名機零戦を語る《座談会》(前編)
ゼロ戦が、日本の大空から消えて三十四年。太平洋戦争で勇名をはせた、あの名機がエンジンの音も軽ろやかに故郷へ戻って来た。「ゼロ戦故郷を飛ぶ実行委」の尽力で、わざわざ海の向こうから“日本人の魂”を運んで来たものだ。戦争を知らない世代が、人口の半分以上を占めるようになった今日、さすがの、敗れを知らなかった“勇者”も戸惑い気味だった。そこで、ゼロ戦とゆかりの深い、実行委の方々をはじめ、源田実参議院讀員、実際にゼロ戦を駆って空をかけめぐった方々にお集り頂いてゼロ戦を語ってもらった。(原文は長文のため、前・後編の2回に区分して掲載。今回は座談会の前編)
司 会: 長峯良斉会長長
参加者: 源田実(名誉会長、参議院議員)、加藤博明(映画「還らざる勇士たち」制作者、零戦故郷を飛ぶ実行委員会委員長)、富永泰史(?)、佐々木原正夫(甲四期)、三上光雄(乙十期)、谷水竹雄(丙三期)
長峯
「ゼロ戦を語る」というテーマで、皆さんに大いに語っていただきたいと思います。まず、源田先生どうでしょう。ゼロ戦について
源田
零戦で飛んで戦争をした大多数は若い人。僕たちが働いたのは九六戦ころが主なんです。もちろん、零戦、いや艦上戦闘機だなあ、これで飛んだし、また試作にもたずさわったが、実際に使ったのは予科練などの若い人達。
それはそれとして、この戦闘機の同じ設計者、あの有名な堀越(注:堀越二郎。三菱重工業の技師。映画「風立ちぬ」のモデルとも言われている。)さんは九六戦を設計している。その一つ前に七試単戦を設計して、それを土台に九試単戦・九六式艦上戦闘機をつくった。そうした上で零式艦上戦闘機が出来上っている。
堀越さんは、相撲なら大相撲をとる人といえる。こんなエピソードがある。岐阜の各務原の飛行場であの人に戦闘機のカジの利き具合を、パイロットとして数字で表わせないようなことを要求したことがある。
「ステックをぐっと引く時、豆腐にカスガイを打ち込むような抵抗のないものは困る。例えば木の中にネジを切り込むような適度な抵抗があるようにつくって、と要望した。ところが設計者にはわからない。根堀り葉堀り聞いてくる。どういう具合なのか、感じをいってくれというのだナ。それをなんとかして設計の中に生かそうと苦心した。僕はあの人に感謝している。
話は変わるが、九六式は大陸の空中戦で強かったが、残念ながら航続距離がなかった。海軍では航続距離もそうだが、空中戦闘の性能のいいのがほしくなり、単座と中攻を護衛する長距離戦闘機をつくった。零戦の方は、それほど考えていなかった。ところが、実験部の方で「単座でもいける」といい出した。そのため、零戦の航続力を伸ばす実験をやり、あの零戦が生まれたのだ。お陰げで長距離戦闘機の「月光」が、夜間戦闘機となったんだ。
実験中に重大な事故があった。衆院議員の二階堂先生の弟が雰戦でダイブしたところ、翼端が千切れた。落下傘で脱出したら原因がわからないからと、非常な苦労をして木更津に不時着したことがある。この話を聞いて、横空にいた下川万平という実験担当の男が「そんなことは絶対にない」といって実験機に乗ったが、やはり翼端が千切れて、彼はその犠牲となってしまった。 こうした尊い犠牲の栢み重ねで、あの素晴らしい零戦が生まれたといえる。このお陰げで、大戦中に雰戦の空中分解事故は一件もなかったはず。
長峯
その下川さんの話は有名な話です。聞いていました。
源田
彼がいなかったら、あれだけの零戦は完成していなかったかも知れない。
佐々木原
私は昭和十六年九月から空母翔鶴に乗せられ、八ワイ空襲をはじめラバウル作戦、サンゴ海々戦。――その後、翔鶴が甲板をやられたので瑞鶴に乗り、十八年二月の転進作戦で空戦中に負傷。今度はゼロ戦の領収飛行を紫電、雷電を含めてやったのです。ですからゼロ戦にはざっと一六〇〇回乗っています。海軍でも一番多い方でしょう。なにしろ領収飛行、空輸飛行というのは、一日に十五・六機に乗るのですから・・・
とにかく、出来上ってからのものですから、安定性、信頼性のある飛行機でした。他の飛行機に比べ抜群。ゼロ戦に乗っておれば、相手が二機、三機でも十分に立ち打ち出来るという自信がありました。もちろんこれは、海軍の訓練の裏打ちがあったからでしょうが――。名機でした。
三上
さっき源田先生が九六戦のカジの具合のことに触れていらっしゃいましたが、ゼロ戦のお手本となったこの飛行機、非常にカジの利き具合はよかったですね。最初大分で練習したのですが、単座だもので(もっともあとで複座ができましたが)教官は下で見ている。ハラハラして見ていたようです。ある日、宙返り、ロールを繰り返すうち、二回続けて回ったのです。二回続けてもカジがよく利くので。ヒシャリと止まる。陸上へ戻ったら「ちょっと・・・」。何だろうと思ったら「今日は何回続けて回った?」の質問です。「あまりよくキマルので、二回続けて回りました」と答えたら、「自覚して回ったのならよし。今後無理するな」で終わった。源田先生がさっきいっていた、あの手ごたえがある。安定性、カジの利きは他の飛行機にないものでした。
