カフカの『仲間同士』―共同体というもの
カフカの『仲間同士』を訳し、コメントを付け加えた。
『仲間同士』はカフカによって発表された作品ではない。カフカの遺稿中にあるものだ。カフカの死後、友人のマックス・ブロートが『仲間同士』という題名(★注)で独立した短篇として発表した。
書かれたのは1920年である。
カフカ『仲間同士』
コメント
こういう状況ってありそうだ。こういう六人目のような人っていそうだ。
あるいは、自分がこれまでこの五人のようなふるまいをしたことがあるかもしれないし、六人目の人のような立場に置かれたことがあるかもしれない。
「私たち五人」の結びつきには特別な理由はない。ただ、同じ家から出てきたことが、他の人々に見られたというだけのこと。何らかの些細な偶然、どうでもいい共通性――それが一つの共同体を、それも強固に結びついた共同体を形成することだってある。内在的な根拠など必要ないのだ。そしていったん共同体ができあがると、新たな参入者を強烈に排除しようとする。
テーマとしてはそういうことなのだろうが、特筆すべきは独特のユーモアである。
五人が一人ずつ家から出てきて一列に並ぶところがおもしろい。「水銀の玉」のようだと言われている。現代演劇の一シーンを見ているようだ。
参入しようとする者を肘でつついて遠ざけるというのは、さまざまな些細な嫌がらせを一つの動作にまとめているのだろうが、そのみみっちさがおかしい。
六人目は、共同体の目に見えない結びつきに鈍感で、自分が煙たがられ、はじかれていることに気づかず、いつまでも共同体にくっついている。ちまちまとした嫌がらせを受けつつも、めげることなく、いつも五人に近寄ってくる。
五人の困惑が伝わってきて、読者も思わず、にやりとする。
大上段に振りかぶって共同体の悪を糾弾したものではない。皮肉たっぷりに共同体の性質を風刺したものだ。
注
★注:ブロートがつけた題は、"Gemeinschaft"。直訳すれば、「共同体」という意味だ。新潮社版『カフカ全集2』の訳者、前田敬作はこれを「仲間どうし」と訳した。うまいなあ、と感心。
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