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ヴェルレーヌの詩「落葉」(上田敏訳)―秋の日のヴィオロンのためいきの

ヴェルレーヌの詩「落葉らくよう」は、フランスでは、「フランス抒情詩の最高水準をゆくもの」(★1)、「初期象徴詩の傑作」(★2)、「ヴェルレーヌの最大傑作の一つ」(★3)などと称えられているとのことだ。

日本でも上田敏の翻訳が名訳として高く評価されている。高校の国語教科書にもずっと掲載されてきた。

ただ、この詩については疑問に思うところも多々あるので、いろいろ調べ、また自分でも考えてみた。

末尾に「補足」として、「ヴェルレーヌの原詩とヨジローの直訳」を載せたので、適宜参照してほしい。

ヴェルレーヌ「落葉」(上田敏訳)

 落葉らくえふ

秋の日の
ヴィオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うらかなし。

鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
こゝかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉おちばかな。

語句の説明

題名「落葉」――原題は、"Chanson d'automne"で、直訳すれば「秋の歌」。ボードレールの「秋の歌」を意識しているとされる(★4)。

ヸオロン――ヴィオロンと読む。バイオリンのこと。フランス語violonのカタカナ表記。

ひたぶるに――ひたすら、もっぱら。

うら悲し――「うら」は「心」と書く。心が悲しい。

胸ふたぎ――「ふたぐ」は「ふさぐ(鬱ぐ)」。胸がふさぎ。

色かへて――「かへる」は「(色が)あせる。(美しさが)衰える」。色あせて。

おもひでや――「や」は詠嘆を表す間投助詞。「~だなあ、~よ」。思い出よ。

げに――感動を表す副詞。本当に。

うらぶれて――落ちぶれて。

ここかしこ――「かしこ」はあそこ。こちらやあちら。あちこち。

さだめなく――一定せず、移り変わりながら。

とび散らふ――「チラウ」または「チロウ」と読む。「ふ」は「反復、継続」を表す助動詞。しきりに飛び散っている。

落葉かな――「かな」は詠嘆を表す終助詞。「~だなあ」。落葉だなあ。

なぜ上田敏は「落葉らくよう」という題にしたのか?

原題は「秋の歌」だ。上田敏自身、この詩のことを「秋の歌」とも呼んでいる(★5)。しかし、訳詩の題は「落葉」となっている。堀口大学は「秋の歌」とそのまま訳している。上田敏はなぜ「落葉」としたのか。

これについてはよくわからない。ただ、推測するに、「秋の歌」ではあまりにも一般的という印象を受けたのではないか。あまりにも漠然としている題だ。和歌にも秋の歌は無数にある。

僕が秋についての詩を書いたとして、それに「秋の歌」という題をつけることはないだろう。個性的な題の気がしないからだ。

それに「歌」は具体的に目に見えるものではない。さりげなく具体的な物の名を詩に冠するほうがスマートではないか。それで詩の中から「落葉」という具象語を取り出したのではないか。「落葉」は、語り手が自分をそれにたとえている重要な語だからだ。

なぜバイオリンではなくヴィオロンなのか?

バイオリンのフランス語はviolon。それをそのままカタカナ表記している。なぜバイオリンとせずにヴィオロンとしたのか。

ヴェルレーヌの原詩の冒頭3行の終わりはそれぞれ、longs(ロン、長い), violons(ヴィオロン、バイオリン), l'automnne(ロトンヌ、秋)となっている。「オン」という音が響き合っている。

こういうのは訳詩ではなかなか表現できない。しかし、上田敏はなんとか日本語でも表現しようとしている。第1連冒頭の3行「秋の日の/ヴィオロンの/ためいきの」は終わりがすべて「の」となっており、調子がいい。また「秋の日の」でも「の」が繰り返されている。noの「オ」が何度も響くのだ。ヴィオロンの「ロン」もそうだ(★6)。

「オ」という母音は深いところから響く暗い感じのする音だ。「秋の日の/バイオリンの/ためいきの」ではもの悲しさが出ない。ヴィオロンの「オン」という音なら寂しげで、「ためいき」らしさが感じられる。

だから、バイオリンではなく、ヴィオロンでなければならないのだ。

誰かが実際にバイオリンを弾いているのか?

