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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(31)

31.

もう一つ、二つの田園交響楽の接点。超越的なものに対する視点の欠如。人間の有限性と、罪の意識の欠如。 「狭き門」と比して、「田園交響楽」を「広き門」だと評したのはアルベール・ティボーデだったが、それはプロテスタントの中でもシュライエルマッハーから始まる 自由主義的な立場をある意味では「先鋭化」したものと考えれば、啓蒙の時代の音楽的達成としての中期ベートーヴェンの作品である もう一つの「田園交響楽」もまた、それに対応するものであるといえるかもしれない。だが、ジッドのジェルトリュードの視覚に関する配慮の欠如は 啓蒙主義の精神を損なうものでしかない。ジッドは神の問題を人間の問題に置き換えることと自らの営為を定義してみせたらしいが、 肝心の人間の側に対する理解は、いわゆる「人間主義」(ヒューマニズム)の閉域を出ることがない。ベートーヴェンはその後期において、 ヴァルザーの描くブレンターノのように、その閉域を内側に向けて突き抜けたように思われるのに対し、ジッドは内側を拒絶したようだ。ベートーヴェンの後期の音楽の闇には、 だが雨の、流れる水が浸透し、外に滲み出て行く気配が満ちている。その場所を突き止めることは、アドルノのような知性をもってしても 困難だったようだが、ベートーヴェンの音楽は確かに、崇高なものに触れている。

Ein Jahr oder auch zwei Jahre vergehen. Er mag nicht mehr leben, und so entschließt er sich denn, sich selber gleichsam das Leben, das ihm lästig ist, zu nehmen, und er begibt sich dorthin, wo er weiß, daß sich eine tiefe Höhle befindet. Freilich schaudert er davor zurück, hinunterzugehen, aber er besinnt sich mit einer Art von Entzücken, daß er nichts mehr zu hoffen hat, und daß es für ihn keinen Besitz und keine Sehnsucht, etwas zu besitzen, mehr gibt, und er tritt durch das finstere große Tor und steigt Stufe um Stufe hinunter, immer tiefer, ihm ist nach den ersten Schritten, als wandere er schon tagelang, und kommt endlich unten, ganz zu unterst, in der stillen kühlen tiefverborgenen Gruft an. Eine Lampe brennt hier, und Brentano klopft an eine Türe. Hier muß er lange, lange warten, bis endlich, nach so langer, langer Zeit des Harrens und Bangens, ihm der Bescheid und der grausige Befehl erteilt wird, einzutreten, und er tritt mit einer Schüchternheit, die ihn an seine Kindheit erinnert, ein, und da steht er vor einem Mann, und dieser Mann, dessen Gesicht mit einer Maske verhüllt ist, ersucht ihn schroff, ihm zu folgen. »Du willst ein Diener der katholischen Kirche werden? Hier durch geht es.« So spricht die düstere Gestalt. Und von da an weiß man nichts mehr von Brentano.

(Robert Walser, Brentano)

門の通過。クリプトへの下降。ランプ。扉。待機。仮面をつけた一人の男。カトリック。この末尾に「田園交響楽」の末尾のジャックの姿を 重ね合わせることは可能だ。だが、牧師は彼に対して、自らは砂漠で渇きつつ、何と言ったか?

Mais je me persuade que dans la conversion de Jacques entre plus de raisonnement que d’amour.

そのようにしかこの結末を書けなかったことこそ、ジッドの限界を端的に徴づけている。彼は限界まで到達することを試みることもせずに、 引き返したのだ。彼は結局、ジェルトリュードに押し付けたあの空想上の風景の中に我を忘れることを自己放棄と見做した。 曖昧な神秘的な感覚への惑溺、自然への同一化の感情を、己を虚しくすることであるとしか考えられなかった。そうした彼が この作品を「田園交響楽」と名付けたことに単なる言葉遊び以上のものがあったとは考えられない。

Je ne lui répondis pas aussitôt, car je réfléchissais que ces harmonies ineffables peignaient, non point le monde tel qu’il était, mais bien tel qu’il aurait pu être, qu’il pourrait être sans le mal et sans le péché. Et jamais encore je n’avais osé parler à Gertrude du mal, du péché, de la mort.