源田
そこでちょっと付け加えたいのだが、ジェット機は動力でそれをやるので、その感じが出ない。零戦は人工的にある感じをわざわざ作ったパイロット向きの飛行機だった。これが故障したらバカみたいなものになった。よっぽどうまい者でないと――
長峯
山本長官機の護衛機で負傷され存命中の柳谷さんから紹介された同期の谷水さんいかがですか。
谷水
同期でした。ゼロ戦といえば九六戦から私もゼロ戦にはいったわけですが、抵抗なくスムーズにはいっていけましたね。うれしかったですよ。ゼロ戦の性能はよく、特に地上滑走はよかったなあ。回されることが全々ない飛行機だったです。いろいろな作戦に参加したのですが、ゼロ戦を思うように動かすことができました。こちらの動きに応えてくれる飛行機でした。
長峯
ゼロ戦が実用化されたのはいつごろですか?
源田
それは(昭和)十五年の秋だったろうか。実戦に使ったのは重慶爆撃だった。あそこで護衛して行った。そのヒマに銃撃をやって大成功をおさめたので、以後、零戦をつかって銃撃を、というようなことになったと記憶しているよ。空戦の形態、爆撃行の形を変えたんだ。
長峯
着艦の性能はいかがでしたか・
佐々木原
エンジンがでかいから座席を上げなければ前が見えなかったなあ。でも九六戦の方がひどかった。九六戦より着艦は楽だった。
長峯
ところで、あの飛行機ゼロ戦なのですか、それとも零(レイ)戦なのでしょうか。
源田
レイ戦だな。ちょっと前になるが、入間川(埼玉)芝地に旧海軍の古手が集った時、私も拶挨に行った。その連中は盛に「ゼロ戦」を連発していたが、私が「ゼロ戦」と口にしたら、軽蔑してやろうということになっていたらしい。ところが私は「零(レイ)戦」といったんだ。みんな喜んでいたな。
長峯
あれはゼロ・ファイターから来たものでしょう?
源田
アメリカの当時の電文を見ると「チェイス・バイ・ゼロ」(ゼロ戦に追われている)といといっていた。
長峯
佐々木原さんは紫電にお乗りになったそうですが。
佐々木原
ええ、四号機から乗っていました。
長峯
零戦には空戦フラップがなかったのですが、紫電改にはあった。そのへんの性能の比較はどうでしょう。
佐々木原
空戦フラップは加速した場合、紫電の方が重い。つまり加速が非常によくつくのです。加速がついた場合旋回半径が大きくなる。空戦は、格闘戦という意味で旋回性能を小さくしなければならない。そのために空戦フラップがついた。紫電改になってからよくなった。
源田
話は変わるが、まだ開戦前、ドイツと戦っていた英国から帰って、向うでの情況を軍令部で報告したことがある。私は「英国人というのは、ウデは大したことはないが、負けても負けてもやる民族だ」といった。「ひょっとすると最後には勝つかもわからん」とまでいった。そうしたら評判が悪くなったネ。(笑)
もう一つ。零戦が何故強かったかというナゾを解くのに防御がなく軽かったという点がある。パイロット達は「陛下の飛行戦をいただいて、自分だけ助かろうなどと思っていない」などといっていた時代だから。ところが、いざ戦闘となって、B17などは後ろからいくら撃っても撃っても駄目なんだな。防御はしっかりしているし、防弾ガラスまでつけていたから。零戦以降は紫電改から防御がついて、実戦ではえらく強くなったそうだ。
加藤
興味ある話ですね。
〔後編に続く〕
写真は零式艦上戦闘機22型 Wikipediaより
(海原会機関誌「予科練」28号 昭和53年10月1日より)
予科練の所在した陸上自衛隊土浦駐屯地にある碑には以下の碑文が残されている。
「予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。
太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。
昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争に於ては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。
創設以来終戦まで予科続の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈って、ここに予科練の碑を建つ。」
昭和四十一年五月二十七日
海軍飛行予科練習生出身生存者一同
撰文 海軍教授 倉町秋次
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