平氏(へいし)にあらざれば人にあらず その2(全3回)

昨日の続きだよ。ポン!
一艘の船に乗っていたのは、、、

平の時忠(ときただ)が、わずかな供を連れ京都から流罪(るざい)としてやってきたのです。時忠は50歳をいくつか過ぎていました。流罪とは悪いことをした人がその罰として遠い土地へと行かされることです。

時忠さまは夕焼けの美しいこの馬緤の里に暮らし始めました。この馬緤や大谷の里は京都のお公家様(おくげさま)の若山荘(わかやましょう)という荘園だったので、とても賑やかなところでした。大勢の人たちが暮らしていましたし、京都への行き来もあったのです。ですから、京都で起こった事件や流行などはよく伝わってきていたのです。里の人たちは見慣れない人がやってきたものですから、どんな人がどこから来たのだうかと噂しあいました。
「あの人は何と何と、小二位権大納言(しょうにい ごんだいなごん)の平の時忠さまだそうな」
「ひゃぁ、ひゃぁ、あの有名な「平氏にあらざれば人にあらず」と威張っていた者かい?

「そうとも。平の一族でない者は人間じゃないっていうことだからね」
「平清盛さまのお嫁さんが時子さまでな。その時子さまの弟が、あの時忠さまなんじゃよ」
「そうとも。平清盛さまが源氏の源義朝さまを倒したから、さぁて25年くらいになるかのう。この間、平さまの一族が日宋貿易(にっそうぼうえき)でなぁ、たいそう儲けたからのぉ。きれいな着物を着て、毎日ごちそうを食べてな。歌ったり踊ったりしておったのぉ。わしら百姓たちは変わらず貧乏じゃよ」
「そんでこの間の壇ノ浦(だんのうら)の戦いでは源の義経(よしつね)さまが大働きをして、平の者たちがたくさん海の中に落ちて行ったそうな」
「まだ8つの安徳天皇(あんとくてんのう)は海の底にも平家のお国がありますよって言われながら女衆にに抱かれて海の中に飛び込んだそうじゃて」
「時忠(ときただ)さまは、そりゃあそりゃあ清盛さまの弟にあたるお方じゃもぉな。本当なら殺されるもんじゃけれどもな。時忠さまは天皇家に伝わる大切な宝物を守っていたからというて、殺されずにすんだんじゃそうな。そんでこのワシらの里に流されて来たっちゅうことだよ。」

今日はここまで、ポン!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?