというほど繰り返し読んだ本なのだ、だからこのときも、油断して次の言葉が葉子を刺すことも誘うこともないと思っていたそのときに、ひらりと薄い紙一枚が葉子の膝上に落っこちた。開けるとそこには霰の字で、ああここにはパソコンなんていいものは置いてなかったから、小説を書くとき霰はいつも手書きだったのだ、見慣れた字が、
「ここにはないものが、わかりました」
 と言い、葉子は頭を捻るのだ、ここにはないもの? そのとき夕方の診察のために部屋のドアが叩かれ、葉子は手紙を布団の下に握ると、喉に力をこめて、どうぞ、と返事をした。医者は部屋に入ってくると、まず葉子の膝上に閉じられた本を見つけ、にっこりと微笑んでから、体調はどうですか? と当たり障りのないことを言った。
「なんともないですよ、今日というものなどないというくらい、なんともないです、つまり、俺の言いたいのはね、今日などと言ったような色で、時間が区切られる必要などないということだけど。今日は何曜日ですか、今は何時ですか? あはは、面白いや、なんて無意味さなんだろう! あんた、昨日の夕飯は何でしたっけ?」
 葉子は、医者が手元のボードに何かを書きつけていくのを見つめる。
「あんた、何を書いてるんですか? まさか僕の言ったことを? 何かに役立てようとでも? そんな熱心な読者は、これで何人目だろう! なんせ僕は作家なんでね、外には僕のファンだって、立派に数えられるくらいの数は、いるわけですよ、あああんた、こんな妄言を集めてどうする気ですか? ちょっと今は、気分が変なんですよ、いいや俺は何もあんたに相談したいのじゃなくてね、気分が変なんだ、ごく当たり前に起こり得ることとして、気分がちょっと、ね、人と話したい気分なんです、昼間森林浴の奴が来たから、ああそう言えば、ささらを俺が面会拒否にしているって、あれは、取り消しといてくださいね、自分でも忘れていたんだ、いいや、それは嘘だけど、ああささらも、ここに来ればいいのさ、昼間人とあんなに話したんで、ああそうでなくても俺はあんたとこうして一対一になると、いつもこうなりますね? なんと言うか、俺はアライグマみたいに必死になるんだな、あんたから言葉を取り返そうと、あんたから真実の俺、でもなく、生れるまでの俺を取り返そうと思って、ああ名付けられるまでの俺を! でもまあいいや、ほら、もう出ていったらどうですか? そうだ、そうやっていつものように、正気の次元から俺を見下ろすようにさあ! 俺はここの連中を見ていると、いつも、どうしても首を傾げたくなる思いなんだ! いいや、誰が悪いんでもない、なにか物足りない、いいや、欠けているのでもなく、なにか前提的に、見逃されている、数学の簡単化された問題のように、それをないものとされてしまっている」
 医者は葉子の言い終わるのに随分と遅れて、その手の動きを止めると、
「ささらさんのことですが」
 と処方箋の説明をするように言うのだ。
「ささらのことだけど!」
 葉子がわけもわからず苦しくて身をよじると、医者はにっこりと笑うのだ。
「面会拒否は解除してよろしいのですか?」
「ああ、だけどくれぐれも、両親だけはまだ迎え入れないようにお願いね、それと怪しい車がやってきて俺をさらうようなことには、しないでね」
「こちらとしましては、前回の面談の際の様子を見る限り、とても面談可能とは思えないのですがね」
「いいや、いいや! 俺が誰と会いたくないって? いいからここを出ていきなよ」
「はい、お休みなさい、夕飯はおさげしてよろしいですか?」
「どうぞ、どうぞ」
「あとで看護師が一人やってきます」
「こちらからは夕飯の方を使わせます」
「お休みなさい」
「安らかに!」
 *
 夜になってさえ、眠れずに葉子はくっくっと笑い出す、どこかでカメラがいつも俺の部屋を見ているのだ、と思えば思うほど笑うのをやめることができずに、ああ、肺がひっくり返ってしまいそうな夜なのだ、そうだ、夜なのだ、消灯時間もとうに過ぎ、月の盆が逆さになり酒をこぼして、町中が気狂いになってしまったというほど濃く沈殿してる! 葉子はこの夜に、ああ俺たちだけがそれを見ているのだと、心の底から思う。心の底、それはどこか? ああ葉子はベッドを抜け出す。
 *
 院内には電気の一つもついていないのだ、しかしガラス窓に手を引っ付けて歩けばそこにたどり着くことができるだろう、そこには月明かりが射している、あああとどのくらい時間があるだろう?
