ChatGPTやperplexityを用いて非専門領域に関する確からしい情報を集めるに際しての困難の一例について[誰か私を助けてください……]

本論については一つの回答を得ることができました。
ChatGPT、perplexity、そして様々な非専門領域における概説書。
どれも私に知識を満足いく量、
そして信頼性について安心できる形で与えてはくれませんでした。
ChatGPT、perplexity等が「現時点において」
その活用法の習熟如何に関わらず
機構において私の要求を満たす見込みがないこと、
および今後の展望を丁寧にご説明いただきました。
最後尾にそれについてのお礼を申し上げております。

本論のみです

「google検索で欲しい情報が出てこないんですけどおおおお!」って
私が喚き散らしていたときに
「ChatGPTいいよ!」
と仰ってくれた数年来知的に敬意を抱いている知人からのコメントをいただき、
早速使ってみて感動しました。

ただ、ChatGPTの回答は典拠を出すことができず、私は情報の確からしさについて知りたいので、典拠まで出せるツールはないかな? と思って調べてみたところperplexityを見つけましたので併せて活用しているところです。

たった一日ChatGPTとかperplexityなどのツールを使ってみての
極めて浅い人間の感想なんですけど、
これって「適切な問いを投げるために、ある前提能力」が要求されますよね。
以下画像をご覧ください。

論旨の理解のために二重過程理論のWikipedia情報も置いておきます。
Wikipediaの情報精度はともかく私が何を問うているのかはぱっとわかると思います。

上の疑問はまだ私の疑問として正確ではなくて、
たとえば私は「ストレスによるコルチゾールの増加」と
「タイプ2に前頭前野が大きく関わっていること」と
「コルチゾールの増加が前頭前野の活動を低下させること」を認めた上で
素朴には「ストレスはタイプ2阻害について実判断に有意な影響が出る形で影響あるかもしれないなー」って思うのです。

しかし「コルチゾールは脳の他部位を含む人体の他部位に影響を与える」ようですし
「タイプ2には前頭前野だけでなく海馬なども関わっている」ので
「ほんとうにストレスによるタイプ2阻害仮説ってホモ・サピエンスの意志決定に有意な影響を与えるレベルで確からしいって断言していいの?」と疑義を抱きました。

実際、画像の問いを投げる前にはperplexityは
①「ストレスによってコルチゾールの増加が認められることは実験で確認されている」→ちゃんと検証しているように見える論文が大量に見つかって信頼してよいと思っています。
②「コルチゾールの増加が前頭前野の活動を低下させる」→これもある程度信頼できると自分が思えるだけの情報を集められました。
以上よりperplexityは
③「ストレスによりタイプ2が阻害される」を導出して、実際にそう言っている資料を(どの文献もその根拠を述べていませんでした)私にちらほらと提出してくれました。

しかしながら、私はその説明に安易に飛びついて本当に良いのか疑問に思い、さらにperplexityに上記画像のように質問を投げたのです。

この私の質問ってあまりにも形式的で現実的じゃない可能性があるんですよね。

現代科学における今の段階で採用できる仮説って今の方法だったり実験器具だったりで
求められる精度が各学問領域によって異なっていて、その現実を無視して徹底的に問うたところで信頼できる典拠ありの窮極の答えが得られるわけがないじゃないですか。

つまり私は現実を無視して形式だけで質問をperplexityに投げたのです。

たとえば学会などで細かい定義があるものについての質問については、
「これのここが気になるんだけど本当この仮説に信頼して言いの?」という質問に対して、たとえば日本学術会議に掲載のある学会のページとかがでてくる可能性があると思うんですよ。
そしたら私もなるほどなるほどー!!! って一定の理解ができるんです。

けれど私が投げた上記画像の質問みたいなものに対してperplexityは
この学問領域ではそこまでの厳密さは求めていませんよ。
確かにそのことを明文化している記載は見つけられませんでしたが
これだけの信頼できる論文を定量的に調査して
貴方が質問したい学問領域において現在確からしいと言うには
どの程度の精度が必要なのか確認しました。
調査に用いた手法ならびに手法の正当化および計算式、根拠とした論文の一覧は以下リンクより適宜ご覧ください。
よって貴方のような問いは未来において重要になるかもしれませんが
現代においてはそこまで厳密に問わずに前段階で受け入れて差し支えありませんよ

みたいなのは返してこないじゃないですか。

私は分析哲学徒だからどうしても可能な限りにおいて厳密に問いたくて、
かつ先も述べたように科学における仮説というのは今の方法だったり実験器具だったりの制約から
今の段階ではこれで十分な精度だよね! もちろんこれから先もっと正確になっていくの楽しみだよね!」 って言わなくちゃ何も仕事ができないわけじゃないですか。

つまり現代においてperplexityなどのツールについて質問する段階で、
ちゃんとした典拠が出ているのかというのはよく言われることですが、
そもそも質問する側が答えを得るために
「質問したい学問領域における仮説の精度はどの程度まで出していれば妥当か」って知識が必要になるんですよ。

私みたいに形式だけで徹底的に問うことでこれらのツールは
そうですねわかりませんねその問いへの信頼できる答えはありませんごめんなさい」って言ってしまいます。しかし科学の現場はそんな安易な不可知論に負けていませんし、行き過ぎた懐疑に陥らず仕事をすべきです。

逆にどの程度の正確さまで求めておけば現代の知識として適切かについて無批判のまま、
安易に提出された答えに飛びついて引用しちゃうことには当然多大なリスクを伴うじゃないですか。

