見出し画像

カフカの『仲間同士』―共同体というもの

カフカの『仲間同士』を訳し、コメントを付け加えた。

『仲間同士』はカフカによって発表された作品ではない。カフカの遺稿中にあるものだ。カフカの死後、友人のマックス・ブロートが『仲間同士』という題名(★注)で独立した短篇として発表した。

書かれたのは1920年である。

カフカ『仲間同士』

 私たち五人は友達だ。私たちはあるとき一軒の家から次々に出てきた。最初一人が出てきて、門の横に立った。それから二人目が出てきて、いや単に出てきたというよりは、水銀の玉がすべるように門からすべり出て、最初の男から遠くないところに立った。それから三人目、それから四人目、それから五人目。結局、私たちはみんな一列になった。人々が私たちに注目し、私たちを指さし、そして言った。あの五人が今この家から出てきたよ、と。それ以来私たちは一緒に暮らしている。これで六人目が絶えず干渉してこなければ、穏やかな生活なのだが。彼は何もしないが、私たちには煩わしい。それでもう十分だ。関わりたくないのにどうして押しかけてくるんだろうか。私たちは彼のことを知らないし、仲間として受け入れるつもりもない。確かに、私たち五人も以前は互いのことを知らなかったし、今でもよくわかってはいないと言ってもいい。しかし、私たち五人でなら可能なことや我慢できることも、六人目がいると可能ではなくなり、我慢できなくなる。それに、私たちは五人だし、六人になるつもりもない。そもそも、こんなふうにずっと一緒にいることにどんな意味があるのか。私たち五人でも意味がないが、ともかくもう一緒にいるし、それが続いている。でも、新しくやり直すことは望まない。これまで私たちが積み上げてきたものだってある。こういったことすべてを、どうやって六人目に伝えることができよう。長々と説明すれば、それだけでもう仲間として受け入れたことになる。それで何も説明せずに、彼を受け入れないでおくことにしている。彼がどんなに口をとがらそうが、私たちは彼を肘でつついて遠ざける。しかし、どんなに肘で追い払おうが、彼はまたやってくる。(ヨジロー訳)


コメント

こういう状況ってありそうだ。こういう六人目のような人っていそうだ。

あるいは、自分がこれまでこの五人のようなふるまいをしたことがあるかもしれないし、六人目の人のような立場に置かれたことがあるかもしれない。

「私たち五人」の結びつきには特別な理由はない。ただ、同じ家から出てきたことが、他の人々に見られたというだけのこと。何らかの些細な偶然、どうでもいい共通性――それが一つの共同体を、それも強固に結びついた共同体を形成することだってある。内在的な根拠など必要ないのだ。そしていったん共同体ができあがると、新たな参入者を強烈に排除しようとする。

テーマとしてはそういうことなのだろうが、特筆すべきは独特のユーモアである。

五人が一人ずつ家から出てきて一列に並ぶところがおもしろい。「水銀の玉」のようだと言われている。現代演劇の一シーンを見ているようだ。

参入しようとする者を肘でつついて遠ざけるというのは、さまざまな些細な嫌がらせを一つの動作にまとめているのだろうが、そのみみっちさがおかしい。

六人目は、共同体の目に見えない結びつきに鈍感で、自分が煙たがられ、はじかれていることに気づかず、いつまでも共同体にくっついている。ちまちまとした嫌がらせを受けつつも、めげることなく、いつも五人に近寄ってくる。

五人の困惑が伝わってきて、読者も思わず、にやりとする。

大上段に振りかぶって共同体の悪を糾弾したものではない。皮肉たっぷりに共同体の性質を風刺したものだ。

★注:ブロートがつけた題は、"Gemeinschaft"。直訳すれば、「共同体」という意味だ。新潮社版『カフカ全集2』の訳者、前田敬作はこれを「仲間どうし」と訳した。うまいなあ、と感心。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?