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カフカの性描写(2)―『訴訟』より

カフカの性描写(1)」で、カフカの最初の長編『失踪者』における性描写を見た。

カフカ第2の長編『訴訟』にも性行為はある。ただ、ここには直接的な描写はない。

悪いことをした覚えもないのに逮捕され、訴訟に巻き込まれた『訴訟』の主人公ヨーゼフ・Kは、叔父とともに、叔父の知り合いの弁護士フルトを訪ねる。

フルトは病気でベッドに横たわっており、レーニという若い女中の看護を受けている。叔父が、たまたま来ていた裁判所の事務局長や弁護士と話をしている間、ヨーゼフ・Kはその場を離れ、弁護士の仕事部屋でレーニといちゃつく。

ヨーゼフ・Kが恋人エルザの写真を見せ、「君と比べて彼女には大きな長所がある。彼女は僕の訴訟のことを何も知らないんだ」と言ったとき、レーニは「そんなの長所じゃないわ」と反発し、張り合うように自慢を始める。

「その人(=エルザ)体に何か欠陥ある?」「体に欠陥?」とKは尋ねた。「そうよ」とレーニは言った。「私には小さな欠陥があるの。ほら」彼女は右手の中指と薬指の間を大きく開いた。指の間には、薄い膜があって、ほとんど短い指の第1関節にまで達していた。暗いので彼女が何を見せようとしているのかわからないでいると、彼の手を引っ張ってそれに触らせてくれた。「自然のいたずらか!」とKは言い、手全体を眺めて付け加えた。「かわいらしいかぎ爪だ!」Kが驚いて彼女の二本の指を何度も開いたり閉じたりするのを、レーニは誇らしい気持ちで見ていた。やがて彼は指に軽くキスをして、手を放した。「まあ!」と彼女はすぐに叫んだ、「私にキスしたわね!」せかせかと、口を開けて、彼女は膝から彼の膝の上に這いあがった。Kはほとんど当惑して彼女を見上げた。彼女がとても近くに来た今、胡椒のようなピリッと刺激的な匂いが彼女から漂ってきた。彼女は彼の頭を抱きしめ、彼の上に身をかがめ、彼の首を噛み、そしてキスした。彼の髪さえも噛んだ。「私に乗り換えたのよ」と彼女はときおり叫んだ、「ほら、今あなたは私に乗り換えたのよ!」そのとき彼女の膝がすべり、彼女は小さな叫びを発した。あやうく絨毯の上に落ちるところだった。Kは彼女が落ちないように抱きかかえた。下にいる彼女のところへ引き下ろされた。「もうあんたは私のもの」と彼女は言った。
 「はい、家の鍵。好きなときに来て」というのが彼女の最後の言葉だった。別れぎわにも無数のキスが彼の背中に浴びせられた。彼が玄関を出たとき(……)(『訴訟』「叔父/レーニ」の章、ヨジロー訳)

レーニの右手の中指と薬指の間には<水掻き>のような膜がある。レーニはそれを、他の人にはない自分の長所としてヨーゼフ・Kに示す。「誇らしい気持ちで」とあるように、彼女は肉体的な「欠陥」を自身の優位性の印と見なしている。ヨーゼフ・Kは「自然のいたずらか!」と驚くが、「かわいらしいかぎ爪だ!」と称える。

実に奇妙な雰囲気の箇所であるが、レーニの天真爛漫な無邪気さが感じられる。またヨーゼフ・Kの反応も読者に悪い印象を与えない。如才なくふるまっているとも言えるが、強い上昇志向を持って他者を上回ることに汲々とし、また女性はと言えば性的欲求の対象としか見ない男であるKのここでの言動は、読者に若干の違和感を与える。Kの肯定的な部分が現れているのだろう。

「はい、家の鍵。好きなときに来て」で始まる新しい段落とその前の段落の間に時間が流れている。この間に性行為がなされている。『訴訟』では間接的に暗示されるだけである。

しかし、<水掻き>をめぐる、夢のように不可思議な箇所には、エロティックなものが強く感じられる。これは性行為を先取りしてイメージ化したものと考えられよう。それにしてもカフカの奇妙な想像力には驚く。

『訴訟』では『失踪者』とは異なり、性行為に対する主人公の嫌悪感は皆無である。これは、『失踪者』のカール・ロスマンがカフカの非社会的自己・無垢な自己を投影した人物であったのに対して、『訴訟』のヨーゼフ・Kがカフカの社会的自己を肥大化させ、偽悪的に歪曲させた人物だからだろう。

レーニにはコケティッシュで娼婦的なところがある。伝記的に見れば、上記の引用にはカフカが一時期通った娼館での体験が反映していると思われる。

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