無理して人に好かれるのを諦める

最近、色々な部分で自分の心の持ちようが変わっていくのを感じています。

それは、一度本当に本当に気持ちが凄まじく落ち込んで、それでも何とか這い上がってきて、「これでは駄目、何とか自分を変えなくては」と色々なことを試みて、少しずつ変わってきた結果かなと思います。
でも、まだまだ根本が変わるには時間がかかりそうですが…。

その中の変化の一つが、「無理をして人に好かれるのを諦める」ということです。

私は、昔からあまり人好きのするタイプではありませんでした。
と言っても、友達は一定数いましたので、孤独というわけではなかったのですが「人気者」の真逆を行くタイプでした。

いじめられたり、陰で悪口を言われたりしたこともあったり。しかも何回も。

はっきりとした理由はよく分からないのですが、何となく人とずれているところがあり、(これはうっすらと自覚あり。感性とか反応とか言動とか?)それが多くの人によく思われなかった原因なのかなと思います。

その一方で、親からは、皆から好かれないといけないという謎のプレッシャーを与えられ、私が学校のクラスで浮いていると、何故か私に八つ当たりをしてきました。

また、担任の先生も、私が周りと仲良くできているか、それを注視しているようなところもありました。

まあ、今となっては大人たちの心配も分からないではないのですが、自分の中で特に苦手とすること、多くの人の中で浮かないように、多くの人に嫌われないように、ということを強制され、本当に苦しかったなと懐かしんでいるところです。

その結果、「周りの空気を読まずに自分が良いと思ったことをする」という私のナチュラルな特性は歪められ、無理に空気を読んで、周りに合わせて、人の顔色を窺う、という癖がついてしまいました。

でも、普通に考えたら、周りの空気を読んで自分を出さずに顔色を窺っている人ってつまらないですよね?

それに加えて、私はそれが完璧な形でできなかったので、私の「どこかずれているオーラ」は出続けたまま空気を読んでいたので、「空気を必死に読もうとしているのに読めていない」というどうしようもない状態だった気がします。

けれども、色々自分の心持ちを変えていく過程で「あれ、何で私はこんなに人に必死で好かれようとしているのだろう??」とあるとき気付きました。

大勢に何となく悪く思われないことよりも、大勢にはよく思われないけど、一部の人に好かれるほうが良いのではないか、いや、別に自分の思う通りに生きていれば、別に誰からも好かれなくても良いのでは?

実際に、空気を読まなくなってから、本当に、かなり、生きることが楽になりました。それに、楽しいことも増えました。
ようやく深い眠りから覚めて、久方ぶりに自分自身を取り戻している感じを覚えます。

とはいえ、まだ完全に変わったわけではないから、人から強く批判されるとやっぱり数日は落ち込みますし、たまに浮いている自分が気になったりもしなくはないです。

でも、「今頃どこかで誰かが私の悪口を言っている」ことを想像しても、今は「まあそういうこともあるかもね」くらいに流せます。昔は、それを想像しただけで恐ろしくて眠れないほど怖かったのですが。

これは、自分の心持ちが変わったことに加えて、社会人になったことも大きいのかなと思います。
社会人は、会社での人間関係もありますが、それがすべてではなく、プライベートの関係、課外活動の関係など、複数の世界を持っていることが多いです。

それに比べて、子供時代は学校と家という閉じられた世界に居続けないとならないので、余計に人の顔色を見る癖がついてしまうのかもしれません。

でも子供だって、その世界がすべてというのは、まったくの嘘なのですが。(大人がなかなかそれを教えられないのが問題。)

というわけで、随分生きやすくなった私ですが、それでも「自分の思ったように生きる」ことに伴う責任も自覚しています。
もちろん、さらに人から嫌われ、批判されるリスクも増えると思いますが、絶対に理解し合える人たちと出会えると確信しています。(今既に出会えているし、これからももっと出会える。)

ちなみに、「自分の好きなように生きる」と言っても、相手を傷つけたり、人様に迷惑をかけているわけではない(少なくとも、できる限りそれは避けている)ので念のため。

誰かを傷つけたり悲しませたり苦しませたりする自分がいたとしたら、そんな自分は大嫌いだから、自分の好きな自分でいることはできないわけですし。

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