梅若(うめわか)の涙雨(なみだあめ)その1(全3回)



ポンと昔。今から1千年も前のこと。
埼玉県の春日部市(かすかべし)に伝わるお話しだよ。

平安時代中頃のことだ。花御前(はなごぜん)は、都の宮中(きゅうちゅう)のそばに暮らしていた。
「花御前さま。比叡山(ひえいざん)のお寺が悪者に襲われてしまい、梅若さまがお逃げになり、行方不明とのことです。」
お付きの者が慌てて部屋に入ってくると、花御前に伝えたのだ。
「なんと、真(まこと)ですか」
花御前はあまりのことに息が止まるほどだった。6年くらい前、花御前の夫は病気で急に亡くなってしまったのだ。吉田少将惟房卿(よしだしょうしょうこれふさきょう)と言って、村上天皇のお傍(おそば)で仕えていたのだった。その時、子供の梅若は、まだ5歳であった。梅若は幼いながらよく学問を学んでいた。梅若は7歳になると、「父上の菩提(ぼだい)を祈りとうございます」と言って比叡山の稚児(ちご)となってしまっていたのだ。
稚児というのは、お寺で学びながらお寺のお手伝いをする子供のことをいう。それからというもの、花御前は一人で静かに暮らしていたのだ。

花御前は町に飛び出して行くと、比叡山のことを知っている者はないかと毎日のように誰かに話しを聞きまわっていた。すると、信夫藤太(しのぶのとうた)という人買いに大津の浦でさらわれて、東国(とうごく)へと向かって行ったということが分かったのだ。
人買いとは、人を連れ去って別の人たちに売ってしまうことをいう。花御前はいてもたってもいられず、梅若を探して東国の東へと向かって行ったのである。どれほど歩き続けてきた時であったか、京都からはるばる武蔵野(むさし)の国まで来たのである。600キロもあろうか、花御前は疲れ切っていた。古隅田川(ふるすみだがわ)まで来ると、渡りの船に乗った。渡りの船とは、昔は川に橋が架かっていなかったので、向こう岸へ行きたい人たちのために小舟が船頭と一緒に川岸で待っていたのだ。
「おや、あちらの岸で何やら人集まりがあるのは何かしら?」
花御前は船底に体を沈めながら、ぼんやりと船頭に聞いた。

今日はここまで、続きはまた明日、ポン!

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