第6回毎月短歌 井口可奈選
第6回毎月短歌についてはこちらをご参考ください↓
こんにちは、はじめまして、井口可奈です。人間選者をやるのははじめてで、わたしは人間ではあるとたぶん思うんですが、選者にむいているかはわかりません。
選者!!!というよりは、すきだな〜とか気になるな〜と思った歌を紹介したいと思います。
<2024年の自選3首より>
ほんのりとただ、熱源のあるものと認知されてるだけでいいです/夭夭雷
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熱源という言葉の選び方にすこしの矜持を感じました。大きく言うと、自分のことをあったかいもの、生きているものとして思ってくれていいという意味合いだと思うのですが、そこにもうすこし強い思いがあって「熱源」というあたたかさをやや強く表す語が使われているように感じます。「ほんのりとただ」「だけでいいです」という、弱めたり、ある意味投げやりな言い方にも逆にもっと認知してほしいという思いが隠れているようにとれるかもしれません。言葉の裏側をたくさん考えてしまう歌だと感じました。
弱い自分は嫌いかとスマトラトラがトラをひとつ私にくれた/宇井モナミ
トラは強くて、そんなトラが自分の名に含まれているトラを分けてくれるというのはすごい強さをもらえることなのかもしれません。スマトラトラはトラが2つ入っているからひとつあげても大丈夫、ではなくて、スマトラ、になってしまって別のものになってしまうし、スマトラトラは絶滅が危惧されている種なのですが、それでもトラをくれるというスマトラトラの心の強さを考えてしまいます。弱い自分が主体であるけれどわたしはどうもスマトラトラの強さについてつよく思ってしまいました。
取り壊し決まったビルに忍び込む夜を相手に一人芝居を/小久保柚香(こくぼ ゆずか)
https://twitter.com/littlekubo
下句がかっこよくて、それが浮かないのは「取り壊し決まったビルに忍び込む」という上句がちょうどいい強度なのだと思います。一人芝居ってどんなことをするのだろうと想像したときに、とても勢いのあるダンスとか激しい激情的な芝居ではなく、相手が「夜」なので、案外に静かなものなのではないでしょうか。けれど、取り壊しが決まったビルへの思いはこもっている。手の動きが夜を切っていく。
1行で綴り続ける日記には乙女も母も勇者も活きる/古城えつ
日記はシンプルな方がいいというのを、武田百合子『富士日記』、林芙美子『放浪記』などを読むと思います。
一行で書かれる日記はきっととてもシンプルなのでしょうけれど、その中にはいろいろな登場人物がいて、実在する人物だけとは限らないのかもしれません。「乙女」「勇者」これらは実在人物を示す比喩かもしれず、あるいはほんとうに乙女や勇者を表している可能性もあります。どちらともとれるけれど、真ん中に実在人物であろう「母」をおいていることから、わたしはほんとうの乙女とか勇者、つまり実在ではない人物が日記の中で冴え渡っているという雰囲気を受け取りました。
祝福を受けてゐたのはわたしではなくてわたしのみみたぶだつた/高田月光
https://twitter.com/v8QdMu8WOfj9vbi
祝福は神の恵みを受けること、となんとなく理解していますが、この歌においてはたとえば幸福なこと、喜ばしいとされること、ととってもいいのかもと思います。でも神の方がいいよな…神にみみたぶだけ祝福受けていたの切なすぎるもんな…!
わたしの個人的な体験で恐縮ですが、シンガポールに行ったとき弟のみみたぶが福耳であることをすごく褒められていて、わたしは悔しくて耳を毎日引っ張っていたら福耳になりました。なってみてわかったのはそれに意味がないってことでした。一時的な祝福なのだとしたら福耳を褒められている歌みたいに読めるかもしれません。でも神の祝福をみみたぶだけで受けていた方がいいな…
クリームをたつぷり掬ふ ひだりてをあなたととりかへる夢をみた/高田月光
https://twitter.com/v8QdMu8WOfj9vbi
同じ方のをもう一首。わたしは作者を見ずに選んでいます。クリームを掬っているのはどちらの手なのだろうって思います。それは右手なのかもな。左手ってあんまり使わない手(右利きの場合です)であり、なんとなく神秘的なイメージがあります。右利きの方がおそらく多数派で、左手はあまり使わない。その、普段使わない方の手を交換する。取り替えた左手をときどき使うとき、自分のものではないのだ、といつも思い出すのかもしれないですね。わたしの左手って誰の手だろうっていま見てしまいました。
ザリガニの身振り手振りから察するにどうやら僕は好かれていない/深山睦美
https://twitter.com/57577_77575
ザリガニの身振り手振りが自分に向けられたものだと感じるところがこの主体のいいところで、ザリガニの動きを自分に向けられているものだとあまり思わない気がするのです。ただそれは一般的には、の話で、この歌の中ではザリガニと僕はきちんと向き合っていて、ザリガニの動きを身振り手振りであると(擬人化的に)受け取って、その多少やうごきかたで「好かれていない」と結論づけることができるくらいザリガニをじっと見てるのってキュートだと思います。好かれていないという結論にあまり悲しさがなくちょっとユーモラスに感じるのはわたしの甲殻類を面白いと思うフィルターのせいかもしれません、すいません…!
