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阪神タイガース 詳細年表⑦

今回は1961年(昭和36年)から1965年(昭和40年)を掲載したいと思います。
この間に球団名が阪神タイガースとなり、現在も使用されているTとHを組み合わせたマークも誕生しました。
この間には阪神は2回のリーグ優勝を果たします。

1961年(昭和36年) 

1月

セ・リーグ合同会議で2年前セ・パ十二球団が協定した「新人選手に対する契約金の制限額」の破棄を決定。

2月7日

初めてこの日から高知市営球場でキャンプを張った。
コーチの藤本が球団社長・戸沢に進言して実現したものだった。 

3月4日

第十回対南海定期戦(大阪)、南海優勝。 

3月6日

野球殿堂競技者表彰委員会が初めて開かれた。 

3月10日

元専務取締役・田中義一(二代目代表)、脳血栓により死去、57歳。 

3月11日

第三十二回対阪急定期戦(甲子園)、阪急優勝。 

3月18日

第九回対大毎定期戦(甲子園)、大毎1勝。 

4月1日

商号を「大阪野球倶楽部」(ニックネームは大阪タイガース)から「株式会社阪神タイガース」と改称。
取締役会長・野田誠三、取締役社長・戸沢一隆のほか役員は5人。
「タイガースのフランチャイズは大阪だけではなく、広い意味から阪神にした方がいい」という野田の発案で、野田の考案で帽子のマークは「O」から「H」と「T」を組み合わせたものに変えた。
球団歌も「大阪タイガース」と歌われる歌詞の部分を作詞者・故佐藤惣之助の遺族、作曲家・古関祐而の了解を得て「阪神タイガース」と変え現在に至っており球団歌名も「阪神タイガースの歌」と改称され、コロムビアから若山彰の歌で再吹込みされた。
なお、サビの部分で「オゥオゥオゥオゥ」と叫ぶのは、次に「大阪タイガース」と続くからで、作曲家・古関は「オゥから大阪に移っていく箇所の響き、語感の盛り上がり」を重んじていた。
ただし、これ以前から大阪・神戸間の地域名でもある「阪神」が通称として使用されていた。 

4月12日

広島戦(甲子園)で吉田が1000試合出場達成。 

4月15日

ソロムコが4月12日から10打席連続出塁。 

5月13日

日本社会人野球協会は、中日が日本生命・柳川福三選手を強引に引き抜いたことから態度を硬化「プロ野球退団者を一切受け入れない」と発表、プロ野球との絶縁を宣言。

6月6日

巨人戦に備え東上し、東大グラウンドに入る前、戸沢は金田監督の休養と藤本の代理監督を発表、金田は独り東京駅から帰阪、後に退団が決まる。
阪神は開幕から最下位に低迷していた。

7月21日

藤本が代理監督から正式に監督に就任。
藤本は現在に至るまで唯一の巨人・阪神の監督経験者となった。

8月17日

中日戦(中日)で小山が1500奪三振達成。

8月21日

「年功選手に対するボーナス支給規定」が発効、十年選手制度の消滅によっ 
て不利益をこうむった選手たちの言い分を通した。 

9月13日

大洋戦の3回、吉田、鎌田、三宅、ソロムコで1イニング4盗塁を記録。 

9月30日

シーズンは60勝67敗3分けと負け越しの4位、2リーグ分立後初めて、12年ぶりのBクラス転落、優勝は巨人。
二軍はウエスタン・リーグ優勝。

11月14日

衆議院の法務委員会が新入団選手の契約金制限に関する問題を取り上げ、社会党・赤松勇議員が、出席したプロ・アマ関係者の姿勢をただした。      

1962年(昭和37年)


この年、慶應義塾大学を卒業した安藤統男が入団。
巨人からも誘いを受けたが、巨人・川上監督に対し「強い巨人よりも、その巨人と戦う側に回りたい」と断りを入れた。 

1月13日

練習開始。
ヘッド格のバッティングコーチに野田から招聘された巨人OB青田昇が野手陣を任された。
一軍マネージャーになった杣田登に代わり、後藤正美が二軍マネージャーとなった。 

1月15日

バッテリーは高知市営球場で自主トレ形式のキャンプを張った。
小山、村山を両輪に、三宅、吉田、鎌田ら鉄壁の内野陣で「守りの野球」を推し進めた。
藤本は日本プロ野球で画期的な投手ローテーションシステムを確立したとされ、この頃から阪神は「打倒巨人」をかかげるようになり、ローテーションも巨人戦中心に組んだ。
老獪、たぬき親父などと呼ばれた藤本の人身掌握術もあり、阪神の体質は変わっていった。 

