芸術と人生
芸術と生活の分裂―確かに。
だが、それが一致するようなことがあり得るのか?
それを悲惨と見做すかどうかはおくとして、それが「矯正」さるべき異常な事態であるかどうかは疑ってみて良い。 近代化―疎外、分化、合理化。だが、日常生活の実践や儀式との密接な結びつきは、回復さるべき何かなのか? そうではなかろう。
現実を何か外的な価値によって断罪する身振りにはどこか独善がつきまとう。そもそも何故、音楽が 現存する「社会」を超越しなくてはならないのか?何故、音楽が社会的機能をもって価値付けされなくてはならないのか? 音楽が、自律的なもの等ではなく、社会的に規定されているばかりか、寧ろ積極的に、その産出から享受に至るまで 社会の中を通過していく社会的な存在であることは、当然のことであって、自律的な美学は批評をする自分がどのように 音楽と対したかというのを単なるエピソードやアネクドットの類に閉じ込めることによって議論の舞台から締め出そうと しているに過ぎない。 自分だけが超越的な視点で作品を眺めることができ、その眼差しを消去することが可能だというのは、全くお目出度い 姿勢だというべきだろう。 だが一方で、脱審美化された美的経験を重視しながらも、聴衆類型論で良き聴き手を囲い込み、非形象的な音楽を 優位におき、更には直接的な感情的応答を超え出た批判的応答を芸術作品の「真理内容」とすることで、 批判哲学の居場所をちゃっかりと星座の中にとっておく姿勢は、それが結局、今、ここには不在の規範的な 「真なるもの」を目がけている点でやはり疑わしいものとなる。
分裂はユートピアにおいて解決されるべき何かなどではないのではないか? アドルノがマーラーの第8交響曲に対して示した両義性―「救い主の危険」―は自分に対しても向けられるものだ。 多分アドルノ自身も自覚していたことだと思うが。マーラーに何か共感できるものがあるとしたら、それは矛盾のうちに、第2,3,8交響曲と第6,9交響曲および「大地の歌」とを同一の人間が書いたという矛盾のうちにある。どれかが他を回収するわけではない。共感は、そのいずれか一方についてのそれではなく、矛盾と感じられるとしても、にも関わらずその両方が共存しうるということそのものの裡にある。そしてユートピアが文字通り、現実に決して場所を持つことがないという認識の下において、分裂は寧ろ不可避なものなのではないのか?分裂が刻印された音楽こそ、現実の最中において、手を差し伸べ、Courage to Be(ホルブルック)を与えてくれるのではないか?Overcoming depression without drugs(スナイダー)を可能にするのは、まさにその矛盾から目を背けようとはしないが故ではないのか?
(2007.12.31公開, 2023.7.7加筆, 2024.7.1 noteにて公開)
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