 *
 そうだった、ああ俺はそれが嫌いだった。休日には面談が出来ないのに、一年目の会社を休むことも難しいせいで、仕事終わりに汗だくでここにやって来て、たった三十分だけの時間を、それもすべて俺を励ますためだけに使ってしまうあんたを見ることが! 俺はいつもあんたが帰ったあとの夜は、眠れないんだよ、この病院には、夜などないというのに! まるで巣くうものなど、執着など、闇など、我などないというのに、それでも俺があんたと会うと、もうその日は眠れない、ただ消灯後の、ない夜である、穴に落っこちてそして目を閉じるのだ、ああ、もう俺は眠くもないのに目を閉じるのは嫌だった、もう俺は自分が自分を殺すことなどは嫌だった、俺はただ朝も昼も夜も、ただ俺は太陽でも月でも、ただ散歩でも傑作でも、ああ裏と表? 心と体? 俺とあんた? ああ、俺というのはひとつの言葉なのではない、ひとつの呼び名なのではない、時間は単調にただ一色にただ真っすぐに、流れるものなのではない、宇宙にはひとつの方向だけがあるのでも、ひとつの運動だけがあるのでもなく、ああ、開けというのはそうだ、それは開けの、その口に留まるものなのではない、そうではなく、ただそれは永遠に現在的である未来であり、未来の永遠の約束なのだ、俺がそれを忘れるなんて! ああ何を? いいえ、夜を。俺がそれの訪れることを嫌うなんてさ!
 *
 俺はその夜飛んだのだ、飛んだんだよ、ああ俺には最後にしておきたいこと、なんてひとつたりともなかった、死が俺を一色に塗りつぶしたそのとき、俺の景色はただ壁色のグレーで、たった一回であったこの生が最後にそのすべての差異を鮮やかに彩らせる、ようなことなどもなにもなく、俺はただ早く俺の形を歪めるものたちからの逃走を果たしたいと思うだけだった、なにもこの生に付け加えたいものなどなく、なぜなら俺のこの生はこの俺に考えられる限りまったく完全なものとして俺に与えられていたのだから、ここの人らのようにね、そしてその俺こそがその生を下からひっくり返して台無しにしてしまうと決めた張本人だったのだから! 俺にはこれ以上ここに欲しいものなどなにもなく、ただもう少し世界が俺と食い違うようではなかったら、複雑で無かったら、俺に俺以外についての要求が少なければ、そのときはどうなっていただろうと時折夢を見るように考えることがあるくらいだった、だから俺はそのうち死ぬだろう、すでに死んでいるのと代わりのないこの身なのだ、悔いはないというよりも、その悔いさえも立てるためのこの世界などもはや存在していなかったのだ、ああ俺はもうすぐ死ぬだろう、ただその時がくれば俺はこんな風に虚脱したままでも、連れ去られるように死と出会い、それっきりだろう、ああそれは、なんてこの俺が投げやりだからといって、しかしこれだけは完遂されなければならないのだ、どうして俺が死ぬというそのことだけ純粋に要求するのかと問われれば、俺は俺のこの生をこれ以上台無しにしてしまわないためにこそ死ぬのだし、いいや、俺は死ぬのではない、まず俺は生きてさえいないし、俺が死ぬのは俺がこの生に飽き飽きしたからではなく、たんにあんたらの手に俺のこの生を汚されるのはもう懲り懲りだということに過ぎないので、俺は生きるためにこそ死ぬだろう、もはや、より良くなどと言うためのスペースさえ残されてはいない、それほどあんたらは俺のための空気を悪くしてしまったので、俺はもうより良く生きるためにと言うことさえできず、俺はせめてよりマシな方に傾くために死ぬだろう、いいや、それでも、それだから? それでも俺が死ぬのはやっぱり俺のせいなどではないのだ、俺が死ぬのはあんたらが俺のこの生を、さまざまな義務の手で奪い取り、俺にあるはずだった道を壊し、挙句の果てに俺のこの姿に汚らしい色を塗りたくろうとしてきたからなのだ、それだから俺は自分で自分を死なせるのではなく、俺はあんたらに殺された俺の生も、せてももう誰の手も届かないようにとこの手で蓋をしたいというだけなのだ、そこにはどんな破壊もなく、ただ俺はいつの場合にもあんたらからこの俺というものを、この俺という世界の完全性を守りたかっただけなのだ、だから俺は