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慰霊碑に思う 

                        倉 町 秋 次

 昨年は待望の慰霊碑が、美事に建立されてお互いに嬉しいことでありました。相携えて国難に赴く雄姿が、巨匠の腕で具現され、破邪の怒りを愛国の微笑で包み、きっと結んだ口許には、昔日の覚悟のほどをありありと偲ぶことができます。
 戦後、私は澄みきった眸をした若人に接することの少ない嘆きを繰り返してきましたが、今、この像に接して、久々に心の渇きを忘れることができ、魂が清められる感さえ覚ゆるのであります。
 しかし、式当日の殿下(高松宮宣仁親王殿下:海原会名誉顧問)のお言葉にもありましたように、立派に慰霊碑は建ったが、慰霊の道は、ここで終わったというものではなく、寧ろ真の慰霊の道はここから始まると言った方が適切であるかもしれません。
 私たちは、口を開けば英霊の慰霊だ、顕彰だと言いがちであります。が一体、どうすることが真の慰霊であり、顕彰につながるのでありましょうか。
予科練とは、その性質において、その規模において全く異なりますが、古来、白虎隊や赤穂義士の名は今日も世に喧伝されています。四十七士や会津の少年たちが、長く世の共感を受けているのにはいろいろ理由もありましょうが、責任の完結と共に全員ことごとくが散ってしまったという潔さ、悲壮美、壮烈さといったものが、世人の心をうったことも見逃すわけにはいきません。
 予科練の場合は、「海原にはた大空に散華」した殉国の英霊、並びにこの英霊たちと相連れ立って護国の楯となり無敵の空威を発揮した生存者諸君の、当時に於ける声価は既に決定しておりますが、同時にここに生存者諸君の未来への可能性というものが残っております。即ち定着された評価に更に輝きを加えることもできれば、またその逆の場合も可能であるのであります。千年後の史家の評価、真の予科練の声価の最終決定は、生存者各位の今後の行動の如何によって左右されることも少なくないと思います。思いをここに致せば、時としては敗戦を知らずに散った英霊たちを羨ましくさえ思う感慨の湧くこともありましょう。
 かつて諸君は、大空の決戦に臨むとき、お互いの心中に於て、英霊たちとどのような約束を取り交わしたであろうか。「あとをたのむぞ」 「よし引きうけた」この、祈りにも似た無言の盟約は、戦いの結果によって変更を許されるものであったろうか。
 英霊たちが二つとなき己れの生命に代えて願ったもの、それは戦いそのものではなく、戦いを越えた彼方に輝く平和の灯であった。
 その灯をつかまえるためには、戦火を越えねばならなかった。真に人間の宿命のかなしさであります。が、今日私たちは、その貴い代償によって、平和の灯を手中にすることができました。二度と私たちは、この灯を手離してはならない。
 どのような仕事、どのような行動、どのような考え方も、私たちの日常生活の総てはこの貴い平和を守り貫き、笑話の慰霊と顕彰につながらないものはない。要は徒らに大言壮語することでなく、着実に実行することにあると信じます。今や慰霊碑の建立を契機として、英霊たちが一瞬の火花と献げた赤誠を、生ある限り、各自の職域に於て燃やし続けることこそ、真の慰霊の道であるとの念を新たにするものであります。

(海原会機関誌「予科練」第1号(昭和42年4月5日)より)


 「予科練」とは、海軍予科練習生(昭和11年12月海軍飛行予科練習生へ改称)の略称です。

 予科練の制度は、優れた航空機搭乗員は英才の早期教育が必要との観点から、高等小学校卒業者で15歳以上17歳未満の若者をその教育の対象としたもので、第1期生79名(うち1名は途中除隊)は、全国5,807名の志願者の中から厳選され、昭和5年6月に横須賀海軍航空隊(追浜基地)に入隊しました。

 予科練の制度は、昭和20年6月に教育の凍結がなされるまでの、わずか15年間にすぎませんが、その間に約24万名が志願し、18,564名の卒業生が戦死され、そのうち1,557名は特攻隊の隊員として大海原にあるいは大空に散華されました。

 公益財団法人「海原会」は予科練出身戦没者の慰霊顕彰と遺書・遺品などを管理しています。詳しくはホームページ、ツイッターをご覧下さい。

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