なんなら飛躍した論証による仮説を嬉々として持ってきて、
この領域に関する非専門家の友達に「こんな論文あったよ! 面白いよねー!」って危ういこと言ってしまうリスクがあるわけじゃないですか。

最悪勇み足の理論を撒き散らしてしまう疫病神に私がなってしまいかねません。もちろん私はこのリスクがあるので、このようなツールによって調べた非専門領域の情報を安易に信頼できるとは言わず、noteなどに引用するときは「面白い話があったのですがじゅうぶん信頼できる仮説であるというところまで調べているわけではないのでご注意ください」と記載することで疫病神になることは避けようと努力したいと思っています。

しかし自然科学というのは私にとって幼いころからとても魅力的なもので「こんなこと知りたい!!」という欲求は次々溢れ出てきて止まらないのです。だから調べること自体をやめたくないのです。


だとすれば「訊く前に訊きたい学問領域における妥当な態度についての知識をつけろ」って結論に簡単に考えるとなっちゃうんですけど、
そもそも領域においてはその妥当な態度についてすら論争があったりするじゃないですか。専門家ですら論争があるのに非専門家が競合する妥当な態度についてどちらを選ぶべきか適切な判断ができるとは思えません。

ゆえに分析哲学徒である私がパッと素朴な直観で
ストレス下に人が置かれると単純な考え方しがちだよな~! こういうことって自然科学の偉大な尊敬すべき人たちは何か調べていらっしゃるかなあ!」と思ったとき
適切な答えにアプローチするにはメチャクチャ労力がかかることがありえるじゃないですか。

私は上の画像の他にも本当にたくさんの自然科学の諸領域に興味があります。しかしそれら全ての学問領域における妥当な精度に関する態度ついての了解についての知識を身に付けるのは現実的ではありません。

そうすると私は私が知りたい知識について、結構な場合得られないという結論になってしまいます。

ある程度は決断的に妥協して、程度問題として「この程度の信頼情報として扱おう」と思っても、その程度の設定の適正さに疑義があるじゃないですか。

私は単に「こんな仮説があるよねー」ではなく
現代においてこんな仮説を採るのがその領域の研究者にとってまあ妥当だよねー」と信頼できる知識が欲しいんです。

どうしたら……どうしたらいいんですかね……
(本論末尾で嘆いているとおり、たぶん活用法では解決できないと
素朴な予想があったのですが、
冒頭追記部分の通り、
当該ツールの活用法をいかに高めても
当該ツールによっては問題は解決できないことを
実際にご説明いただいて確認済です


こういったツールも使い始めて1日で、右も左もわからないのです。そして、私が抱いているような疑義はこれらツールを用いて情報収集して「現代においては一応確からしい知識」を収集しようと考えた際に直面する問題の、ほんの一例に過ぎません。

非専門家である分析哲学徒の私が自然科学と戯れたいと、センスオブワンダーを得たいと強く望むとき、現代科学のレベルではまだその要求に十全に答えられないのでしょうか。

専門家には専門家としての大切な仕事があります。私のような人間の素朴な疑問に一々コストを費やすことを私は望みません。非専門家への啓蒙作業についての優先度を過剰に高くすることなく、専門とする領域の知に挑戦するもっと偉大な仕事にコストを割いて欲しいと思っています。

この問題はperplexityを使う際にのみ生じる問題ではなく、たとえば非専門領域に関する学術書に触れる際もそうです。最先端情報に触れる際にはやはりそれを扱っている学問領域へのある程度の理解が必要になってきますし、仮に定説とされている権威ある一般向け啓蒙書を手に取ったところで、権威があるだけに知識が古くなっている箇所があるかもしれません。修正情報は探せば見つかるでしょうが、どの箇所の知識が古いのかということを事前に私は知り得ません。一方で権威ある一般向け啓蒙書で紹介される情報は膨大です。私は知識を得たと思って間違った情報をうかつに口にして誰かに迷惑をかけてしまうかもしれません。一つの事実についての知についてなら、その情報が今も妥当か見ておけばいいです。しかしたとえば理論自体について非専門家としてとりあえずこれ持っておこうかなと思ったとき「①その理論を支える膨大な事実について(論証過程に瑕疵がないかなどもですよね)抜け落ちていないかチェックする」「②より新しい学術書をチェックする」があるのですが①は膨大な仕事ですし②は最先端情報に触れようとする際の問題と類似した問題を引き起こします。「権威ある一般向け啓蒙書」→「より新しい権威ある一般向け啓蒙書」と進んでいくといずれ新しくなりすぎて権威がなくなります。すると権威ある一般向け啓蒙書の知を扱うに際してのアポリアがまた浮上してきます。

どうすればいいのか思いつけないのです。君はもっと未来にうまれてくればよかったのにね、で終わってしまう悲しい問題なのでしょうか。

補記として、そもそもの疑問となった「ストレスや疲労が判断力を低下させることはあり得ると思うんだけどどうかな!
という質問についてはいろんなジャーナルや医療行政に関わるページからの情報などとにかく大量のそれは正しいよという研究をいやというほど大量に発見できて、逆に「そんなことないよ」とか「疑わしいよ」とか言っている情報は見つからなかったので、これならば、せめてこれなら信じていいのかな……と思ってはいるのです。でも、私はいまはもうストレスによる二重過程理論におけるタイプ2阻害について興味があるのです……

どうしたら……どうしたらよいのでしょうか……


補遺:本論について一つの慰めを与えてくださった方がいらっしゃいました。お礼申し上げるともに、最大の敬意を表します。


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