バトンパスしてよマーブルチョコレートひとはひとつを選びとれない/空似ほうる
https://twitter.com/hole46throw
マーブルチョコレートの入れ物はバトンの形をしていて、それをパスするという状況がある。また、マーブルチョコレートの多様な色合いに、悩んでしまってひとつのものを選び取れないという状況がある。二つの状況を繋いでいるのはマーブルチョコレートで、ひとつはその面白さを感じました。
回し喰い(みんなでお菓子を回しながら食べている)という景も見えます。はやくマーブルチョコレートを渡してよ、というときにどれを選ぶか悩んでしまうというのはあることですね。わたしは黒いのばっかり食べます。つまんないやつ!!
端正なものから失われる町にみんなの墓がどうしてもある/石村まい
墓ってどのくらい端正じゃないんだろうということを思います。〇〇家、みたいな長方形の灰色のお墓って端正っていうかんじではないですよね。でもそういうお墓がこの歌からは見えてこなくて、シンプルな墓な気がする。十字架みたいな形とか、ただ棒を刺してるだけとか、石であっても盤面にいっぱい文字が書いてある英国タイプ(イメージで言ってるので違ったらごめんなさい)のものかなって思います。
そういうことではなく、ものはどんどん消えていくけれど人は消えていかないから、ほんとうのほんとうに最後に残るのは人の死んだ証だけであるっていうことなのかもな。どうしてもある、という言い振りがいいなと感じました。消えない、消せない、ものとしての、どうしてもある。
<テーマ詠「肌」>
皮にこそ栄養があるらしいので肌も捨てずに味わわせたい/伊津見トシヤ
野菜の皮にこそ栄養があるって言いますよね。肌も捨てずに味わわせたい、という言葉は体を触れ合わせる関係の相手に対するものなのかもしれないなと思います。一般的には(人間の)肌は捨てないけれど、そのことを自分を捨てることにかけていて、肌がどんなに変化していっても自分のことを味わってほしい、みたいな意味合いかと捉えました。
味わってほしいというフレーズをいま使ってしまいましたが、味わわせたい、というところが意志の強さあるなと思います。
広辞苑片手に書いた恋文は肌感覚でかすかに黒い/短歌パンダ
https://twitter.com/tankapanda
本当に黒いわけじゃなくて、黒い(ぎっしりしている?)ような感覚を覚えるような恋文ができたということなのだと読みました。
たとえば筆記具が鉛筆とかだと手が擦れて手や恋文自体が少し黒くなることもあると思います。ただ、そういうことではなくて、「広辞苑」をひいて書いていることがなんとなくの黒さをひいてきていると思いました。そのなんとなくの黒さってうつくしい。
「鍋肌に回し入れる」ということをきみの彼女にしてあげてくれ /小石岡なつ海
テーマ詠においての肌の使い方っていろいろあっておもしろいなとみなさんの短歌を拝見して思います。鍋肌に回し入れるというのは料理の工程で、鍋のふちからゆっくり回しながら流し入れるというようなことであると理解しています。そのような丁寧さとやさしさを彼女にもかけてあげてほしいという気持ち、また、それを自分ではなく彼女にしてあげてほしいという一段階のひねりがいいなと思いました。作中主体と「きみ」の関係性はわかりませんが、料理をするのを見るくらいに親しい関係なのかもしれません(その場に立ち会っているという描写はありませんが、料理ができる「きみ」という像は立ち上がってきます)。
<総評>
たくさん投稿があってとても嬉しかったです!!!評を書くこともたのしくて、ただあくまでわたしの読みなので誰もに共通するものではないと思います。なんかへんなこと言われてる!と思ったらごめんなさい…
もっとたくさん取り上げたかったのですが人間には限界があり、他の選者のみなさんに譲ります。
テーマ詠「肌」には肌の色をうたったものが多く、問題意識に満ちたものもありなるほどなと思いました。
肌がなくなるまで雨を浴びているわたしの祈りは祈るだけ。だけど/井口可奈