死ぬのではなく、俺を殺したのはあんたたちなのだし、俺としてはただこの死体でも大切に誰の手にも届かない場所に置いてやろうという死人の幽霊じみた放浪を放浪するだけなのだ、ああ、だから俺のことをもしも、あいつは死にたがりだったとか、あいつは生きることに愛想を尽かしたのだとか言う人がいるなら、ああそれだけはどうかやめてほしいのだ、俺は何より生きることを望んでいたし、ただあんたらの手が俺の、この自然のままの生の自然を、完全に破壊してしまったので、俺はあんたらの死から逃れるためにこそ死ぬのだし、最後まで俺が死の味方をしていたなんて言い方は絶対にできないのに決まっているのだ、ああ最後のとき俺が頷くのは、ひとえに生のためであるし、もしも純粋に死なれた死などがあるのなら、その死は生の味方をしているのに違いない、いいや、この世にはただ巨大な生である以外のものがあるはずもなく、それだから死によって生を逃れられるとかそんな風に考える奴がいるなら、今回の問題どうこうは置いといてそれは間違いなのだ、完全に死なれた死などはない、人は生から死へ彷徨うものだし、服毒後の二階から一階への放浪の中に、この人生と似ていないどんな現象もありはしない、あんたがもしも刑務所へ自首しに行く最中だとして、今日見た風景が、匂いが、音が、やけに色めきだっているのだとしたら、やっぱり死はどんな風にも生をすり減らすものではなかったのだ、あんたの生は、それがどのような状態にあろうとも、絶対に完全に生きられる、時が足りないなら生はその大群を一度に寄越すし、臨床の老人の満足などというものがもしもあるのだとしたら、そのとき彼の世界は完全に止まっているはずなのだ、ああだから、俺の世界もこれでもう止まってしまった、あんまり早く巻きすぎたビデオテープのように、俺の人生はそれにしても貴重すぎたのだ、俺の終わりがこんなに早く来るなんて、ああだけど俺はこれを、受け入れる受け入れないなんて二択とは別次元のところで、飲み込むよりも他にないのだ、いいや、もし仮に俺がそれでもなお生きたいと願うとすれば、ああ生きることはいつでも、それが時間の背中におぶられることなのだとしても、歩くことだったのに違いない、しかし今ではもうその道が途切れているのだ、だから俺は最後の一歩を歩くことで死ぬ、だから俺は死ぬのではなく、生きるのであり、俺はこの一歩を踏み出す、後悔など入り込む余地があるはずもなく、俺はただ、完全に見回してもどこにもやり残したことなどないので、綺麗に死んでしまうのだ、俺は生の最後のものとしてこの死を付け加えることで、この生の完全さに蓋をしてやる、ああしかし俺は溢れ出るものの存在を忘れたというのか? 今頃になってまた、天使の歌声が聞こえ始めたというわけか? ああ、世界はついに、それが止まっていてもなお止まらないものなのだって? ふん、そんなこと俺が一番よく知っているのだ、しかし俺に声を聞こえさせなくしたのは、あんたらの丈夫な壁であり、それならば俺は毅然としてそれとぶつかろう、正面からミンチになって散り散りになったあとの、あとの、あとの宇宙ででも出会おうよ! 俺はなにもこの死を死に切れると思うものじゃない、俺はただ死ぬのだ、俺にはこれ以上この俺が裏切られ続けるのが、我慢ならなかった、俺はこれ以上あんたらに俺を奪われ続けるくらいなら、ああこの生の完全な破壊がなされるくらいなら、それを綺麗に取っておく方を選んだというわけだ、それなので俺の恨み言も、こんなに長く曖昧なものになってしまったけれど、ああそろそろ時間がやってくる、いつまで続けても構わないが、あんまり無益なので見切りをつけて傾き出した太陽のペースに合わせて、あんたら全員の瞼の閉じと同じようにごく当たり前に、眠りは顔を出した、太陽は月に裏返り、この巨大宇宙のあくびの間に、波打ち際を突く小鳥たちのようにもせせこましく文明を築いた我らも、そろそろ太陽の極小の懐に仕舞い込まれるときがきたのだ、ねぇ、眠ろうよ。
 *