僕はずっと、誰かが落葉の舞い散る公園のようなところでバイオリンを弾いているのだろう。そして「われ」がどこかでその音を耳にしているのだろう、と思っていた。

しかし、堀口大学は、バイオリンの音色は秋風の音だと解釈している。堀口大学訳の第1連は、次のようになっている。

秋風の
ヴィオロンの
 節ながきすすり泣き
もの憂きかなしみに
わがこころ
 傷つくる。

これに次のような注釈が付いている。

秋風のヴィオロンの―とした本書の訳に驚く読者があるかも知れないが、原作の字面は単に「秋のヴィオロンの」となっており、日も風も入ってはいない。十年ほど前まで僕も「秋のヴィオロンの」として安心していたが、ふとこのヴィオロンは秋風の音だと気づいた時から、風の一字を加えることにした。(『世界詩人全集8 ヴェルレーヌ詩集』、34-35頁)

これにはびっくり。実際にはバイオリンは奏でられておらず、バイオリンのすすり泣きは秋風のメタファーだというのだ。

諸家の注釈

あわてて、いくつかの本の注釈を調べてみる。

関良一『近代文学注釈体系』1963
原作では「秋のヴィオロン」。秋そのもののなげかわしい趣。秋風にもとづいたイメージと解してよい。(112頁)

ちょっと控えめだ。「解してよい」だから、解さなくてもいいのか? いや、やんわりとそう解してくださいよ、っと言っているのだろう。

▲吉田精一『鑑賞現代詩Ⅰ 明治』1966
なお、このヴィオロンは実際にヴィオロンの音が聞えるわけではなく、形なき存在であり秋のもの悲しい気息を象徴させたもので、敏訳では現実のヴィオロンを印象させる難もあげられます。(319頁)
▲『近代詩鑑賞辞典』1969
(触れていない)
▲『日本の詩歌28 訳詩集』中公文庫、1976
ところでこの「ヸオロン」というのは、秋風をヸオロンの音に譬えたのであって、ヸオロンの音が響いてきたのではない。(33頁)

う~む、強気だ。断定している。

▲亀井俊介・沓掛良彦『名詩名訳ものがたり』2005
(引用者補足:原詩では)秋そのもの(あるいはその化身としての秋風)がヴィオロンとなって、すすり鳴き(訳詞では「ためいき」)するのだ。「秋の日の」とすると、ある秋の日に鳴るヴィオロンの感じが生じるのではなかろうか。(72頁)
▲西原大輔『日本名詩選1 明治・大正篇』2015
「ヸオロンのためいき」は、風の音の比喩。(46頁)

愕然とする。どれもヴィオロンの音を秋風の比喩としている。フランスでもそう解釈されているのだろうか? だが、それを調べるだけのフランス語力はとてもない。ただ、ウィキペディアの「秋の歌 (詩)」の項目の参考文献に次のものがある。

Valérie PEREZ: Commentaire de CHANSON D’AUTOMNE, 2003
http://serieslitteraires.org/site/Commentaire-de-CHANSON-D-AUTOMNE

英語のWikipediaの"Chanson d'automne"の項目でも参考文献に挙げられているので、それなりに評価されているものなのだろう。

Google翻訳で日本語に訳してみる。わけがわからない。ドイツ語に訳してみる。ほとんど完璧だ。すごい!

Valérie Perez(ヴァレリー・ペレーズ)もやはり音楽は風のメタファーだとしている。そうだったのか! みんなそう思っていたのか! 誰かが実際にバイオリンを弾いていると思っていたのは僕だけだったのか! 再び愕然とする。

バイオリンは1挺か?

