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カフカの『掟の前で』―生きなかった男の話

カフカの有名な寓話『掟の前で』を訳し、解釈してみた。

書かれたのは1914年。長編小説『訴訟』の「大聖堂にて」の章の一部だった。『訴訟』が未完に終わった後、独立した短篇として雑誌に発表された。1920年、短編集『田舎医者』に収められた。

カフカ『掟の前で』

 掟の前に一人の門番が立っている。この門番のところに、田舎から一人の男がやってきて、掟への入場を頼む。しかし門番は、今は入場を認めることはできない、と言う。男は熟考してから、では後でなら入場は許されるのでしょうか、と尋ねる。「それはありうる」と門番は言う。「だが今はだめだ。」掟への門はいつもどおり開いたままになっており、門番が脇によけたので、男は門を通して中を見ようとかがむ。それに気づいた門番は笑って言う。「お前がそんなに惹かれるのなら、俺の禁止にかまわず思い切って中に入ってみるがいい。だが、いいか、俺は強いぞ。そして俺はいちばん下っ端の門番にすぎない。広間ごとに門番が立っている。先に進むほど強くなる。三番目の門番を見ることさえ、俺にはとても耐えられない。」そんな困難があるとは田舎出の男は予想していなかった。掟には誰でも、そしていつでも到達できるはず、と彼は思うが、改めて毛皮のコートを着た門番を、その大きなとんがり鼻を、その長くて薄いタタール風の黒髭をしげしげと眺めてみて、入場許可が得られるまで待つほうがいいだろうと心を決める。門番は彼に腰掛けを渡し、門の横に座らせてくれる。何日も、そして何年もそこに座ったままでいる。入れてもらうためにいろいろ手を尽くし、幾度もお願いしますと言って門番を疲れさせる。門番はしばしば彼にちょっとした聞き取りを行い、彼の故郷のことやほかの多くのことをあれこれと尋ねる。でもそれは上の者が下の者にするようなどうでもいい質問だ。最後に門番はいつも同じように、まだお前を入れることはできない、と言う。旅にそなえていろんなものを携えてきた男は、門番を買収するために、何もかも投げ出す。たとえそれがとても価値のあるものであろうとも。門番のほうはすべてを受け取るが、そのさい、「わしがそれを受け取るのは、ただ単に、やり残したことがある、とお前が思わないようにするためだ」と言う。何年もの間、男はほとんど間断なく門番を観察し続ける。彼はほかの門番たちのことを忘れる。彼にはこの最初の門番が掟への入場を阻む唯一の障碍のように思われる。彼は不幸な偶然を呪う。最初の数年ははばかることなく大声で、年を取ってからはただぶつくさと独りごちるだけとなって。彼は子供じみてくる。長年にわたる門番研究で、彼の毛皮の襟に蚤たちが潜んでいるのに気づいていたので、蚤たちにさえ、門番の考えを改めさせるのを手伝ってくれるよう頼む。ついに彼の眼が弱ってくる。そして自分の周りが本当に暗くなってきているのか、それとも眼が自分を欺いているにすぎないのかがわからなくなる。それでも彼は今、暗がりの中、掟の門から消えることなく差し込んでくる一条の光を認める。もう永くないのだ。死を前にして、これまでの年月に経験したすべてが彼の頭の中で凝集し、まだ門番に向かって発したことのない一つの問いとなる。彼は門番を呼び寄せる。こわばりつつある体をもはや起こすことができないからだ。門番は、彼のほうにぐっと屈み込まなければならない。というのも、高さの差があまりに大きくなってしまっていたからだ。「今になってまだ何を知りたいのだ?」と門番は尋ねる。「満足することを知らない男だな。」「みんな掟を求めているのに」と男は言う、「この長い年月、いったいどうして、私のほかに誰も入場を求めてこなかったのですか?」と言う。門番は、男がもう死の間際にいることを認識する。そして、聞こえなくなりつつある男の耳になお届くようにと、声を張り上げて言う。「ここからはほかの誰も入ることはできなかったのだ。というのも、この門はただお前だけのものだったからだ。では、門を閉めてこよう。」(ヨジロー訳)

読後感

特に何もすることなく、ずっと掟への入場許可を待ち続ける男。門番とどうでもいい言葉をやり取りし、賄賂まで贈るが、何の成果も得られない。いたずらに人生の時間を過ぎるにまかせる。そして一人で死んでいく。

「では、門を閉めてこよう。」

この門番の言葉は男の耳にどんなふうに響いただろうか。それは死んでいく男をさらなる絶望へと追い落とすものだったのではないか。そして男の意識をよぎったのは、自分が自分で自分の人生をまったく無駄にしてしまったという思いではないだろうか。

この寓話が具体的に何を意味しているかはわからなくても、読み終えると寂しい気持ちになる。

門は人生の門

門とは何なのか。

それは男の人生への門だ。

門番は最後に言う。

「この門はただお前だけのものだった」

それぞれの人にそれぞれの人生がある。男の目の前にあった門は、男にとって自分の人生への入口だったのだ。

男は自分の人生の門をくぐることなく、その門前にとどまったまま、死んでしまったのだ。

掟の世界とは?

