徳川家康(とくがわいえやす)たちの脱出 その2(4分割)


織田信長(おだのぶなが)はとても上機嫌だったというよ。徳川家康と石川数正(いしかわかずまさ)や酒井忠次(さかいただつぐ)、本多平八郎(ほんだへいはちろう)たちは安土城(あづちじょう)に一週間ほどもお泊りして、21日は長谷川秀一(はせがわひでかず)の案内で京都見物へと行ったんだよ。そうして、5月29日には大阪の堺へと足を伸ばしていったよ。堺では代官になっている松井友閑(まついゆうかん)や茶の道で有名な今井宗久(いまいそうきゅう)たちとお食事をしたり、お茶を飲んだり、幸若舞(こうわかまい)という踊りを見たりと楽しんだんだ。 
 
天正(てんしょう)10年の6月2日の朝、この大事件のあった日は陽が昇るにつれて、とても蒸し暑い日だったんだって。家康たちは、長い旅を終えて、三河へ帰ろうと堺の町を出たところだったよ。 
「まずまず、都とは華やかなところなり。さぁて、京都の本能寺(ほんのうじ)におられる織田どのに、この旅のお礼を申し上げてから、急ぎ三河へと行こうぞ」 
家康たちは大阪から淀川(よだがわ)沿いの京街道を通って京都の本能寺へと急いでいたんだよ。 
ところが、枚方(ひらかた)まで行くと、先に出ていた本多平八郎(ほんだへいはちろう)が、馬をあおってものすごいスピードで戻ってきた。そして息せき切って言ったんだよ。 
「殿、大変事(だいへんじ)にございます。先ほど、本能寺にて織田信長どの、信忠(のぶただ)どの、明智光秀(あけちみつひで)の謀反(むほん)にて討ち取られもうした。」 
「な、な、なんと。なんと申した。まことか。織田どのが打ち取られたとな。」 
家康たち皆信じられないことだったよ。 

今日はここまで、また明日。ポン!

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