「俺はその夜飛んだのだ、飛んだんだよ、そしてここにやってきたことは、まさしく必然だったんだ! 俺は夜を忘れていた、あの夜のことを、俺は思い出したよ、ああ一日には昼と夜とがあることを、さ、ついにどちらの側につくことさえも叶わず、俺はいつでも俺を裏切り続けなくてはならないのだと、現在を、絶えず脱ぎ捨てて、歩かなければ真っ白な過去の虜になってしまうのだということを! ああ日は回る、昼が落ち、月が落ち、もう何度目だろう、何度目でも俺は回るのだ、ああ、永遠の徒労よ、責め苦よ、それでこそいいのだと、俺は、今度こそ思えたし、今度もまた、絶対に裏返らない日などはないんだよ! ねぇだから、俺はまた死に、また起き上がり、俺はまた死んでやるだろう、ああ今夜はなんて空高く風が鳴いてることだろう! 雨粒さえここには届かないみたいだ、風にやられてガラスにへばりついてる」
 見上げれば、確かにそれを聞くことが出来た。風が建物の上を渦巻いて、葉子を誘いに来る天使のようだった、雨がざあざあなっていて、女の涙のようだった。ああ、しかし月明かりは、真っすぐに、底まで落ちていたが、今夜の月の瞼ももうすぐに眠りにつきそうだった。
「ねぇあんた? 難しいことは抜きにして、簡単な考えごととも言えない、ひとつの選択を、単純な指し示しを、しよう。あのね、俺はここを出ていくことにした、理由は、あると言えばある、しかしそれはいきなり現れたわけではないし、それに形があるのかと問われれば、ありはしない、だからどんな風に言っても誰も納得しないばかりか、うんうんとわかった風に頷く奴らはみんな詐欺師なのだ、俺はむしろわからないとガラス一枚隔てた遠くで微笑んでいるようなあんたの困惑とも受け入れともつかないその感じをだけ支持するのだし、と、まあ、こんな前置きはいいとしても、あのね、俺はこれからここを出て行くよ、それはもう言ったっけ? 何も、ここが悪いわけじゃないけど、俺には金がないんでね、それに俺は、出てかなくてはならない、もうそれを言うための時間もない、ねぇあなた? 俺は作家なんだよ、ああ俺は一人の人間なのだ、一色にまみれたものでなく、切り売りされた希望でも絶望でもないものだ、俺は絶望に抱きかかえられた希望だ、ああ火の輪を潜るライオンへの喝采さ、それが俺だ、ああ、俺はなにを言ってるんだろう? あのね、俺は昨日俺があんたに話した海のイルカのためにここを出て行くのではないし、森林浴と飛んでいったテニスボールのために外に出たいのではない、俺は外に出たいのでさえないし、俺はここに残りたいわけでもなければ、ただこんな生活がいいというわけじゃない、いいや、あんたはだからもう俺の言うことを素直になど聞かなくてもいい、ということにさえならないんだ! いいかな、よく聞いてね、何度も言うようだけど、俺はここを出てくよ、ねぇ、あんたはどうする? 俺と一緒に来ない? あんたには、ここだけじゃ足りないでしょう? 何てったってここには、ねぇあんた、あんたが言うように、夜がないのだし、ああ完全性には不完全性が欠けている、だからそれはいつでも未来の永遠の約束のために、取っておけよ、ねぇ、あんたはまだ、何と別れるのが惜しい?」
 葉子は、自分の目が、人に恐怖を与えてしまうくらい、熱を帯びているのには気づいていた。霰がそれを怖がるのも。しかし、霰はそれを怖がってなどいないということも。霰は、にっこりと笑って、それからだらしなく顎を、ぶらんと置き去りにして、夜空を見上げる。それからまた葉子の目をじっと見つめると、長い宇宙旅行から戻ってきたというように、遠い時から、
「私も出る」
 と言った。
「でも、自分の足で、いいや、葉子さんの足が私の足じゃない、なんてことはなく、その手を取れば、その手が私の手じゃない、なんてことはないとわかっているけど、私は、まだ少しだけここにいたいです、それは、本当は、怖いからかもしれない」
 そう言うと、霰は葉子に、紙切れを差し出した。そこには霰のフルネームと、携帯の番号、それから部屋番が書かれてある。
「ああ、もっと早くにそれを知れれば、ここにも欠けているものなどなかったかもしれないのに」
「いいや、葉子さんは、出て行きましたよ」
「どうして?」
「さあ」
「ふぅん」
「ねぇ、葉子さんの小説、送ってください、葉子さんとじゃ、いつ何がどうなるかわからなくて、怖いけど、葉子さんの本なら、それは信じられるから」