バイオリンって、ちょうで数えるのだ。知らなかった。鉄砲と同じなのだ。

今回、ヴェルレーヌの原詩を読んでみて、violonがviolonsと複数形になっていることを知った。僕はてっきり、1挺のバイオリンだとばかり思っていた。誰かひとりの人がバイオリンを弾いているのだろうと思っていた。

複数なので、四方からバイオリンの音色が聞こえている、ということになる(★7)。

もちろん原詩で複数形になっているからといって、現実にいくつものヴィオロンがなくてはならないわけではない。しかし、ただ一方からひとすじに聞こえて来るに耳を傾けるのと、一斉に四方から、周囲から、「ヴィオロン」の一語に含まれるO(オー)のおんが象徴する死を悼むような低いが、聞く人の身を包むように聞こえて来るのとは、やはり趣きが異なっている。(泉井久之助『印欧語における数の現象』大修館書店(★8))

バイオリンの音が秋風のメタファーという解釈と併せて考えると、風の音がビュービューうなっている。それがあちこちから聞こえてくる。つまり、複数だ。それがバイオリンのすすり泣きに聞こえる、という意味になる。

バイオリンが複数形となると、確かに実際に弾かれているものとは思えなくなってくる。篠沢秀夫は次のように述べている。

ヴィオリンは複数だからいっぱいあります。たくさんのヴァイオリンが、ガホー、ギーコ、ギーコと鳴ってるわけですね。これが、しかもそれがMonotone(引用者注:単調な)となるでしょう。これは恐らく風ですね。風が吹いているんじゃないでしょうか。(326頁)

講義録なのでくだけた調子だ。(「ガホー」って何だ?)

この記事の末尾に補足として原詩と直訳を挙げているが、日本語で「秋のバイオリンの/長いすすり泣きが/僕の心を傷つける/単調なものうさで」と読むと、「秋のバイオリン」は風の比喩としてもいいのかもしれないが、実際のバイオリンでもよさそうだ。でも複数形のあるフランス語では印象が違うのだろう。

堀口大学は、ただの「秋のヴィオロン」では日本人にはたぶん通じないので、わかりやすく、「秋風のヴィオロン」と「風」を追加したのだろう。これなら誤解がない。

そうだったのか! 衝撃。

だがしかし

だがしかし。ここで思う、僕が解釈し、鑑賞しているのはヴェルレーヌの"Chanson d'automne(秋の歌)"ではない。「上田敏が訳したヴェルレーヌの詩」であって、上田敏の「落葉」なのだ。

ヴェルレーヌの「秋の歌」と上田敏の「落葉」は区別しなければならない。

そこで原詩は無視して、「落葉」だけをもう一度見てみよう。

秋の日の
ヸオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。

僕にはやはりバイオリンは1挺であって、実際にどこかで誰かが弾いているようにしか思えない。それが風に乗って聞こえてくる。そういう情景が思い浮かぶ。「うら悲し」さは1挺のバイオリンの方が出る。そこら中から、「ガホー、ギーコ、ギーコ」ではうるさくてかなわない。

上田敏の「落葉」を鑑賞しているのだから、それでいいのではないか。

と開き直ってみるが、やはり誰かの支持もほしい。そこで、大家の発言を再度見直してみると、吉田精一が次のように述べていた。

なお、このヴィオロンは実際にヴィオロンの音が聞えるわけではなく、形なき存在であり秋のもの悲しい気息を象徴させたもので、敏訳では現実のヴィオロンを印象させる難もあげられます。(『鑑賞現代詩Ⅰ 明治』、319頁)

亀井俊介も次のように書いていた。

「秋の日の」とすると、ある秋の日に鳴るヴィオロンの感じが生じるのではなかろうか。(『名詩名訳ものがたり』、72頁)

