本多正純(ほんだまさずみ)と宇都宮城の吊天井(つりてんじょう)その1(全3回)

ポン!
 
今日はね、宇都宮城の吊天井(つりてんじょう)と言われているお話をするね。 
そう、お城の天井が落っこちてきて徳川家康(とくがわいえやす)の次の2代目の将軍秀忠(ひでただ)を殺してしまうかもっていう話なんだよ。それが家康の一番の仲良し家来の本多上野介正純(ほんだ こうずけのすけ まさずみ)という人が仕掛けたっていうんだから世の中は大騒ぎになっちゃった。 
 
本多上野介正純はお父さんの本多正信(ほんだまさのぶ)と親子で徳川家康のお傍(おそば)に仕えていてね。相談にのってあげたり戦いの時の作戦を立てたりと家康にとっては、とっても大切な家来で、もう30年以上も傍にいてくれた人たちだったんだよ。家康の子供たちでさえ遠慮していたくらいだからね。 
 
本多正純が吊天井を仕掛けたと言われるにはいろんなことが家康の子供たちとの間にあったんだよね。 
一つめは、江戸時代に入って間もなく1616年6月1日に家康は死んじゃうのだけれど家康が病気になってから、正純は一度も子供たちに家康を会わせてやらなかったんだよ。
正純は誰も家康のそばには越させなかったんだよ。で、家康が死んじゃう時に自分一人で遺言(ゆいごん)を聞いたっていうんだ。そりゃあ子供たち怒るよね、変だよねえ。 
もう一つはね、その遺言のこと。そりゃあひどいんだよ。家康は50万両くらいのお金を持っていたらしいんだけれど、そのうち11万両を遠くの親戚に分けて、あとは久能山(くのうざん)というお寺に寄付しちゃったんだよ。次の将軍になると決まっている息子の秀忠にさえ1枚のお金もやらなかったんだよ。それは遺言だからと言うんだ。でね、子供たちは久能山のお寺にに聞きにいったんだよ。千両箱が400箱ありました。って言われたんだけど、そのあとすぐにお寺の人は 
「あっ、やっぱり数え間違えしてました」って書置きを残してお腹を切って死んじゃったの。ねっおかしいでしょ。だからその後39万両がどこにいったかわかんなくなっちゃった。そりゃあ正純が怪しいよね。子供たちは皆疑っていたよ。 

今日はここまで、ポン!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?