3月3日

第十一回対南海定期戦(甲子園)、1勝1敗1分け。 

3月5日

甲子園球場のすぐ東側に合宿所「虎風荘」が完成。
鉄筋コンクリート5階建て、45室あった。
マネージャー経験者の杣田登が初代寮長になった。 

3月10日

第十回対大毎定期戦(甲子園)、阪神3勝。 

3月24日

第三十三回対阪急定期戦(西宮)、阪神優勝。 

4月22日

中日戦(甲子園)で三宅が1000試合出場達成。 

7月17日

広島戦(広島)で6回、3番・並木、4番・藤本、5番・三宅秀が3連続本塁打。

7月19日

広島戦で小山が150勝達成。 

7月23日

実行委員会で新人選手に対する研修制度の施行を決定。 

7月

ジーン・バッキーがテスト入団。 

9月2日

中日戦で4回1イニング10安打のセ・リーグタイ記録。 

9月6日

大洋戦(川崎)試合前、三宅が小山の投げたボールを左目に受け負傷、戦列を離れ連続出場が882試合、プロ野球記録の700試合全イニング6334で止まった。
三宅はこれが原因で視力障害を起こし、野球生命を縮めることとなる。
しかしこの事故によりチームは団結する。 

9月26日

首位・大洋との直接対決に連敗、一時は自力優勝が消滅した。

10月3日

シーズン最終戦の広島戦(甲子園)、小山が完封、6対0で勝利、2リーグ分立後初、15年ぶりの優勝を決めた。
自力優勝消滅後、残り試合を4戦全勝、大洋が残り7試合を1勝6敗となったことから優勝が転がり込んできた。
1000人のファンがグラウンドに降り、後にラジオパーソナリティを務める中村鋭一がデンスケ(録音機)を持って走り回った。
この後、虎風荘で祝勝会を開き、今で言う「ビールかけ」も行った。
最終的に75勝55敗3分け、勝率.577。
チーム打率.223、本塁打数64本の貧打線を小山、村山のWエースと吉田、三宅、鎌田の鉄壁の内野陣の〝投手を中心とした守り勝つ野球〟での勝利であった。 

10月5日

甲子園から尼崎、神戸と阪神間で優勝パレードを行う。
この日、表彰選手も発表され、記者投票で決まる最高殊勲選手(MVP)に村山が選ばれる。
村山は25勝14敗、防御率1.20で最優秀防御率に対し、小山は27勝11敗で最優秀勝率投手、防御率1.66、小山の5試合連続を含む13完封はセ・リーグ新記録、10無四死球試合のセ・リーグタイ記録で沢村賞も受賞していた。
落選した小山にはセ・リーグ会長・鈴木が特別に「優秀功労賞」を贈った。
村山はMVPの返上を口にし、小山は功労賞の受賞を拒み、日本シリーズを前に気まずい空気が流れる。 

10月13日

初の日本シリーズの相手は東映。
甲子園で1,2戦に連勝、神宮で引き分け、連敗し、甲子園に戻り村山で落とした後の第7戦、1点を失った小山が諦め、ロッカーに引き上げた後、藤井のタイムリーで同点としたが、小山は既に風呂に入っており、ウォームアップしていない村山が登板するも決勝本塁打を浴び敗れ、2勝4敗で日本一は逃した。
吉田がこの日本シリーズの首位打者になる。 

10月28日

毎日新聞社の招きで大リーグ、デトロイト・タイガースが来日、同行して来日したアメリカのコミッショナー、フォード・フリックと日本のコミッショナー、内村祐之が帝国ホテルで会談、日米野球選手の交流について意見の交換を行った。
公式の日米コミッショナー会談と見なすことはできぬが、基本的な点で了解しあったことで大きな意味があった。 

11月13日

岩間勇雄、常務取締役就任。 

11月17日

来日したデトロイト・タイガース対全日本戦、後楽園で全日本のマウンドを踏んだ村山が完封。
日米野球における日本初の完投シャットアウトを記録。 

11月

デトロイト・タイガースが来日中、甲子園での試合が雨で流れた際、阪神はオーナー、GM、監督、主力選手を西宮の料亭「播半」に招待した。
この返礼に、翌年キャンプ参加を誘われた。 