そうなのだ。「秋の日の」という訳では、やはり実際のバイオリンがイメージされるのだ。だから僕の理解は間違いではないのだ。

「秋のヴィオロン」ではなく、「秋の日のヴィオロン」となった時点で、ヴィオロンは比喩ではなく、現実のものとなったのだと考えてもいいのではないか。

でもどうして上田敏は「秋のヴィオロン」とせずに、「秋の日のヴィオロン」としたのか。

『日本名詩選1 明治・大正篇』の西原大輔が教えてくれる。

五音にするために「日の」を加えた。(46頁)

なあんだ、そんなわけだったのだ。

上田敏の「落葉」は、ヴェルレーヌの詩の「翻訳」を超えて、もう日本人のものになっている。これまで多くの日本人に愛唱されてきたのだから、日本人のものと言ってもいいのだ。みんなヴェルレーヌの原詩を知らずに、独立した詩としてこんなにも長い間、味わってきたのだから。

ということで、フランス語の原詩を忘れて、上田敏の「落葉」だけを注視してみよう。

「落葉」では、具体物として、第1連ではヴィオロンが、第2連では鐘が、第3連では落葉が登場している。それぞれの連で一つの「物」を取り上げ、それらの物を通じて秋の寂しさを感じさせている。

短歌で考えれば、それぞれの連がそれぞれの物をモチーフにした一つの歌になるだろう。

もう一つ。バイオリンも鐘も落葉もすべて音を立てる。「ヴィオロンのためいき」が「鐘のおと」が耳に届いてくる。「とび散らふ落葉」からは、飛びながらぶつかりあう枯葉の音、路上を転がる落葉の音が聞こえてくる。この点でも、詩に統一性がある。

以上の点から見ても、ヴェルレーヌの「秋の歌」はいざ知らず、上田敏の「落葉」では、バイオリンは比喩ではなく、現実のものと受け取る方がいいと思う。

なぜ「鐘のおとに」だけ六音?

上田敏の訳詩は各行が五音で構成されている。しかし、第2連第1行の「鐘のおとに」だけは六音で、字余りだ。どうしてなのだろう?

これについて西原大輔は、「五音の『鐘のねに』とせず、敢えて破調六音で切迫した感情を表現した」(46頁)と述べている。これが正しいのかはよくわからない。

「おと」はotoなので、oが続く。ひょっとしたら、第1連の「オ」をここでも響かせたかったのか。

「鐘のおと」とは?―ヴェルレーヌの「秋の歌」の場合

ところで、鐘の音とは何か。舞台はヨーロッパなので、教会の鐘の音であることは確かだが、何か特別な意味があるのか。また、第2連全体はどのような意味なのか。

まず、ヴェルレーヌの「秋の歌」の方から見ていこう。ヨジローの直訳(末尾の補足参照)では次のようになっている。

時を告げる鐘が鳴ると
息がつまり 顔は青ざめて
かつての日々を思い出し
僕は涙ぐむ

諸家の解釈を見てみよう。

▲関良一『近代文学注釈体系』1963
「鐘」は教会の鐘の音で、それは純真な幼少時代を思い出させる契機だろう。(112頁)
▲堀口大学訳『世界詩人全集8 ヴェルレーヌ詩集』1967
時の鐘――晩祷の時を知らせる寺の鐘。(35頁)
▲『近代詩鑑賞辞典』1969
教会の時を告げる鐘に清らかなりし過去の生活を思い出し、現在を悔い、懐古と感傷の涙を流す(……)(44-45頁)
▲『日本の詩歌28 訳詩集』1976
>また「鐘のおとに」の鐘は死者を弔う鐘であることを注意しておく。(33-34頁)

「死者を弔う鐘」であると断定している。自信満々だ。

▲篠沢秀夫『篠沢フランス文学講義Ⅱ』1980
>この「時が鳴る」というのは、つまり「最後の時」というような意味にも取れますね。そういう何のことを言っているのか明示しないが、そのような苦しみ、悲しい終末への予感、それと悔恨、そして昔の平和な時代へのなつかしみという主題が読み取れます。(320頁)
▲亀井俊介・沓掛良彦『名詩名訳』2005
>「鐘のおと」は、原詩では「時」を告げる音である。それは人の最後の時(死)を告げる教会の鐘の音かもしれない。ともあれ、それを聴いて、詩人は純真な生に満ちていた「過ぎし日」を思い起こすわけで、そこには悔恨に近い感情もしのび込んでいるのだが、訳詩は単純に鐘の音にうながされた感傷が中心になっているように思える。(72頁)