「ああ、いいよ、本も送る、面会にも来てあげようか? ねぇ俺は、いつこの番号にかければいいの?」
「わからない、けど、近いうちに、繋がると思う」
「あんたの妹が、助けてくれる?」
「私は私の足で出ます、本当にそれを確信できたときに、でも、絶対に」
「絶対に?」
「はい」
「ああ、そうか、それじゃあ、俺は行くからね」
「はい」
「あ、そうだ」
 葉子はそれを渡し忘れたというように、右手を差し出す、霰はそれを取り、堅く握りしめる。
「このまま引っ張って行ってやろうか?」
「でも、葉子さんなんて、私より弱いくらい」
「あはははは……」
 実際に、葉子がどんなに霰を引っ張ろうとも、びくともしないのだ。
「飯もろくに食ってない生活だったから」
「外では違うんですか?」
「あんた、外にはそれはそれは美味い食い物が……」
「ふふふ、知ってますよ」
 霰は端から崩れていくクッキーのように笑う。
「俺は作家なんだ!」
「それも、知ってます」
「あんたも作家さ、ひとりの、人間だ、天才さ!」
「はい」
「よし、絶対に?」
「はい、絶対に、です」
「ああ、絶対に、約束しなよ、あはははは、この潰れた小指でなんて、ケチなことは言わずにさ、握手を、握手を、もっと強く握れよ、ね? じゃあね、ね、それで全力? あははは、俺を殺すくらいに強く! ねぇ、じゃあね、ばいばい、小説を送るよ、俺はやれるところまでやってみるさ! 殺されるときまでね、また俺が死ぬときまで、頑張るよ、ああもうなにも俺の中には、死体しかないという荒野にまた立つときまで、ねぇ、死んでいるのはなしだ! 俺はようやくわかったんだよ、ああ、俺は死ねばいいのだと、死が俺を抱き抱えているのだと、俺は死ねばいいのだ、またここに戻ってくればいいんだよ、もしもそのときは、ね、そのときがきたら、そのときだ、ああ俺を殺すものよ、だから俺は俺が俺を殺すのは、もうなしだ、俺は今、死の内側にいて、ここでは死はなんて問題外だろう!」
 *
 そして葉子は再び夜の中に帰る、ああ、ここはどこだろう、煙草を手に掴み、サンダルを引っ掛けて歩く、外には風が吹いている、雨も。雨は、風に足取りを取られている、頼りなげに揺れながら葉子に責任を押し付ける、ようにべったりと付着する、葉子は吹かれ葉子のワンピースは捲し上げられる、葉子は高架下に急ぐ、そこでなら、まずは雨を凌げる、しゃがみ込み、なんとか火をつける、葉子は煙草を吸う、すくっと起き上がって未だ悪夢にうなされたような街のグレー一色を見渡す、舗装されない地面のあらゆる窪みの中には、水の鏡が貼っている、空と見紛うほどの透明さ具合、そこに光が落ち込んできらめく、笑うように、聞かれることを喜ぶ占い師、のようにご機嫌に反射する雨の鏡は、地面に穴をあけたようなのだ、雨は穴のようだ、空はずらぼろにされたみたいだ! ああ空に落っこちる穴が、葉子は、咳き込みながら、今日は体調が悪かったっけな? 高架下を歩く、ブランコのそばに、コンビニの袋が落ちている、あらゆる食べ残しがその隙間から顔を出す、葉子は前に一度、そうだ、公園を掃除している老爺と出会ったことがあったっけなあ、老爺は、回転遊具の真下に意地悪に落ちていたペットボトルに、どうやっても手が届きはしなくて、代わりに俺が、足を伸ばして拾ってやったんだったっけ? 箸のように長く、行儀のいい俺の足、葉子は歩く煙草の吸い殻をカンガルーのポケットのようなポケットの中に入れ、次のに火をつける、雨は葉子の頬を打つ、のではなく寂しげに泣きつくように、しとやかに葉子の全身を濡らす、葉子は聞いてやるその話を小さな動物に耳を傾けるように、雨は鳴るざぁざぁと街に寄りかかって泣く巨大な売女、どんな繊細な糸一本の震えとても、聞き逃されはしない夜なのだ、雨も俺を聞こえないなんてことはありえない、誰も俺の体内を、貫きいじくりまわす寄生虫のようなのだ……ああ、葉子は聞くこの夜に俺はあらゆるものと恋に落ちる。

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