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飛練39期赤トンボ戦記

大 村 正 治(甲13期)

 鹿児島海軍航空隊の第13期甲種飛行予科練習生約4千名は、僅か10力月で盛り沢山の教程と猛烈な訓練を終了し、昭和19年7月25日全員卒業した。操縦分隊(33〜42分隊)、偵察分隊(43~62分隊)の各分隊は、ばらばらに分解されて約2百数十名のグループに分けられ、指定された飛練に向って巣立っていったのである。
 台湾の虎尾航空隊を指定されたわれわれグループは、緒戦でカクカクたる戦果をあげた台南空、三亜空のあとを継ぐのは俺達であるとばかり、共に訓練に励んだ乙種20期、21期生に送られて煙たなびく桜島に別れを告げ、第二種軍装の7ツ釦もはち切れんばかりに胸を張って隊門を出て行った。

 門司港で輸送船神洋丸に乗船したわれわれは8月1日、25隻の船団を組んで六連島を出航した。
 先頭には数百トンの駆潜艇、両サイドは一隻づつの海防艦が護衛したが、25隻の大船団で敵潜水艦が待ち構える東支那海を航行するにしては心細い限りである。
 沖縄周辺に近づいた頃である。船倉の蚕棚に荷物同様に押し込められ、異様な匂いや蒸し暑さから逃れて東の空が明るくなった○五○○頃、牧野、山崎、古賀、藤井、白石などの同期生とハッチで将棋をしたりしていた。
 突然、ドカーンと大きな音と強いショックを受けて体が飛び上がった。心配していた通りやられたぞと慌てたが、何ともない。何とすぐ横を航行していた陸軍の輸送船に高々と水柱があがっている。水柱がサーッとおりると輸送船のうしろ半分はみえず、前半分から陸軍の兵隊が次々と海に飛び込んでいる。2、3分後には船首を上にズブズブ沈んでいき、陸軍の兵隊が大きな渦の中に残されている。
 悠長な之の字運動をしながら、六節で航行することにいい加減うんざりしていたわれわれは、はじめて戦争の厳しさをひしひしと知ったのである。海上に浮んでいた陸軍の兵隊は、数百人が対潜爆雷攻撃を終えた海防艦に救助されたとのことだった。
 敵の魚雷攻撃や台風に悩まされて高雄港に無事入港できたのは10数隻である。待望の上陸に大喜びで、早速腹一杯食べたピーナツやバナナに、長い航海の疲れや魚雷攻撃の恐怖も消し飛んでしまった予科練を卒業したバリバリの精鋭というよりやはり16歳前後の子供だったというのが本当だろう。

 昭和19年8月17日、上陸したその日のうちに汽車に乗り、夕方には虎尾街に到着した。鹿児島海軍航空隊を退隊してから教官、教員もいない同期生だけの気楽な旅であったが、音に聞えた地獄の飛練の隊門を前にして、約3百名の同期生は、ねじを締め直し、服装点検、軍帽もかぶり直し、白石期長の「歩調とれ-ッ」の号令で「ザッザッ」と一見勇ましくカラ元気をつけて隊門を入った。この隊門こそわれわれにとって地獄の一丁目となったのである。
 早速、飛行服、飛行帽、飛行眼鏡、飛行手袋、飛行靴、ライフジャケットや水牛の皮の短靴と防暑服を支給されたヒョッコどもは、それだけで搭乗員になったような気分になり、希望に胸をふくらませたのである。

 ところが入隊最初の行事は何と海軍葬だった。予科練時代に娑婆っ気の抜けきれない中学生坊主をしごいてくれた教員から「飛練は貴様たちをお客さん扱いにせんぞ」とおどかされ「地獄の飛練」と聞いては来たので、少々悪い予感がしたものの「何とかなるさ、頑張らなくちゃ」と覚悟をきめ飛行作業に取り組んだ。
 分隊長は大正14志で渡洋爆撃に参加飛行時間7千時間の操縦の神様稲田久松大尉、分隊士の殆んどは予備学生出身の中尉、少尉で、予科練出身は古参の飛曹長と鈴木先任教員(乙13)、小西上飛曹(甲9)その他である。
 予科練の教員が叔父さんの感じだったのと比べ皆若々しく兄貴という感じだったが、やはり年期の入ったパイロットの先輩である。みるからに頼り甲斐があるなあと思ったのが大間違いで、来る日も来る日もあこがれの九三中練に乗っているよりも「前に支え」や海軍精神注入棒のお世話になっている時間の方が長い。
 いやになったからや-めたといかないのが軍隊で、こんな辛い思いをするくらいなら早く一人前になって洋鬼の空母や戦艦を轟沈して死んだ方がましだ、と予科練時代に「軍隊では厩にいる時が一番楽だなあ」とぼやいた善行章二本の一等兵曹の教員を思い出しながら艦爆を第一志望にした。

