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苧引形兜(おびきがたかぶと)城(その3 全3回)

そうしてお城づくりが始まっていったんだ。十三年後の元和げんな四年1618年に三層のやぐらを天守に見立てたりっぱなお城ができあがった。
でもね、この間に堀氏は越後村上に異動いどうとなってしまってね、その後に当主となった牧野氏がいでいくことになったんだ。

この長岡城を真ん中に、城下町は広がっていって、上越じょうえつ一の商業都市へと発展していくんだ。
長岡城はね、別名『苧引形兜城』とも言われているよ。苧引とはあの白きつねがからむしを口にくわえて線をひいて縄張りを教えてくれたということ。兜とは、お城の周りが信濃川と沼や池に囲まれて、大手門とかんだ門とが兜のすきがたのように大きく八の字型に開いていたことから、こう呼ばれているんだって。
六万四千ごく譜代大名ふだいだいみょうだった牧野氏は十三代、二百五十年にわたってこの長岡城でお殿様を続けていったんだ。
お米が沢山取れたおだやかな町だったんだ。
ところが幕末に戊辰ぼしん戦争というのがあって、長岡城はこなごなにされてしまうんだよ。
今はJR長岡駅がお城の跡地にできている。石碑が一つ、昔、苧引形兜兜城がここにあったと伝えてくれているよ。

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#日本史 #戦国時代 #堀直寄 #長岡城

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