11月16日

実行委員会でフリック、内村の会談内容が報告され、趣旨は大筋で了承された。
翌年から馬皮球の使用を決定。 

12月5日

コミッショナー、馬皮球使用を各球団に通達。

12月14日

セ・パ両リーグの優勝監督、MVPがエール・フランスのヨーロッパ旅行に招待されたが、藤本は飛行機嫌いから小山に譲った。
一行は12月28日までパリなどを回った。

1963年(昭和38年) 

1月24日

実行委員会で委員会の構成を両リーグ会長と12球団代表とすること、コミッショナーが議長をつとめることを決定。 

2月9日

デトロイト・タイガースのフロリダキャンプ参加のため出発、初の海外キャンプとなり、球団社長・戸沢を団長とした30人が参加。
この時、今では日本になじんでいる「ハッスル」という外来語を持ち帰った。
フロリダ州中央部レークランドでキャンプは滞在2週間であった。 

3月1日

フロリダから帰国。 

3月5日

第三十四回対阪急定期戦(甲子園)、阪神優勝。 

3月12日

実行委員会が、従来最高殊勲選手としていたMVPを最優秀選手と改め、受賞対象者を優勝チームに限定しないこととした。 

3月17日

第十二回対南海定期戦(大阪)、南海2勝1敗。 

3月30日

 第十一回対大毎定期戦(東京)、大毎3勝。 

7月24日

オールスター第三戦(神宮)がオリンピック協賛試合として行われ、純益金約千八百五十万円をオリンピック資金財団に寄付。
前座でイースタン・ウエスタン両リーグの選抜チームが対戦するジュニア・オールスターが初めて行われた。 

8月11日

巨人戦(後楽園)で村山が球審の判定に涙を浮かべて抗議、退場となり、「村山涙の退場」と語り継がれる。 

8月28日

中日戦で村山が1000奪三振達成。 

9月10日

安芸市長・岩崎建夫らが大阪・梅田の阪神電鉄本社を訪れ「土地を1万坪購入した。キャンプで使ってほしい」と申し出た。
安芸高の監督になった溝渕峯男が親交のあった藤本に話を持ち込んだ。
場所は安芸市ケイコヤ(現桜ケ丘町)という小高い山(妙高山)であった。 

9月13日

視察のため、奥井成一総務課長が安芸入り。 

9月19日

岩崎市長らが来阪、戸沢社長と正式な折衝が始められた。
本格的なキャンプ場の必要性を感じていた阪神は乗り気だったが、視察した奥井は全くの山だったことから翌年2月の球場建設は間に合わないと見て、1年間の猶予を置いた。 

9月29日

中日戦、新人の中井悦雄が2安打完封勝利を挙げ、3連続完封勝利を記録。

9月30日

二軍が31勝16敗1分け、勝率.660でウエスタン・リーグ優勝。

シーズンは69勝70敗1分け、勝率.496で3位、優勝は巨人。
二リーグ制になってから勝率5割を切っての3位はセ・リーグ初であった。
村山の血行障害、主砲・藤本、鎌田、吉田など故障者が相次いだ。 

12月14日

戸沢は東京・築地の料亭「秀花」で会談した大毎・永田雅一オーナーから「見返りは阪神の指名に応じる」と小山譲渡の申し入れを受ける。
大毎の小山譲渡の申し入れは昭和36年から3年連続であった。
実行委員会で、ファーム・チームを制度化、野球協約上明確にする、と決定。 

12月26日

「世紀のトレード」と言われた小山と大毎・山内一弘の交換トレードが成        
立、大阪・梅田の阪神電鉄本社5階第三ホールでの発表には阪神・野田、大毎・永田の両オーナーも立ち会った。
移籍した小山は翌年自己最多勝利の30勝12敗の成績を収めた。
小山、山内のトレード後、大毎との間でソロムコと若生智男の交換も成立。

1964年(昭和39年)
 

1月15日

「大毎オリオンズ」が「東京オリオンズ」と改称。

1月24日

実行委員会で「ジュニア―・ペナントレース」の規定の野球協約挿入を決
定。

2月1日

杉下茂・コーチ就任。
コーチとして中日OBの杉下茂を迎え入れた。
杉下を口説くため、藤本は杉下の帝京商業(現帝京大高)時代の監督の天地俊一を通じて招聘した。
藤本が自分の後継者にするつもりで杉下をコーチにしたとも言われる。 

2月14日

甲子園球場の正式名を「甲子園球場」から「阪神甲子園球場」に変更。 

2月22日

第十三回対南海定期戦(甲子園)、阪神2勝1敗。 

2月26日

第三十五回対阪急定期戦(西宮)、1勝1敗。
昭和11年から続いてきたBK杯阪神阪急定期戦は、この年からNHKが主催を辞し、今後は阪神、阪急両電鉄本社がNHKに代わり行い回を追うこととなった。 