こうしてみると、それぞれの解釈者で若干のずれがあることがわかる。

詩は人生の秋を歌っているので、鐘の音が朝の鐘では合わない。一日の終わりの鐘、つまり、堀口大学が言うように「晩祷の時を知らせる」ものなのだろう。

また、「死者を弔う鐘」であるかどうかは別として、死がヴェルレーヌの詩全体の通奏低音となっていることを考えると、「僕」がこの鐘に自身の「最後の時」を感じるのもあり得るだろう。「息がつまり 顔は青ざめ」るのだから。

鐘のおと」とは?―上田敏の「落葉」の場合

上田敏の「落葉」では次のようになっている。

鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

ヴェルレーヌの「秋の歌」と比べると、「鐘のおと」にただちに「最後の時」を読み取るのは無理があるように思う。

それよりは、鐘の音を聞くことで、時が過ぎてしまったこと、時間はけっして元に戻すことはできないこと、過去の喜びに満ちた時期は二度と戻ってくることがないことを思い知らされ、感傷に浸っているという側面が強いだろう。

落葉は一枚?―ヴェルレーヌの「秋の歌」の場合

第3連はヴェルレーヌの詩の直訳では、次のようになっている。

僕をあちらこちらへと運ぶ
意地の悪い風に吹かれて
僕は立ち去る
あの枯葉のように

この「枯葉(feuille morte=死んだ葉)」は、単数形だ。これにもびっくり。ずっと「落葉」は複数だと思っていたからだ。

篠沢秀夫は次のように述べている。

日本の翻訳で見ると、地面に落ちてる木の葉が、むしろ複数ですね。風に吹かれて、あちこち運ばれているような感じですが、実際にはこれは、垂直に落ちてくるわけですね。一枚の落葉が枝から離れて落ちてくる様を言っている。最後には地面に着いてしまうというところが、いわば死んでしまうという、死をなぞらえるというので(……)」(15頁)
何となく「ここかしこ」というのが、あれどうも逆に日本語では落ち葉が複数のような感じがするんですね。原文はごらんのように単数です。1枚です。単数と考えても、「落葉」と言われると、地面の上にすでに落ちてますね。そうすると、「ここかしこ」というのは、何となく風に吹かれて、地面の上をハラハラハラ、ハラハラハラと、こうなるんですね。あれは、もうぼくはてっきり日本語訳を読んだときは、そうだと思ってたんですね。落ちてる落ち葉が、カサコソカサコソと風であちこち地面の上を運ばれる。しかし、原文で読んでみると、これは垂直降下ですね。つまり、枝を離れた1枚の落ち葉がヒラッヒラッ、こうなりますね。スッと左へ行ったりスッと右へ行ったり、そして最後にストンと落ちるわけですね。(321頁)

「枯葉」が原詩では単数であり、上田敏の日本語訳では複数のような感じがすることは確かだ。だが、ヴェルレーヌの原詩では「垂直降下」で、上田敏の訳詩では「地面の上をハラハラハラ」というのはどうだろう? ヴェルレーヌの原詩でも「地面の上をハラハラハラ」していると考えてもいいような気がする。

篠沢は「枯葉」の「死んだ葉」という原義にこだわっているような気がする。そのために、葉が「垂直降下」して、最後に「地面に着いて(……)死んでしまう」と解釈してしまうのではないか。

もう一つヴェルレーヌの原詩を見て驚いたことがある。それは「枯葉」に"la feuille morte"と定冠詞(la)が付いていることだ。不定冠詞ではない。ということは、「一枚の枯葉のように」ではなく、「あの枯葉のように」ということだ。つまり、語り手の「僕」は目の前に一枚の特定の枯葉を見ている。それが風に吹かれて転がっていく、そんなイメージだと思う。