人生への門は掟の門と言われている。掟の門とは何なのか。

門があって、門番がいる。門を通り抜けると広間に入る。広間の向こうにはまた別の門がある。そしてそこにも門番がいる。そこを入るとまた広間に出る。その向こうには第3の門番がいる。それが延々と続く……。そして、先のほうにいる門番ほど強い。

門の向こうはそんなふうになっているようだ。

人は人生において、さまざまな領域を通り抜けていく。さまざまな共同体に属していく。そのことを言っているようだ。

大人になれば職に就く。会社や役所という共同体に属する。結婚すれば、家庭とそれを取り巻く親族の共同体に加わることになる。政治的・社会的団体、宗教団体、芸術の流派などに所属する場合もあるだろう。

生きていくことは、何らかの共同体に参加していくことだ。

そしてどのような共同体にも何らかの「掟」がある。明文化された規則、不文律の取り決めや約束事などだ。

共同体に属するということは、このような「掟」に従って生きていくということだ。

共同体はまた、権力的ヒエラルヒーの世界でもある。役職や階級章によって可視化された上下関係もあれば、不可視の微妙は力関係もある。

そして共同体が用いる言語習慣や振る舞いを習得し、それを巧みに駆使する人間がその共同体内部で力を得ていく。

共同体に属して生きていくということは、そのような戦いの世界を生きていくということだ。

門番とは?

では門番とは?

共同体に入場するためのハードルとなっているのが門番だ。

会社に入るためには就活が必要となる。結婚し家庭を築くためには婚活をしなければならない。そして就活や婚活には厳しいハードルがある。

会社の中で戦力になる人間であるか、家庭をしっかり率いていける人間であるかどうかが厳しく問われる。

共同体の中で戦える人間だけが、ハードルを乗り越えることができる。

門番は言う、「俺は強いぞ」、「先に進むほど強くなる」と。共同体に属するには、門番を乗り越えるだけの<強さ>が求められるのだ。

一条の光

だが、掟の世界は苦しい戦いだけの世界ではない。掟の門からは「一条の光」が差し込んでくると言われている。そこには<喜び>もある。仕事の充実感、家庭の幸福などだ。だからこそ、男は最後まで入場を望み続けたのだ。

掟の世界のまとめ

掟の世界とは人生そのもののメタファーだ。カフカは人生を、門番が立つ掟の世界として単純化し、抽象化している。

門番はなぜ男の入場を拒むのか?

門番は男の入場を拒む。どれだけ懇願しても入れてくれない。門はその男だけのものだったのだから、入場を許さないのはあまりに理不尽ではないか。誰しもそう思う。

だが、どんな共同体もすっと入り込め、中にいる誰もが歓迎してくれるやさしい世界ではない。そこを生き抜いて行くにはそれなりの強さが必要だ。権力的ヒエラルヒーへの耐性が不可欠であり、ヒエラルヒーをのし上がっていく強引さも求められる。

田舎出の男にはそのような強さが欠けている。「今はだめだ」と言われて、男は待つことを選ぶ。

掟には誰でも、そしていつでも到達できるはず、と彼は思うが、今毛皮のコートを着た門番を、その大きなとんがり鼻を、そのタタール風の長くて薄い黒髭をしげしげと眺めたとき、彼は、入場許可が得られるまで待つほうがいいだろうと心を決める。

男は門番の風貌を眺め、恐れを抱く。ここには権力関係が見られる。男は門番の下位に立ってしまったのだ。それがすでに、掟の世界で生きていく資格を有しないということだ。

どうすればよかったのか?

では、男はどうすればよかったのか?