3月8日

第十二回対東京定期戦(甲子園)、東京2勝。 

4月15日

国鉄戦(甲子園)で藤本が100号本塁打達成。 

4月21日

大洋戦(甲子園)で「1試合のチーム最少打数24」のセ・リーグタイ記録で敗戦。 

5月2日

巨人戦で山内が通算266本塁打達成、青田の持つ265本塁打記録を更新。 

5月10日

国鉄戦(甲子園)で勝利、二リーグ分立後1000勝達成、勝利投手バッキー。 

6月13日

国鉄戦(甲子園)で村山が100勝達成。 

6月30日

広島戦(広島)で石川緑のバント飛球捕球をめぐり2時間半もの間中断、稲田球審も誤審を認めてしまい再開の見通しつかず中止を宣言、ノーゲームとなった。
千人を超える観衆が騒いで施設を破壊、グラウンドになだれこみ収拾不能になり、機動隊が出動、その後始末をつけた。 

7月1日、2日

前日の紛争で球場の設備が荒らされたため試合中止。 

7月12日

国鉄戦(神宮)で渡辺省が500試合登板を達成、これを白星で飾った。 

7月24日

パ・リーグ会合で、西鉄代表・西亦次郎が、プロ入り希望選手を一括抽選で振り分ける「新人プール方式」を提案。 

8月5日

広島戦(広島)、5対2で勝利し、バッキ―が外人初の20勝投手となった。 

8月9日

首位を争っていた大洋が後半戦に入り、7連敗、6連敗を喫したこともあり首位に立った。
中日戦で山内が通算1500試合出場。 

8月27日

元専務取締役・富樫興一(初代代表)、死去、74歳。 

9月1日

巨人戦(甲子園)で三宅が100号本塁打達成。
野球留学中の南海・村上雅則が大リーグ、サンフランシスコ・ジャイアンツに加入、日本人初の大リーガー誕生。 

9月

奥井が安芸市ケイコヤを再訪。
自衛隊の造成で平地になっていた。
球場建設費用1千万円は球団が無利子で貸し付けた。
グラウンドは甲子園の規格に合わせて造られた。 

9月30日

中日とのダブルヘッダー第一試合で全員得点の12点を挙げ、2年ぶりの優勝を決めた。
大洋との優勝争いを終盤の「奇跡」と呼ばれる逆転をしての優勝であった。公認されたファーム・リーグ、ウエスタンで阪神、南海が同成績で首位、優勝決定戦を行い阪神が優勝、連覇を達成。

最終成績は80勝56敗4分け、勝率.588、2位・大洋とは1ゲーム差であった。
バッキ―が29勝で最多勝、1.89で最優秀防御率、外国人初の沢村賞を受賞して優勝に貢献、石川緑が勝率.769で勝率1位のタイトル獲得。
山内がプロ野球記録(当時)の293本塁打を記録、村山は22勝を挙げた。
セ・リーグが史上初めて六百万人を超える観客を動員、甲子園の阪神巨人戦は14試合で五十一万人を集めた。 

10月1日

この日からの南海との日本シリーズは「浪花対決」「御堂筋シリーズ」と呼ばれ、東京オリンピック開催のため史上初めてナイターで行われ、日程も余裕がなく優勝決定の翌日からとなった。 

10月4日

第七回実行委員会で「新人採用制度委員会」を設置、翌年からドラフト制実施に踏み切った。 

10月10日

 
阪神は3勝2敗と大手をかけながら、第6戦、7戦をジョー・スタンカに     
連続完封を喫し敗れ、またも日本一には届かなかった。
南海が日本一に輝いたこの日は東京オリンピックの開会式が行われたことから、試合の観客は1万5000人だった。
このシリーズで山内は.306でシリーズ首位打者となった。 

12月1日

安芸球場の工事が始まった。 

12月2日

若林が野球殿堂入り。

この年、日本人大リーガー第一号、村上雅則がサンフランシスコ・ジャイアンツのマウンドに立った。

1965年(昭和40年)


高知県安芸市に安芸市営球場が完成し、阪神のキャンプ地「タイガータウン」が誕生。 

1月12日

両リーグ合同協議会で、選手採用制度審議会を設けドラフト制度の研究に取り組むことが申し合わされた。 

1月13日

合同会議でドラフト制度の採用を決議。 

2月1日

球団社長・戸沢、監督・藤本ら一行77人は大阪・伊丹から空路高知入り。高知空港、安芸駅前広場で歓迎会が行われた。
キャンプ地びらきを行い、この日からキャンプを張る。
キャンプの際、ホテルが無かったこともあり、バッキ―のために市役所近くの駐車場に特設のプレハブ住宅「バッキ―ハウス」を建てた。