落葉は一枚?―上田敏の「落葉」の場合

上田敏の訳詩ではどうか。

げにわれは
こゝかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉おちばかな。

篠沢は、「何となく『ここかしこ』というのが、あれどうも逆に日本語では落ち葉が複数のような感じがするんですね」と述べている。

確かにそうだ。だが、「ここかしこ」だけでなく、「飛び散らふ」も同様だ。両者が相まって、何枚もの枯葉が落ち続けているような印象を与えているように思う。

そしてその後に「落葉かな」がくる。

「落葉」は辞書では、

・散り落ちた木の葉。また、散ってゆく木の葉。(デジタル大辞泉)
・散り落ちた葉。(広辞苑)
・散り落ちた葉。また、落ちてゆく木の葉。(精選版 日本国語大辞典)

となっている。つまり、「落ちていく木の葉」という意味もあるが、「散り落ちてしまった葉」という意味が第一義なのだ。

ということで読者は、「ここかしこ(……)飛び散らふ」で、今まさにあちらこちらへと飛び散っている木の葉をイメージしていたのに、最後の「落葉かな」で修正を迫られることになる。地面の上、あるいは石畳の上をかさこそと転がり続ける落葉のイメージへと。

そしてその場合、地面の上を転がるのは1枚というよりは、「飛び散らふ」を引きずっているために、何枚もの葉となる。

ちょっと無理な解釈だろうか? まあ、このあいまいなところが上田敏の「落葉」なのだろう。今まさに散っている何枚もの葉でも、また地面を転がる数枚の葉でもどちらでもいいのかもしれない。

題は「らくよう」と読ませるのに、最終行ではなぜ「おちば」なのか?

さて、次の疑問だ。

上田敏の訳詩では、「落葉」を題では「らくよう」と読ませるが、最終行は「おちば」と読みがなが振られている。同じ語なのにどうして違うのか。何か意図はあるのか。

西原大輔は次のように注を付けている。

題名は漢詩風にラクヨウ。本文は一行五音にするためにも、大和言葉でオチバ。和漢洋一体の翻訳姿勢が見られる。(47頁)

なんだ、これも五音にするためだったのか。単純な理由だ。言われてみれば、なるほど、と納得。

でも、よく考えて見ると、題は五音にする必要はない。「おちば」でもいいのでは? 「和漢洋一体の翻訳姿勢」とのことだが、どうしてそうする必要があるのかがわからない。

思うに、詩の題としては漢語の「らくよう」が格調高い。訓読みの「おちば」はあまりにも日常的で俗な感じがする。逆に詩の中で「らくよう」を使うのは、ものものしすぎて違和感がある。そういう事情もあるのではないか。

ところで、「らくよう」は、辞書では次のようになっている。

・葉が落ちること、また、その落ちた葉。(デジタル大辞泉)
・植物の葉の落ちること、また、その落ちた葉。(広辞苑)
・葉の散り落ちること。また、その葉。(精選版 日本国語大辞典)

「おちば」とは反対だ。「らくよう」にも「落ちた葉」という意味はあるが、第1義は「葉が落ちること」だ。

題では「らくよう」と読ませ、末尾では「おちば」と読ませたこともまた、先に述べたような、今まさに葉が落ちているのか、それとも葉はすでに落ちてしまっているのかを曖昧にした一因になっているだろう。

上田敏の「落葉」の内容のまとめ

以上の検討を経て、上田敏の「落葉」の内容をまとめてみよう。

「われ」の年齢は4、50歳くらいか。すでに人生の盛りを過ぎてしまった男が、老いを感じ、まもなく自分にも訪れるであろう死を予感している。

バイオリンの音色がどこか遠くから響いてくる。ため息のようだ。だが、実際にため息をついているのは自分だ、たぶん。バイオリンの音色が身にしみて、ひたすら悲しい。

教会の鐘の音が聞こえる。夕方になったことを告げている。まるで、おまえの人生もまもなく暮れていくのだと言うように。胸が苦しくなる。喜びに満ちたかつての日々がよみがえる。だが、あのような日々はもう二度と戻っては来ることはないのだ。