ベートーヴェンの音楽は牧師が聴き取ったようなものだったろうか?三輪眞弘が、東日本大震災によって惹き起こされた原子力発電所の災害の後、 それに基づいたイェリネクのKein Lichtの日本語版上演の音楽監督を務めるにあたって書いた、「魔法の鏡」と題された文章こそ、 牧師の思い描いたものと、今日の状況との構造的な同型性を告発しているように私には思われる。ヴァーチャルな世界で、罪や悪や死と 直面することを妨げられ、言葉を、歌を奪われた子供が、どういう状況におかれたか、そうした社会的な環境の中で、どのような事件が惹き 起されたのかを彼の「言葉の影、またはアレルヤ」とともに思い浮かべなくてはならない。三輪が定義する「あの世」が何と正確に、 牧師がジェルトリュードに押し付け、ベートーヴェンの音楽に押し付けたものに対応しているかを確認することは、或る種の懼れの感情なしにはできない程である。

確認しよう・・映画は芝居ではなく、写真は絵画ではない、しかし、録音された音楽を私たちは音楽と呼ぶ。装置によって複製されるものも、複製されたものも等しく「音楽」と呼ぶ。複製されたものに固有の名がそこに欠落している。そこで、わたしは「録音された音楽」という意味でそれを「録楽」と名付けよう。

確認しよう・・複製可能なものはもちろん、すべて記号である。つまり、「写真は視えない」・・そこに写しとられているものしか視えず、それをわたしが視ている時、写真という物質そのものは消える。等身大とはかけ離れたサイズの、たとえばスマホで視るアイドルも、街頭の大画面で視るアイドルも、わたしは「あのアイドル」だと識別し、そのアイドルの存在を感じる。なぜそんなことが軽々とできるのか?・・それがアイドル「そのもの」ではなく、「ことなる縮尺の地図」と同様、記号だからに他ならない。

確認しよう・・「録楽」もまた記号であることに変わりはない。ただしそれは、地図に喩えるならば、多くの場合「縮尺1:1の地図」である。つまり、「それそのもの」と記号化されたものとの判別が難しい。いや、それは混同しやすいということではなく、頭では区別できていても、どうやら、私たちの心にとってはそうではないらしいという意味だ。

確認しよう・・写真も映像も録楽も「それそのもの」と同等の効果をわたしに及ぼす。スパイ映画でヒーローが危機一髪の窮地に追い込まれればわたしは筋肉を緊張させ汗をかく。それが映画として作為的に作られたものだと知っていても。また、わたしが「いま、ここ」で観ているのは単なる映像だとよく知っていても。わたしは人工的に生み出された幻影を視ていると知りつつ、わたしはそれに自動的に反応する機械のような存在だ。

ここで、視聴覚装置によってもたらされる架空の世界、すなわち、複製可能な記号のみによって成立している世界のことを「あの世」と呼ぶことにしよう。つまり、スピーカーや映像ディスプレイ装置の向こうの世界を「あの世」と、そしてその手前の、わたしが「いま、ここに」いる世界を「この世」と呼ぶことにしよう。わたしは今、モニター画面の前の「この世」で呼吸をしている。

確認しよう・・ディズニー映画からディズニーランドが生み出されたように、現代社会は「あの世」から多大な影響を受け、20世紀「この世」は「テーマパーク」のようになった。つまり、不道徳なものは除いた上で、このテーマパークの中では誰もが、もはや人間ではなく、平等で笑顔で楽しく清潔な「お客様」でなくてはならない。それはアニメ映画のような幼児的世界の模倣である。

確認しよう・・「この世」のすべては「あの世」にすくい取られ、「あの世」の住人、すなわち「幽霊」となる。「あの世」で捏造された人格や出来事のみならず、「この世」のそれらもまた同様に「あの世」に送られ幽霊となる。すべては「あの世」の中で存在を続け、ぼくらは時空を越えて幽霊と共に生きる。わたしは「あの世」の中で「この世」を生きている。

わたしからのメッセージは幽霊となり、あなたに届けられる。ちがう、わたしはあなた宛の幽霊を捏造し、その幽霊にあなたは触れることができる。このテキストもそうだ(可能性として、これをあなたが読む時わたしはもう「この世」にはいないかもしれない)。わたしは遥か遠方の「この世」の痕跡を残したニュース映像という幽霊を視る。わたしは「この世」の痕跡を残した「あの世の音楽」(録楽)を聴く。わたしは10年前の自分の痕跡を残した写真という幽霊を「この世」に呼び戻す。以下同様・・それは、時空を越えて幽霊となった「この世」を映し出す「魔法の鏡」。ただし、驚くべきことに、この「魔法の鏡」には魔術はひとつも使われていない。

(三輪眞弘, 「魔法の鏡または、三浦基氏に宛てた「光のない」の私的パラフレーズ)

ジッドの時代にはまだそれは書物という媒体におけるエクリチュールの効果であった(ジェルトリュードの風景が所謂mise en abymeの技法によって、 「田園交響楽」という作品の核になっていること、その風景が「書物」の比喩を用いて描写されることをもう一度思い起こそう)。そして 「田園交響楽」の時代(物語の設定された時代にせよ、書かれた時代にせよ)と現在とでは、メディア論的な状況は全く異なるのではあるが、 にも関わらず、「田園交響楽」はまさに今日のメディア論的な状況に通じ、今や何倍もの規模に増幅されている事態を提示しているのではなかろうか。

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