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財団法人海原会 盛大に設立記念式典

 財団法人・海原会の設立記念式典は、七月十六日午後四時から、東京・千代田区の日本武道館に、高松宮・同妃両殿下のご臨席を仰ぎ、約六千人の参加者が見守るなか、成功裡に式典を終え、出席者は口々に大成功を祝い、慶び合った。
 式典は、午後四時きっかりに高松宮・同妃両殿下がご臨場。観衆は全員起立して両殿下をお迎えした。つづいて国歌「君が代」の斉唱。そして、空に海に散っていった戦没者のみ霊に心からの黙祷を捧げた。ついで、さる四十一年霞ケ浦湖畔に「予科練之碑」が建立された折、高松宮妃殿下から賜った御歌の奉泳が行われた。
 おごそかに奉詠が終わって、海原会、長峯良斉会長のあいさつ。「予科練戦没者の慰霊、顕彰、そして、その事續を永く後世に伝え、また青少年の善導を行うこと。この三つの柱が、財団法人・海原会設立の主旨である」との、別掲のような決意表明であった。
 海原会設立、並びに募金に特に功績のあった方々に感謝状が贈られた。株式会社「紀文」をはじめ、海原会・青森県支部、関西甲飛会、かつて霞ケ浦で予科練生の面倒をみられ、募金活動に絶大な協力をされた古谷りんさんなど六名の方々と三団体である。いずれも源田実名誉会長から感謝状が手渡された。引き続き第一回海原賞が贈られた。
 式典壇上の右側には、厚生大臣代理、武器学校校長を始め、水交会、東郷会、海交会及び陸軍関係の方々をお迎えし、左側には、当海原会役員と共に、設立時の発起人を代表して、福間知之参院議員(甲13)、小島静馬衆院議員(乙20)の両氏が出席、同窓生として、この海原会の今後の発展を祝し、今後とも、私たち海原会は一切の思想信条を越えて、会の目的完遂に邁進することを誓った。
 ここで、高松宮殿下から、予科練を顕彰するお言葉が財団法人・海原会に賜った。
 このあと、感謝状の受賞者を代表して、古谷りんさんが謝辞を述べた。そして、厚生大臣祝辞(代理松田正援護局長)、全海軍を代表して財団法人・水交会・木山正義会長の祝辞。最後に源田名誉会長から、予科練の事績をたたえるあいさつ(別掲)が行われた。式典の締めくくりは、海上自衛隊東京音楽隊の伴奏で「若鷲の歌」の大合唱、感動の式典だった。


【式典で長嶺会長挨拶】
 畏くも、名誉顧問であらせられる、高松宮殿下、並に同妃両殿下のご臨席を仰ぎ、財団法人海原会の設立記念式典を開催するに当たり、謹んで御挨拶申し上げます。
 財団法人海原会設立の趣旨目的は、今更申し上げるまでもありませんが、大別いたしまして、

第一に 予科練出身戦没者の慰霊顕彰
第二に 英霊の遺徳と予科練の事蹟を正しく後生に伝える
第三に 青少年の善導

この三つを目的に掲げるものであります。
 顧みて、全予科練出身者が一致団結して、去る昭和四十一年五月、霞ケ浦湖畔の聖域に『予科練の碑』を建立し、続いて昭和四十三年、十月同地に遺品、記録等の保存のために、予科練記念館が建設されたのであります。
これを嚆矢として、全国各地の旧予科練教育航空隊の跡地等に、慰霊碑、顕彰碑が建立されてきました。
 これらはすべて先に述べました三大目的の精神に貫かれているものであります。
 私たちは平和日本の礎となった英霊らの声を、しっかりと受けとめて、後世へ伝えてゆくために、法人化への運動を進めてまいったのであります。
幸い、各界各方面の深いご理解と、ご尽力により、昨年十月二十五日、厚生大臣より財団法人海原会の設立が許可になったのであります。
 本日、ここに設立の記念式典を挙げ、英霊にご報告、並びに広く社会にご披露申し上げることが出来ますことを無上のよろこびに存ずるものであります。
 本日のこの式典を機に、私達予科練出身同窓の、二十万名余の全員がこの海原会に参加すること、及び、更に多くの御理解下さる方々が、財団法人海原会に御賛同、御参加下さることを、ひたすら希うものであります。
海の宮様として、私たちが最も尊敬申し上げております、高松宮殿下、並に同妃両殿下の御臨席を得て、とり行われますこの式典に際し、私達は本日の感激をいつまでも忘れることなく、一丸となって目的完遂に邁進し、次の世代への継承が立派にできますよう、努力することをお誓いするものであります。
 何卒私達の微意をおくみとり賜わり、関係各官庁を始め、旧海軍関係の諸先輩、並にご理解下さる方々の、一層のご支援とご鞭燵を切にお願い申し上げると共に、本日の式典にあたり、ご協力を頂きました皆様に、心から御礼を申し上げて、御挨拶といたします。


【源田名誉会長挨拶】

 “英霊の遺志に報いたい”

源田実名誉会長挨拶

 高松宮両殿下のご臨席の下に、予科練を統合した財団法人・海原会設立記念式典が行われるに至りました。これに関係された長峯会長及び予科練の人々の非常など尽力に対し、感謝をすると共に、この設立の意義が甚だ深いものに感銘を覚えるものであります。
 さる大東亜戦争において予科練出身者は、名実ともにわが海軍航空の中核をなしていました。多くの人が散華され、その功績は、敗戦の今日といえども、決して消えるものではありません。
 殊に、戦争末期のあの特攻隊。これは人類の六千年に及ぶ長い歴史の中で、洋の東西を問わず、時の古今を問わず、大東亜戦争末期のわが日本民族のみがやったことであります。
 戦後、こうして戦死した英霊に対し、「無駄死ではなかったか」という人たちがいます。私は絶対に違う、戦争の勝敗とはまったく関係がない、と断言してはばからないのであります。
 およそ、国のため、民族の生存のため、百%の死におもむくということぐらい、尊いものはないのであります。
 この尊い精神が、日本の民族を救い、国家を救い、また人類に終局的平和を、これがもたらしたものと私は信じています。
 どうか、あの英霊のご遺志を、絶対に無にしないようにしていただきたい。そうして、終局的人類の平和に向って適進したいものであります。これが、英霊のご遺志に報ゆるただ一つのことであると考えております。
 どうか皆々様方も、英霊のご遺志のために、今後とも財団法人・海原会に、ご協力をお願いして、私のごあいさつといたします。

(海原会機関誌「予科練」38号 昭和54年9月1日より)

 予科練の所在した陸上自衛隊土浦駐屯地にある碑には以下の碑文が残されている。

 「予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。

 太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。

 昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争に於ては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。

 創設以来終戦まで予科続の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈って、ここに予科練の碑を建つ。」

昭和四十一年五月二十七日

海軍飛行予科練習生出身生存者一同

撰文    海軍教授 倉町歌次


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