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信じること

寝不足のぼーっとした頭のまんま旗当番へと向かう。

月曜の朝はちらほら登校が辛そうな子もいる、一年生の黄色いランドセルカバーの小さな背中に頑張れ〜と大丈夫かな?と思いながら「いってらっしゃい」と声をかける。1人で耐える小さな後ろ姿に娘の昔が重なり心がキュッとなる。

娘はと言うと当番の今朝に限って足が痛むだの何だのと訴えかけてきて昔の登園拒否登校拒否前の行きしぶりの姿を彷彿とさせ、久しぶりにあの時の感情を思い出した。そのせいもあるのかも、何だか登校が辛そうな小さい子を見ると今日はいつもより気になる。校門までいくその子の後ろ姿を遠くからちらちらと見送った。

正直今でもふとした様子にまた昔のような状態になるのでは?と不安がよぎるけれど、娘を信じている。彼女はきっと彼女なりの人生を選びしっかりと歩んでいくだろうという根拠のない自信がなぜか今わたしにはあるのだ。

昔はそれが全く持てなかった。娘を認め信じる力、ひいては自分自身を認め信じる自信が圧倒的に足りなくていつも不安でいつも心配でいつもこうなったらどうしよう、また繰り返したらどうしよう、と常に何かに焦り不安に思っていた。そしてその不安が的中した時には、二度と繰り返してほしくない、との思いでダメ出しをしたり叱ったりして彼女の心を壊した。わたしの当時の最大の失敗は、彼女を、彼女の力を信じきることができなかったことだ。その代償として幼稚園時代、鬱症状で娘の表情が消え能面のようになった。絵を描くと言うので絵の具を出すと真っ黒の絵の具でスケッチを塗りつぶす。思い出したくない、思い出すと心が苦しくて涙が出るようなそんな日々だった。幼稚園の厳しい行き過ぎた(とわたしは思っている)指導もあるが、わたしが焦り、娘を追い込んだことが最大の失敗だったと思っている。

焦りは今ももちろん感じることもある、こんなんで大丈夫かな?って。こんなマイペースでこんな繊細でこれから大丈夫?って。でもわたしが彼女の人生の辛い部分をまるっと肩代わりしてあげることはできない、できるのは寄り添うこと、信じてそばにいてあげること。好きなことを共有して笑顔を増やしてあげること。

それを痛いほど痛感したいま、娘を信じ、寄り添い、信じ、共感し、抱きしめ、抱きしめ、ただ抱きしめていくうちに娘は成長し娘なりに対処するようになった。

もうすぐ習い事のお迎えだ。「ちゃんとできた?」の代わりに娘が「何を感じ、どう思った」のかを聞こう。そしてただ、受け止めてあげよう。





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