枯葉が舞っている。目の前の路上で落ち葉が風にあおられ、吹き飛ばされていく。あの落ち葉が自分なのだ。あの落ち葉と同じく、自分も、落魄の身をさすらわせ、やがて消えていくのだ。

散文にすると詩的感興がなくなってしまうが、これですっきり詩を理解したような気がする。

ヴェルレーヌと「秋の歌」について

最後に、「秋の歌」の背景となっているヴェルレーヌ自身の伝記的事実を一瞥してみよう。

詩の中の「僕(je)」は、4、50歳くらいに思われる。ヴェルレーヌがこの詩を書いたのは何歳だったのか。

「秋の歌」は、『サテュルニアン詩集』(1866)に収められている。ヴェルレーヌがこの詩集を出版したとき、22歳だった。ということは、「秋の歌」を書いたのは20歳前後だったのだ。

びっくり!

詩の中の「僕」は、ヴェルレーヌが創造した人物であって、ヴェルレーヌ自身とは違うということだ。20歳前後の詩人が、4、50歳のうらぶれた男に身をやつし、自身の悲しみと絶望を表現したのがこの詩なのだ。

ヴェルレーヌはどのような思いでこの詩を書いたのだろうか。

『近代詩鑑賞辞典』(1969)には、次のように述べられている。

20歳ごろの、平和なパリ市役所吏員時代の作であるという。(46頁)
後の落魄流浪の境涯とは一応無関係の純粋な文学的産物(46頁)

また、篠沢秀夫も講義(1980)で次のように述べている。

この詩の書かれた時期には、実生活上で苦悩やメランコリーを引き起こすような事件は何もない、健康な、若さに満ちた生活をしているときです。逆にいえば、特定の悩みではなく、青春特有のあてどのないメランコリーを歌い上げたところにこの詩が広く愛されたことの原因があるといえますね。(316頁)

つまり、若い詩人が、老残の身を引きずる未来の自分を思い描いて、メランコリーに浸っているということか?

しかし、ピエール・プチフィスの伝記『ポール・ヴェルレーヌ』を読むと、この詩の背後にヴェルレーヌの失恋があったことがわかる。

1863年の夏休み、19歳のヴェルレーヌは、田舎町レクリューズの従姉エリゼの家に滞在する。エリザは当時27歳で、すでに結婚して二人の娘の母だった。

このときまでの彼はめぐまれた家庭の息子で、人生がもたらしてくれたことに不平を言う必要などなかった。ところがいまや、はじめて苦悩にぶつかり、不幸を経験しようとしている。彼の恋愛事件は素朴でありふれたものだった。レクリューズ滞在中の数週間、従姉エリザ・デュジャルダンへの恋心が燃えあがったのだが、彼女は思いやりを失わぬまましかし毅然とした態度で、その火を消しとめることができた。(40頁)

このプチティスの伝記を踏まえてのことだろう、アンリ・トロワイヤも物語仕立ての別の伝記で、次のように書いている。

この若い女性(引用者補足:エリザ)の青白い顔(引用者補足:流産を経験したばかりだった)や、愛想がよく陽気なその夫の姿を目にし、二人の間に遊びが大好きな二人の娘たち(六歳と七歳である)ができたことを思うにつけ、彼はこの女性と結婚できなかったことで自分は人生を誤ったのだという思いをますます募るらせた。(49頁)

ヴェルレーヌが「秋の歌」で表現したのは、従姉エリザに自分の思いを受け入れられてもらえなかったことによる絶望だったのだ。

おわりに

疑問をあれこれ追究していたら、すさまじく長くなってしまった。反省……。

最後に思い出を少々。

上田敏の「落葉」を高校生のときに初めて読んだとき、「ヴィオロン」というカタカナ表記が珍しかった。誰もがこの音を口にして面白がっていたことを思い出す。面白がりながらも、そこに何かを、現在の自分たちの周囲にはない異国の格調高さのようなものを感じ取っていたように思う。

