蜂須賀小六(はちすかころく)と秀吉(ひでよし)の墨俣(すのまた)の一夜城(いちやじょう)その4、全4回

ポン!昨日の続きだよ。

秀吉の作戦はね、川の上流の上の方で、これらの材料をちゃんと計って切り揃えておくんだ。それを、いかだに乗せて一気に川を下らせて運んでいく。墨俣では、プラモデルを作るように、それらの材料を組み立てていくだけにしたんだ。今までこんなことを考えた人は誰もいなかったんだ。失敗した佐久間信盛も柴田勝家も墨俣のところでは、ぐるり家来たちを見張らせて、その中でトンカントンカン木を切ったり削ったりしたから、わぁーわぁーっと美濃衆から攻められてダメになっちゃんだんだ。

永禄(えいろく)9年、1566年の9月1日の夜。いよいよ材料を乗せたいかだが、次々と川を下っていたんだ。墨俣では最初に深さ6メートルの堀を掘らせて、その中側に木の柵を作っていく。届いた材料の木を次々と差し込んでいったんだ。こうして、最初に外枠を作ったよ。5千人もの職人たちが一生懸命仕事をしたから、あっという間に出来上がっていったよ。蜂須賀小六の野武士たちも大いに働いたんだよ。この時、信長のお殿さまはね、美濃衆の気を逸らすために、家来たちを連れて、小牧山(こまきやま)に登って、わーわー騒いでいたんだって。このおかげもあって、三日間も敵に気づかれずに2千間、3.6キロの堀を作り、塀を建ててしまったんだ。すごいね。たった3日間でお城の外枠を作っちゃった。こうして、あっという間に作ってしまったから、「秀吉の墨俣の一夜城」と言われるようになったんだ。長屋なんか全部出来上がったのは、3ケ月後くらいだったということだよ。

秀吉はこの手柄で足軽大将(あしがるたいしょう)から、武将へと抜擢されてね。蜂須賀小六さんも秀吉の家来となったんだ。これで美濃が攻めやすくなったんだね。

その頃の濃尾平野(のうびへいや)には墨俣川が、びょうびょうと川幅広く流れていたんだって、けれど、今では細いちょろちょろ川になっているんだって。ちょっと寂しいね。

さぁ、お休み。ポン。

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