山内一豊の武勇伝 その1(全3回)



今日は、山内一豊(やまのうちかずとよ)の武勇伝です。
武勇伝というのは、お侍さんが他の人にはできないような特別素晴らしい働きをしたことを言いますよ。一豊は千代さんをお嫁さんにしたばかりで、とても貧乏でした。

さて、大きな戦いになりました。
織田信長(おだのぶなが)の軍団が北の国の方へ領地を広げるために、若狭(わかさ)に攻め込んだのは1570年の元亀(げんき)元年4月25日のことなんですよ。今から450年も昔のことになりますね。

若狭とは今の福井県の北側の方のこと。山内一豊は豊臣秀吉の家来で、秀吉は織田信長の家来ですからね。織田軍はこの時3万人の家来たちで攻めていきましたよ。一豊も秀吉軍の一家来としてこの中にいたのです。一豊はボロボロの鎧を着て、はげちょろけの槍を持っていました。何とか手柄を立てたいと思っていました。4月ですからお花も咲いて山には緑でいっぱいになっていたことでしょうね。家来たちは皆きっと戦いだから頑張らなくちゃとも思っていたでしょうし、死んじゃうかもしれないから、こんな綺麗なお花を見ていられるのも最後かなとも思うことがあったでしょう。

織田軍は若狭に攻め込むとすぐに小さなお城をいくつか攻め倒し4月25日には敦賀(するが)の手筒山城(てづつやまじょう)を打ち倒して、次の26日は、同じく敦賀の金ヶ崎城(かねがさきじょう)を落とすのでした。

金ヶ崎城は敦賀市内の海の横の丘の上にあるお城です。この金ヶ崎城のお殿様は越前朝倉氏(えちぜん、あさくらし)の氏族、朝倉景綱(あさくらかげつな)という大将でした。織田軍はたくさんの鉄砲があって、どかんどかんと正面の門に玉を打ち込んできます。見れば織田軍は皆、金色や赤の華やかでおしゃれな鎧を身に着けていたので、天から舞い降りてきたのではないかと見間違えたくらいです。それに引き換え、朝倉軍は鉄砲はわずかしかないし、家来たちの鎧も槍なども古臭いものばかりだし、助けに来るという味方の本軍からの援軍も来なさそうだし、昨日は味方の手筒山城まで落ちてしまっているのだし、織田軍は3万の家来たちで、こちらはたったの3千人。戦わなくたって負けるのは決まっていること。

景綱は、すぐに降伏開城を決めたのです。織田方に使者をやって、
「城は明け渡します。どうぞ私たち全員が越前へ去っていくことをお許しくだされ」
とお願いしたのです。
「よかろう」
と総大将の信長は言ってくれたのです。

今日はここまで、また明日。

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