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もう一つ、二つの田園交響楽の接点。超越的なものに対する視点の欠如。人間の有限性と、罪の意識の欠如。 「狭き門」と比して、「田園交響楽」を「広き門」だと評したのはアルベール・ティボーデだったが、それはプロテスタントの中でもシュライエルマッハーから始まる 自由主義的な立場をある意味では「先鋭化」したものと考えれば、啓蒙の時代の音楽的達成としての中期ベートーヴェンの作品である もう一つの「田園交響楽」もまた、それに対応するものであるといえるかもしれない。だが、ジッドのジェルトリュードの視覚に関する配慮の欠如は 啓蒙主義の精神を損なうものでしかない。ジッドは神の問題を人間の問題に置き換えることと自らの営為を定義してみせたらしいが、 肝心の人間の側に対する理解は、いわゆる「人間主義」(ヒューマニズム)の閉域を出ることがない。ベートーヴェンはその後期において、 ヴァルザーの描くブレンターノのように、その閉域を内側に向けて突き抜けたように思われるのに対し、ジッドは内側を拒絶したようだ。ベートーヴェンの後期の音楽の闇には、 だが雨の、流れる水が浸透し、外に滲み出て行く気配が満ちている。その場所を突き止めることは、アドルノのような知性をもってしても 困難だったようだが、ベートーヴェンの音楽は確かに、崇高なものに触れている。
門の通過。クリプトへの下降。ランプ。扉。待機。仮面をつけた一人の男。カトリック。この末尾に「田園交響楽」の末尾のジャックの姿を 重ね合わせることは可能だ。だが、牧師は彼に対して、自らは砂漠で渇きつつ、何と言ったか?
そのようにしかこの結末を書けなかったことこそ、ジッドの限界を端的に徴づけている。彼は限界まで到達することを試みることもせずに、 引き返したのだ。彼は結局、ジェルトリュードに押し付けたあの空想上の風景の中に我を忘れることを自己放棄と見做した。 曖昧な神秘的な感覚への惑溺、自然への同一化の感情を、己を虚しくすることであるとしか考えられなかった。そうした彼が この作品を「田園交響楽」と名付けたことに単なる言葉遊び以上のものがあったとは考えられない。
ベートーヴェンの音楽は牧師が聴き取ったようなものだったろうか?三輪眞弘が、東日本大震災によって惹き起こされた原子力発電所の災害の後、 それに基づいたイェリネクのKein Lichtの日本語版上演の音楽監督を務めるにあたって書いた、「魔法の鏡」と題された文章こそ、 牧師の思い描いたものと、今日の状況との構造的な同型性を告発しているように私には思われる。ヴァーチャルな世界で、罪や悪や死と 直面することを妨げられ、言葉を、歌を奪われた子供が、どういう状況におかれたか、そうした社会的な環境の中で、どのような事件が惹き 起されたのかを彼の「言葉の影、またはアレルヤ」とともに思い浮かべなくてはならない。三輪が定義する「あの世」が何と正確に、 牧師がジェルトリュードに押し付け、ベートーヴェンの音楽に押し付けたものに対応しているかを確認することは、或る種の懼れの感情なしにはできない程である。
ジッドの時代にはまだそれは書物という媒体におけるエクリチュールの効果であった(ジェルトリュードの風景が所謂mise en abymeの技法によって、 「田園交響楽」という作品の核になっていること、その風景が「書物」の比喩を用いて描写されることをもう一度思い起こそう)。そして 「田園交響楽」の時代(物語の設定された時代にせよ、書かれた時代にせよ)と現在とでは、メディア論的な状況は全く異なるのではあるが、 にも関わらず、「田園交響楽」はまさに今日のメディア論的な状況に通じ、今や何倍もの規模に増幅されている事態を提示しているのではなかろうか。