 8月26日初めての飛行作業である。グライダーでの訓練は何回かやったが、本物の飛行機で大空を飛べるんだと思う嬉しさで胸がワクワクである。いよいよ自分の番だ。握りしめた両手を大きくふり膝を胸につくばかりに高くあげて指揮所正面まで早駆けし、地上指揮官に「大村練習生○○号慣熟飛行同乗出発します」と報告し、一目散に列練に向って走って行った。
 私はここで大失敗をやらかした地獄の飛練で鬼の教員を前にして初飛行の嬉しさをおさえきれずに思わずニコッと笑ってしまったのである。腹の底から湧き出てくる嬉しさにどうしても顔の筋肉がいうことをきいてくれないのだ。ところが何と板東教員もあきれたのか自分のことを思い出したのか、ニコッと笑って答礼してくれたのである。

 九三中練は通常車輪ブレーキを使わないので地上滑走中は、エンジンと補助翼と方向舵を上手に使わないと思う方向に進まないことがよくわかる。離陸地点にくるとスロットルレバーを一杯に押し出す。高速に思わず手足に力が入ると、すかさず「手足がかたーい」教員から怒鳴られる。
 そのうちお尻の下がスーツと軽くなり、下をみると地表から縁を切って浮んでいた。「練習生、飛行場はどこだ」教員の声に慌てて見回したが、まるで見当がつかず「わかりませーん」素直にあやまると「右斜め下をみろッ」伝声管からの怒声。
 かくして大空の初体験、慣熟飛行も終り、翌日からは離着陸同乗飛行の猛訓練がはじまった。伝声管を通じてくる板東教員の注意をなんとか百%実行したいのだが、飛行機という奴は相手をみて、教員が手を放すととたんに球が横に滑り出し、体は横に引っ張られる。
 手足をバタバタさせてあせっていると機首が上がりすぎて失速直前のフラフラ状態で、混乱状態の練習生を自信喪失状態に陥らせる。
 操縦術教範通りにやろうとしているのだが、たかが赤トンボと思っていたが、赤トンボになめられてしまい意外と時間がかかってしまったのである。かくしてペア同志、同分隊員、八分隊に負けてはならじと訓練に励んだが、どうしても個人差がでて来たのであった。

 早い者は七時間ていどの同乗飛行で単独を許可されている。わがペアも二人は終了していた。私はあせりにあせった。機械体操を得意にしていたが、後席の教員の怒鳴り声を思い出しながら「あー駄目か、整備回しかなあ」と自信を失いかけて列線を走り回っていると、秋山練習生がとんできて「お前今日単独だぞッ」
 大急ぎで指揮所横の黒板をみに行くと、間違いなく単独の搭乗割に「大村」の名前がある。よーしやるぞというファイトと、心配が交錯する。板東教員がきて「何時もの通りだ、落着いてしっかりやれ」と励された。
地上指揮官に「大村練習生、○○号単独飛行出発します」報告し複葉の中間支柱に赤い吹き流しの布切れをつけた単独飛行用九三中練に乗り込んだのであった。

 後席は教員のかわりに機体のバランスをとるため60キロの砂袋が固定してある。いつもの通り「操縦装置ヨーシ」など一連の点検を砂袋に報告し、操縦桿を右足で一杯手前に引きつけ、スロットルレバーをデッドスローの位置に引いて回転を落とし、さあー出発。地上滑走で離陸地点に向った。
 離陸、第一旋回、第二施回といつもの通り。第二旋回を終り高度2百メートルで水平飛行に移るとやっと余裕が出てきた。教員同乗中は緊張のあまりゆっくりみられなかった景色が心地よく目に入ってくる思わず「教員のバカャロー、俺は一人で飛べるんだぞー、ザマーミロ」と叫んでしまった。
 第四旋回を終ると、単独飛行の真価が問われる着陸だ。機速を55節に保ちながら五メートルと叫んでスロットルを絞り機を引き起すとドンピシャリの三点着陸であった。「バンザーイ」と自信と自惣れをもったものである。
列線に戻る地上滑走も予想以上の初単独のできばえに心がはずみスピードを出し、翼端についてくれていた古賀練習生や白石練習生から非難の目でにらまれたものであった。

(海原会機関誌「予科練」61号 昭和56年8月1日より)

 予科練の所在した陸上自衛隊土浦駐屯地にある碑には以下の碑文が残されている。

「予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。
太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。
昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争に於ては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。
創設以来終戦まで予科続の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈って、ここに予科練の碑を建つ。」

昭和四十一年五月二十七日
海軍飛行予科練習生出身生存者一同
撰文    海軍教授 倉町歌次

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