本文中にその答えがある。

俺の禁止にかまわず思い切って中に入ってみるがいい。

つまり、たとえ門番が許可してくれなくても、強引にその門をくぐればよかったのである。奇妙なことに、強引に門をくぐることが、その門をくぐる資格を持っていることの証なのだ。

もっと成長してから、もっと十分な強さを獲得してから、と待っていれば、永遠に入場することはできない。

だが、強引に門をくぐることがどうしてもできない人もいる。

この寓話はそれができなかった男の話だ。人生の門への入場許可を待ち続け、そして人生を終えてしまった男の。

門番はカフカの父親

この寓話は、カフカの人生と深く関連している。

田舎出の男はカフカであり、門番はカフカの父親であると言える。

『父への手紙』に縷々述べられているように、カフカの父親は、暴力こそ使うことはなかったが、その言動によって家族を威圧しつづけた。子供のカフカは父親の理不尽なふるまいに恐怖を覚え、圧倒的な権力の前で萎縮した。

大人になってからは、現実の父親というより、息子の中に凝り固まった父親コンプレックスが大きな役割を果たした。父親はカフカにとって永遠の壁となった。世の中の人々と交わることを怖じけさせ、女性と結婚することを妨げた。

門番は言う。

「だが今はだめだ。」

これは、お前はまだ未熟だ、というカフカの父親による息子への評価である。田舎出の男が何度「お願いします」と頼んでも入場を許可してくれない。父親にとって息子は永遠に未熟な存在なのだ。一人前の男と認めず、大人社会への息子の入場を阻む。

「お前がそんなに惹かれるのなら、俺の禁止にかまわず思い切って中に入ってみるがいい。だが、いいか、俺は強いぞ。そして俺はいちばん下っ端の門番にすぎない。広間ごとに門番が立っている。先に進むほど強くなる。三番目の門番を見ることさえ、俺にはとても耐えられない。」

父親による、世間は甘くないぞ、という強烈な脅しである。

何年もの間、男はほとんど間断なく門番を観察し続ける。彼はほかの門番たちのことを忘れる。彼には、この最初の門番が、掟への入場を阻む唯一の障碍のように思われる。

父親と息子の対立はよくあることだ。父親に反抗して家を飛び出す息子は多い。しかし、カフカは父親の家にとどまり続けた。

ブロートは述べている。カフカは「奇妙」なことに大人になってからも、「まったく得られるはずのない父親の同意を何よりも望んでいた」(★1)と。

カフカは、人生最初の関門となった父親と向き合い続けた。そこを乗り越えない限り、先には進めないかのように。

彼はほかの門番たちのことを忘れる。彼にはこの最初の門番が掟への入場を阻む唯一の障碍のように思われる。

カフカが書いたものの多くに、明示的であるにせよ、暗示的であるにせよ、父親がいる。父親は、世の中の権力者の代表なのだ。

掟の門はフェリーツェとの結婚

カフカの人生との関連で見るなら、掟の門はフェリーツェとの結婚を意味するだろう。

カフカは1914年6月にフェリーツェと婚約するが、わずか一ヶ月ちょっとで婚約は解消となる。

結婚が近づくにつれ、カフカは絶望的な気分になっていた。カフカは自分の絶望をフェリーツェの女友達への手紙で吐露した。それがフェリーツェの耳に入った。厳しく詰問され、婚約解消に至る。

フェリーツェとの関係の破綻の衝撃のもとに書かれたのが、長篇『訴訟』や『流刑地にて』である。『訴訟』に取り入れられた寓話『掟の前で』にもその衝撃が大きな影響を及ぼしている。

これら長短の作品がめざしているのは、なぜ自分はフェリーツェと破綻せざるを得なかったのか、という問いに対する答えを得ることである。

どのような答えが得られたのか。

結婚することは、単に二人が結びつくということではない。世間という交際の世界、さまざまな慣習が支配する世界で生きていくことだ。一家の長としての責任を担うからには、社交の世界での言動を身につけ、それ相応の生き方をしていかなければならない。つまり、「掟」の世界に入場することになる(★2)。

カフカはそれを恐れた。幼い頃から父親によって植えつけられた不安が、カフカを萎縮させたのである(★3)。

まとめ

『掟の前で』は、共同体に加わることができず、人生への入場を果たすことなく人生を終えてしまう男の絶望を描いている。

そこにはカフカ自身の体験が反映している。

フェリーツェとの婚約解消の後、カフカは自分の未来を想像し、自分の最期を思い描いたのだ。自分も田舎出の男と同じように人生を終えるだろう、と。

★1:Brod, Max: "Über Franz Kafka", Frankfurt a. M. 1980, S. 35.

★2:カフカはフェリーツェを<世間の代表者>と呼んでいる。Kafka, Franz: "Nachgelassene Schriften und Fragmente I", Kritische Ausgabe, hrsg. v. Malcolm Pasley, Frankfurt a. M. 1993, S. 402.

★3:『父への手紙』でカフカは、自分は「精神的に結婚する能力がない(geistig unfähig...zu heiraten)」と述べている。Kafka, Franz: "Nachgelassene Schriften und Fragmente II", hrsg. v. Jost Schillemeit, Frankfurt a. M. 1992, S. 208.

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