2月12日

元デトロイト・タイガースのチャールス・レオナード・ゲリンジャ―を臨時コーチに招いた。

2月26日

監督・藤本、取締役就任。
監督の取締役は球団初。 

3月2日

第三十六回対阪急定期戦(甲子園)、阪神2勝1敗。 

3月4日

平和台での練習中、村山が打球を受け「右手首手根骨骨折」「全治二か月」と診断され5月中旬まで登板出来なくなった。

3月5日

若林忠志、ガンにより一年余の闘病生活のうえ死去、57歳。

3月6日

第十四回対南海定期戦(大阪)、南海2勝1敗。

3月8日

若林の葬儀・告別式が青山斎場でプロ野球葬として行われた。

3月19日

オープン戦の近鉄戦(甲子園)でバーンサイド、石川緑の継投で無安打完封試合。

3月20日

第十三回対東京定期戦(甲子園)、阪神1勝2分け。

3月24日

実行委員会で新人選手の研修制度の撤廃が決定。

4月23日

国鉄が経営権をサンケイ新聞とフジテレビに譲渡することを決定。

5月2日

巨人戦(後楽園)でバッキ―が2打席連続本塁打。
投手の1試合2本塁打は球団初。
吉田が1500本安打達成。

5月9日

国鉄戦で吉田が1500試合出場。

5月11日

国鉄が消滅、サンケイ・スワローズとして新発足。

5月16日

巨人戦(甲子園)で山内一が左本塁打を放ち3000塁打達成。

6月17日

サンケイ戦(甲子園)で谷本稔が1000試合出場。 

6月28日

巨人戦(甲子園)でバッキ―が外国人選手初となるノーヒットノーランを達成、7対0で勝利。 

7月3日

巨人戦(後楽園、山内一が左翼本塁打を放ち、1000打点達成。 

7月4日

巨人戦(後楽園)で山内一がプロ野球初となる通算300号本塁打達成。 

7月26日

実行委員会で、新人選手に対する選手契約締結交渉規定を議決。
契約金の最高額が毎年きめられ、新人選手と契約するためには、必ず関係者で構成する選択会議(ドラフト)を経ることを決定、30日発効。 

8月7日

ファーム(二軍)、安芸市営球場で夏季キャンプ(8月7日まで)。

8月13日

この日までチームタイとなる7連敗を喫した。 

9月30日

実行委員会で外人選手は翌年から1球団2名までとすることを決定。 

10月2日

広島戦(甲子園)で外木場義郎にノーヒットノーランを喫した。 

10月3日

広島戦で4回、山内一が球団初の1イニング2本塁打を記録。
ダブルヘッダー2試合目で並木が1000試合出場。

シーズンは71勝66敗3分け、勝率.518、優勝の巨人に19・5ゲームの大差をつけられ3位。
この年から巨人の9連覇が始まった。
開幕前、右手親指に打球を受け、出遅れた村山だったが、25勝で最多勝、沢村賞を受賞。
バッキ―は18勝を挙げた。
吉田は規定打席に達した選手中最少三振数19で、六年連続セ・リーグ規定打席以上の最少三振打者となった。

10月14日

実行委員会でオーナー会議が野球機構内の組み込まれることを決議。

10月28日

藤本監督が総監督に、杉下茂コーチが監督就任。
シーズン終了後の納会の席で、オーナー・野田が「来年の監督は杉下」と宣言。
藤本の体調不良による休養のためであった。

11月17日

この年、ドラフト制度が導入され、東京・日比谷の日生会館劇場で第1回新人選手選択会議(ドラフト会議)が開かれた。
契約金高騰の抑制、埋もれた新人発掘による戦力強化が主旨で、以後定着する。
スカウト・佐川直行が鈴木啓示(育英高)の指名を見送り、「スカウト生命をかける」と同じスカウトの河西俊雄らを説得し、無名だった土庄高の投手・石床幹雄を指名し話題となる。
藤田平(市立和歌山商高)もこのとき指名し入団。

12月22日 野球協約条項がオーナー会議の条項が組み込まれ改正、発効。
零代ミスタータイガースと言われた故景浦将、野球殿堂入り。
 
この年、御園生が永眠

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