詩の内容は気に入っていた。秋と人生の終わり、落葉と自分を重ねるところなどは平凡ではあるが、わかりやすかった。自分も年を取ったらこんなふうになるのだろうか、などと思ったりしたものだ。こんなふうに老残の身をさらすことになっても、ちょっとカッコいいかな、とも。

ただ、五音がどうもしっくりこなかった。冒頭の「秋の日の/ヴィオロンの/ためいきの」までは「の」の効果でよく覚えているが、それ以降はあまり覚える気にならなかった。

秋になり、散歩をしている途中で枯葉が落ちるのを見ると、この詩を思い出し、冒頭の3行をつぶやいてみる。

うん、詩っていいな。

補足:ヴェルレーヌの原詩とヨジローの直訳

    Chanson d'automne

Les sanglots longs
Des violons
  De l'automne
Blessent mon coeur
D'une langueur
  Monotone.

Tout suffocant
Et blême, quand
  Sonne l'heure,
Je me souviens
Des jours anciens
  Et je pleure;

Et je m'en vais
Au vent mauvais
  Qui m'emporte
Deçà, delà,
Pareil à la
  Feuille morte.
 秋の歌

秋のバイオリンの
長いすすり泣きが
僕の心を傷つける
単調なもの憂さで

時を告げる鐘が鳴ると
息がつまり 顔は青ざめて
かつての日々を思い出し
僕は涙ぐむ

僕をあちらこちらへと運ぶ
意地の悪い風に吹かれて
僕は立ち去る
あの枯葉のように

★1:吉田精一『鑑賞現代詩Ⅰ 明治』、316頁。
★2:『近代詩鑑賞辞典』、43頁。
★3:『日本の詩歌28 訳詩集』33頁。
★4:梅田祐喜「死と文学」、5頁。
★5:『近代詩鑑賞辞典』、45-46頁。
★6:『近代詩鑑賞辞典』、44頁。
★7:梅田祐喜「死と文学」、6-7頁。
★8:同上、6頁。

参考文献

伊藤信吉・伊藤整・井上靖・山本健吉編『日本の詩歌28 訳詩集』中公文庫、1985(初版1976)

梅田祐喜「死と文学」『静岡県立大学短期大学部研究紀要』13-1号、1999
https://oshika.u-shizuoka-ken.ac.jp/media/13_1_01.pdf

亀井俊介・沓掛良彦『名詩名訳ものがたり』岩波書店、2005
(「落葉」執筆は亀井俊介)

篠沢秀夫『フランス文学案内』朝日出版社、2001増補第2版(初版1980)

篠沢秀夫『篠沢フランス文学講義Ⅱ』大修館書店、2001(初版1980)

関良一『近代文学注釈体系 近代詩』有精堂、1978(初版1963)

西原大輔『日本名詩選1 明治・大正篇』笠間書院、2017(初版2015)

堀口大学訳『世界詩人全集8 ヴェルレーヌ詩集』新潮社、1967

吉田精一・分銅惇作『近代詩鑑賞辞典』、2000(初版1969)
(「ヴェルレーヌ」の項目執筆は三浦仁)

吉田精一『鑑賞現代詩Ⅰ 明治』筑摩書房、1974(初版1966)

アンリ・トロワイヤ『ヴェルレーヌ伝』沓掛良彦・中島淑恵訳、水声社、2006

ピエール・プチフィス『ポール・ヴェルレーヌ』平井啓之・野村喜和夫訳、筑摩書房、1988(原著1981)

Valérie PEREZ: Commentaire de CHANSON D’AUTOMNE, 2003
http://serieslitteraires.org/site/Commentaire-de-CHANSON-D-AUTOMNE

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